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    1.ファイラン浮遊都市    
       
(12)

  

 五日振りに見たハルヴァイトは、執務室の応接スペースに置かれている小さめのソファの上で、顔に腕を翳し寝込んでいた。それを真上から覗き込み、しばらく待っても目を覚ましそうにないので、足音を忍ばせ離れようとしたドレイクが、彼の携帯通信端末がテーブルの上に放り出されているのに気付く。

 その画面に、送信し終えた短い文章が点滅している。

『今日の夕方戻ります』

 返信は、ない。

 文字通信ではなく画像付きの電信でもいいはずなのに、ハルヴァイトがそれをしなかった理由を、ドレイクはミナミから聞いていた。

   

「俺があのひとの恋人でいるのは、三ヶ月だけなんだよな。そういう事に最初から決まってた。だから…俺は出ていかなくちゃならない…のかもしんねぇ」

   

 きっと、ファイランで一番恐れられている電脳魔導師は、誰も出ないかもしれない電信を恐れたに違いない、とドレイクは微かな溜め息を吐く。

 ふたりが話し会う機会を逃したのは、多分自分のせいだ、と判っている。でも、ドレイクは自分も、ハルヴァイトを家に帰そうとしなかった…ある人物も、恨まなかった。

 ミナミを訪ねて少し話した日、最後に彼はドレイクにこう言った。

   

「ミラキ卿さ…、あのひとを傷つけない覚悟がないなら出てけ、なんて言ってたけど、俺には、引き留めに来たようにしか見えねぇんだけど?」

   

 ミナミは言って、からかうように薄く笑ったはずだ。

 その意味は深い。

 知っていいのは、きっとハルヴァイトだけだろう。

 だからドレイクはそれ以上ミナミに何も訊かず、「そうなのかもな」と曖昧に答えて、別れた。

 言いたかった事があった。結局、言えなかったけれど。

 でもきっと、ミナミは…判っているだろう。

「…頼む、ミナミ。ハルを、助けてやってくれ…」

 あの、柔らかな笑顔で…。

   

   

 ゆっくりと目が覚めた。

 どのくらい寝ていたのか、はっきりとは判らない。

 しかも、一週間近く家に帰れず、一日十時間以上電脳陣を張ったまま駆動系の防衛型攻撃プログラムを一から書き換えていたせいで、かなり疲労困憊、といった自分に思わず失笑が漏れた。

「……自業自得…かな」

 ミナミと、契約の三ヶ月が終わったらきちんと話をしなければならなかった。その上で、ずっと側に居て貰いたいと思っていたのに、ドレイクに悪さをして…ある人物の怒りを買ってしまった。

 だから、ミナミと話し合う機会を逃した。

 ごそりとソファから身を起こし、弛めていたネクタイを締め直す。きっと部下達は疲れているハルヴァイトに気を遣ってくれたのだろう、今は、執務室にひとりきりだった。

 疲れた溜め息を吐いて、背凭れにかけていた深緑色の長上着を羽織り、ベルトも締めずにだらしない恰好で立ち上がる。結っていた髪が乱れているので革紐を解き、面倒なのでこのまま帰ってしまおうかと考えたが、服装規定に引っかかりそうなので、諦めて身支度を始める。

「? あぁ、目が覚めたのね、ハル…」

 執務室に備え付けられた姿見の前で長上着の前をきっちり合わせ、黒革のベルトを巻き終えた途端、ドアが開いてアリスが顔を覗かせた。それに「はい」と胡乱に答え、膝まである上着の裾を捌いて振り返ると、なぜか彼の背後に、小隊の全員がにやにやしながら整列している。

「? どうかしたんですか?」

 髪を括るのが、面倒。だからハルヴァイトは、革紐をポケットに突っ込んでから白手袋を嵌めつつ、不思議そうに首を傾げた。

 暗い光沢を纏った鋼色の髪が、さらりと揺れる。

「疲れてんのは判んだけどよ、ハル。今、何時だか知ってっか?」

 ドレイクの意地悪な笑いに問われて、ハルヴァイトは腕のクロノグラフに視線を落とした。

「…もう一九時を回ったんですね…。で? なんであなた方はお帰りにならなかったんですか?」

「そりゃぁ、小隊長の慌てる顔を見逃す手はないからですよねぇ」

「? わたしの??」

 何の話? と視線で訊ねられ、アリスが…ついに吹き出す。

「もっかい訊くけどよ、ハル。今、何時だ?」

「? だから一九時…一三分です」

 では、こちらへどうぞ。とわざとらしく言ったドレイクに無理矢理アリスの席に押し込まれ、ますます訝しそうに辺りを見回す、ハルヴァイト。

「もうちょい…」

 腕を顔の高さに上げて、ドレイクが自分のクロノグラフを見つめる。その顔も、訳が判らなくてきょときょとするハルヴァイトを見つめている部下の顔も、みな一様に弛みまくっているのは非常に気になるのだが。

 が、なぜそうなのか、皆目見当も付かない。

「えーと…。?」

 肩を震わせて笑っているアリスに困惑した顔を向けた途端、通信端末に外部から着信。それに戸惑うハルヴァイトに、部下全員が「出ろ」と手で示す。

 がなり立てる電子音。誰もがにやにやしてばかりで、出ようとしない。

 だから、仕方がないから、回線をオープンに…。

『…なんだ、やっと目ぇ醒めたんだ…。つうか、アンタさ、今何時か知ってんの?』

「………………! ミナミ!」

 椅子を蹴倒して立ち上がったハルヴァイトが、青くなって叫んだ。

『…』

「どうして…」

『どうしてって、…アンタが今日帰ってくるつったんだろ?』

「…それは」

『愚かにもそれを信じて、俺はもう一時間以上城壁の外で待たされてんだけどな…』

 言い捨てて、ミナミは盛大に溜め息を吐いた。

『帰っていい?』

「ダメですっ!」

 即答。背後で、部下が大爆笑。

 そう大きくない端末の向こうで、ミナミも微かに笑う。

「五分で着きます。だから…どこへも行かないでください」

『………判った』

 それを確認するなり、ハルヴァイトは執務室を飛び出した。

「ミナミ」

 ハルヴァイトに代わってドレイクが声を掛けると、ミナミがちょっとはにかんだように微笑み、小首を傾げる。

「……ハルを…」

『ミラキ卿』

「? なんだ?」

 ドレイクを遮ったミナミは、いつものように素っ気なく、でも、どこかふわりとした笑顔で一言だけこう告げた。

『後ろで笑い死んでる皆さんにもよろしく。じゃーな』

 唐突に切断されてブラックアウトした端末の画面からそれぞれ視線を外したハルヴァイトの部下達が、ドアを開けっ放しで走り去った上司の、既に見えない背中を探すよう廊下に顔を出す。

「さっきまで疲れて死んでたの、誰だっけ?」

「まさに、いっぺんで疲れも吹っ飛んだという感じですかー?」

「まぁ、判んだけどね…大将の気持ちもさ。あんな綺麗なコ待たしてんじゃぁ、疲れてる暇じゃないだろうからね」

「それにしても…」

 と、不意にアリスが吹き出す。

「あのガリュー小隊長が、大通りのど真ん中で恋人に抱きついてる姿ってのも、不気味よね」

 あはははは、と声を上げて笑う部下達を見つめたまま、ドレイクはちょっと複雑そうに呟いた。

「…そりゃ、ねぇよ。絶対。…今は。って言えりゃぁ、いいけど…」

   

   

 王城の通用門を潜って姿を現した長身の男が、周囲を寄せ付けない冷え切った雰囲気を纏ったまま通行人や他の下城者を躱わし、フローターと呼ばれる浮遊型の移動車両が行き来する通りを一直線に突っ切って、大通りを渡る。

 彼の目指す反対側の歩道には、往来の間中にぼんやりと佇む青年。

 鋼色の髪と鉛色の瞳を持った男は、素晴らしい金髪とダークブルーの瞳をした青年の直前まで来ると、まるで自然に、通りすがるように、その青年の唇に自身の唇で触れた。

 ……手を握り合う事もなく、抱き合う事もせず、唇でだけ…そっと。

「ミナミ…、このままずっと、わたしの側にいてくれますか?」

 男、ハルヴァイト・ガリューの問いかけに、青年、ミナミ・アイリーは、少しだけ目を眇め、少しだけ唇に笑みを乗せて、どこかしら不安げな「恋人」の唇に、素っ気ないキスを返しただけだった。

2002/06/12 goro (2002/07/02:2005/07/11訂正)

  

   
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