ミステリにおける意外性

2000.04.29 by SAKATAM



なぜ意外性が求められるのか?

 ミステリに求められる(ことが多い)要素の一つに、“意外な真相”があります。“意外な犯人”であったり、“意外な凶器”、“意外な動機”、果ては“意外な論理展開”というものもあります。

 ミステリが“謎”を中心とした物語である以上、何らかの真相が伏せられたまま物語が進行し、最後に至って何らかの形でその真相が明らかにされる必要があるわけですが、その真相が意外なものであればあるほど、読者に与えるインパクトが強いものとなり、大きな効果をあげることができるといえるでしょう(*)

 ミステリの読者は、驚かされることを好むのでしょうか? それだけではないように思われます。例えば、ホラー映画などと比べてみればわかりやすいのではないでしょうか。ホラー映画の驚きが、どちらかといえば感情・感覚に訴えるものであるのに対して、ミステリの意外性は思考に訴え、思考を必要とするものであるようです。

(*):“意外な真相”がミステリに必要不可欠であるというわけではありません。ミステリには、いわば「びっくり」路線「きっちり」路線があるのではないかと考えています。




意外性の正体は?

 この意外性の正体は何なのか。その手がかりを、ロバート・J・ソウヤー『ターミナル・エクスペリメント』の中に発見することができたのではないかと思います。以下に引用してみましょう。


「ユーモアとは、予期せぬニューラルネットの突然の確立なんだ」
(中略)
「笑いというのは、(中略)脳の内部で生まれた新たな連結に付随する反応だ。つまり、シナプスが、それまでになかった、あるいはめったになかったかたちで発火するということだな。新しいジョークを耳にすれば、きみは笑うだろうし、同じジョークを二度三度ときいたときにも笑うかもしれない――ニューラルネットはまだ充分には確立しないが、どんなジョークでもしばらくすれば使い古されてしまう。(中略)おかしくないのは、すでにニューラルネットが確立しているからなんだ」
(ハヤカワ文庫版280頁より)

 これは、ジョーク・笑いの構造を分析する場面です。それまで連結していなかった二つの事項が、ジョークによって突然関連づけられ、その予期しなかった関連を理解したとき、笑いが生じるのではないかと分析されています。そして実は、この機構こそがミステリの意外性にまったくそのままあてはまるのではないかと思われます。

 意外な真相を持つミステリでは、提示された手がかりと事件の真相とが、解決の場面で突然連結されることになります。この連結を理解できたときに、読者の脳内ではシナプスが新たなパターンで発火し、それが一種の快感につながるのではないでしょうか。

 すなわち、ミステリの意外性はジョークと同じ構造を持っていると考えられます。




意外なだけでは……

 ところで、真相が意外なものであっても、必ずしも読者を満足させることができるわけではないようです。読者が満足するかどうかを左右するのは、一体何なのでしょうか。

 ここでは、清涼院流水『コズミック』を例にとってみたいと思います(*)

 『コズミック』の犯人は、(以下伏せ字)松尾芭蕉(ここまで)です。この真相を意外だと思わない人はおそらくいないでしょう。ところが、この真相については、一般的には決して高く評価されているとはいえないようです。個人的にも、意外ではあるものの、さほどよくできているとは感じられませんでした。これはなぜでしょうか。

 前節では、ミステリの意外性のポイントは、ニューロンの予期せぬ連結にあるのではないかと述べました。ここでのキーワードは“連結”です。

 例えば、特殊な予備知識を必要とするジョークを考えてみましょう。この予備知識を知らない人は、このジョークを楽しむことができません。なぜかといえば、予備知識を持っていないために、ジョークを聞かされただけではニューロンの連結が起こらないからだと考えられます。そして、ここで予備知識を含めて詳しく説明を受けても、すでにニューロンが刺激を受けているために、使い古されたジョークと同じ状態になってしまうのです。

 『コズミック』の真相についても、同じことがいえるのではないかと思います。意外な犯人であることは確かですが、その正体があまりにも唐突であるために、“事件の犯人”(以下伏せ字)“松尾芭蕉”(ここまで)とが、瞬時に強く結びつかないのです。したがって、シナプスが発火することができず、満足感が得られないのではないでしょうか。

 このように、読者を満足させ得る意外な真相とは、単に意外なだけではなく、その構図が瞬時に理解できる程度のものでなければならない、すなわちある程度の説得力・必然性が必要になるということではないでしょうか。これは相反する困難な要求であるようにも思われますが、これをクリアーするための描写、そして手がかりの配置といったところが、作者の腕の見せ所となるのでしょう。

(*):『コズミック』がミステリに含まれるのか、という疑問はパスします。あくまでも『コズミック』をミステリとしてみた場合にどうなのか、ということです。




意外性の未来は?

 さて、このようなミステリの意外性には、どのような未来が待っているのでしょうか。

 同じジョークを繰り返すことで使い古されてしまうように、同じような意外性は読者に飽きられてしまう危険性があります。このままでは、意外な真相を核とする本格ミステリの未来は、明るいものではないと考えざるを得ません。これを回避するためには、どのような手段が考えられるでしょうか。

 一つの手段としては、以前の作品を踏まえ、意外性を生み出す機構を複雑化していくことが考えられます。しかしながら、複雑なジョークが理解されにくいように、複雑高度な意外性も読者に理解されにくくなる可能性があります。特に、ミステリに慣れていない新規読者を獲得することが困難になると考えられます(*)。マニアには受け入れられるかもしれませんが、やはり戦略的に問題があると思われます。

 他にはどのような手段があるでしょうか。この文章では、前節まで、ミステリの意外性とジョークとの関連について述べてきました。したがって、ミステリの意外性の未来についても、ジョークに学ぶことができるのではないかと考えられます。

 ジョークはどのように生き残ってきたのでしょうか。その長い歴史の中で、新たなパターンが生み出されてきたのはもちろんですが、むしろ時事風俗など新たな要素を取り込む、すなわち連結するための新たな材料を手に入れることによって、新たな笑いを作り出してきたのではないでしょうか。

 これに学ぶとすれば、やはり同じように新たな要素を取り込む必要があるでしょう。これは、いわゆる“本格コード”からの単なる脱却を意味するのではなく、意外性を作り出す機構として、新たな要素を積極的に取り込んでいくということです。具体例としては、西澤保彦の一連の作品、さらにはロバート・J・ソウヤー『ゴールデン・フリース』などのようなSFの要素、あるいは霞流一の一連の作品のような、笑い・ギャグといった要素が考えられるでしょう。いずれの作品も、ミステリに新たな可能性をもたらすものと言えるのではないでしょうか。

 これら以外にも、色々な可能性が考えられると思います。今後は、一体どのような意外性が作り出されていくのでしょうか。注目していきたいと思います。

(*):考えてみれば、新本格ミステリと呼ばれた一連の作品、特に初期のものは、“新本格”と銘打たれながら、実態はかなり古典作品に近いわかりやすさを持っていたと思います。これら新本格ミステリは、そのわかりやすさによって、ミステリが新たな読者を獲得することに大きく貢献したのではないでしょうか。



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