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スーシェ・ゴッヘル(@)

   
         
心配だらけで自分の事に気が回らない。

  

 いつの間にこんな波瀾だらけの人生を歩むハメになったのか。と本気で憂鬱な溜め息を吐き付けたモニターの向こうで、「同感だな」とその男は答えた。

「それで、アンくんの方は…」

『ああ。さっき部下を見に行かせたんだが、ちょっと眩暈を起こして医務分室に運び込まれただけらしい。特に問題はないそうだから、少し休むように伝えさせた』

 モニターの向こうで難しい顔をしているヒュー・スレイサーから、アンの様子に付いて連絡を受けたスーシェが「お手数おかけします」と小さく頭を下げると、逆にヒューの方が慌てた。

『いや。事務官の仕事のほかにもいろいろ忙しいゴッヘル卿に気を使わせてしまって、済まないな。というのは多分ガリューかミラキが言うべきところなんだろうが、まぁ…事情が事情であっちも大変そうだし、一応俺が言っておくよ』

 電脳魔導師隊第九小隊執務室で事務官としての職務に着きながら、スーシェはもう一度小さく溜め息を吐いた。

「イルくんの様子は自分で見に行けるけれど、まさかアンくんは…デリが心配してたから、という理由は通用しないしね。今登城しているのはぼくとギイル連隊長、それにスレイサー衛視だけだから、なんとか…サポートしてあげないと」

『それなんだがな、ゴッヘル卿。さっき…アンくんが分室に運ばれてすぐ、俺のところにエスト卿から電信が入って、以後アン・ルー・ダイに「監視」を着けるようにと通達があった。これは…何か都合の悪い事なんだろうか?』

 任務の確認に来たらしい部下を手で追い払ったヒューが、小声でスーシェに訊ねる。こちらも通常職務中なので大袈裟な反応は出来ないものの、訊ねられたスーシェは一瞬目を見開き、唇を閉ざした。

 考えられる事は、ふたつしかない。

「…すみません。午後から訓練校の方に出向くんですが、スレイサー衛視…その時ちょっと、来られませんか?」

 一呼吸だけ迷って、スーシェはそうヒューに伝えた。

『了解だ。エスト卿の電信の後、その旨室長に報告して許可を得ている。

 アンくんの見張りは「当然」俺の仕事らしいからな。一緒で構わないか?』

 当然、という言い方が可笑しかったのか、スーシェはそこでやっと硬い表情を崩して朗らかに笑って見せた。

「いいですよ。アンくんの様子も見たいので、是非」

 午後に訓練校で会う約束をして、電信を切断。ブラックアウトしたモニターにかなり複雑な顔を向けてから、スーシェはがっくりとうな垂れた。

「……一週間…。通常から考えれば嘘のように早いけれど、デリがガリューに聞いてきた通りにアンくんが一日最低八時間演算し続けていたんだとしたら、第四層まで構築が終了し、一旦臨界から強制切断された可能性は高い…」

 出来ない訳ではない。ハルヴァイトの言い方に問題はあったにせよ、それは無理ではないのだし、一日四時間以上演算して顕現までの日数を短縮した前例もあるのだ。

「それでも、六十時間弱? 第四層の再構築なら問題ないけれど、三層の構成エラーで弾き出されたのだとしたら…」

 臨界が、AIコアに接触するためのアカウントをハネて来たのだとしたら…か?

「四層目にコアが置けなければ、アンくんは…」

 どうするんだろうか。とスーシェは。

 不安で仕方が無かった。他人の心配をしている場合ではないと判っていても、仕事も手に着かない。イルシュは毎日動き回る制御系魔導機を眺めているだけ。アンは現実面で動作プログラムも接触陣の立ち上げ訓練もせず、演算の確認をしてばかり。元々あのハルヴァイトと関わっているのだから一般的な行動を取って貰えるなどと期待してはいなかったが、ここまで「何もしていない」連中も珍しい。

「…しかも、イルくんは十五歳で、アンくんは十八歳だろう? いいのか、あんな若いうちから…ガリューみたいになっちゃって」

 いいのかもな。と…諦めるしかないのか?

 本当にデリを尊敬するよ。ともう一度深い溜め息を吐いたスーシェがデスクに沈みそうになった刹那、執務室のドアがノックされ、答える間もなく開け放たれたではないか。

「スーシェ・ゴッヘル事務官は在室か」

 言いながら入って来た第十小隊の制御系魔導師を目に、スーシェは「もうカンベンしてくれ」と…内心泣きたくなる。

「ぼくに何か? マイクス・ダイ魔導師」

「話しがある」

 マイクス・ダイ…あの臨時議会の日、アンの警告を無視して医務分室に担ぎ込まれたダイ家の世継がいやに神妙な面持ちで言い、スーシェは、本気でデリラに助けを求めたくなった。

「ダイ卿。厄介事ならご遠慮願いたいのだが?」

 仕方がないのでスーシェは、そこだけゴッヘル卿らしく、…ハルヴァイトの足下に及ばないまでも、ちょっと、偉そうにしてみた…。

            

         

 まさか執務室から全員を追い出す訳にも行かないのでスーシェとマイクスの方が部屋を出て、二階の階段傍、ちょっとした喫茶スペースに腰を据える。

 マイクスは煮詰まっていかにも不味そうなコーヒーをスーシェに示して見せたが、彼はそれを丁重に断り、代りに桃の匂いが甘だるく香るフレーバーティーを頼んだ。

 紅茶は匂いがキツく、コーヒーは泥のように煮詰まっていて、気持ちは…重い。

 ティータイムというより拷問だ。

「それで…個人的なお話というのは?」

 結婚の相談なら断る、とかなんとかボケてやろうかとも思ったが、気力が着いて来ない。だからスーシェは大人しそうな白皙に微かな疲労を滲ませ、短い溜め息を吐こうとした。

「ゴッヘル卿…そんな憂鬱そうな顔しないでくださいませんか…」

「…。すまないが、先日から周囲が騒がしくてね。あの…臨時議会の日は全て覚悟の上だったものの、その後が少々よろしくないもので」

 理由心労で休暇を請求しよう。とスーシェはマイクスの顔を見ながら思った。色の薄い金髪に薄い緑の瞳、という色彩はアンと似ていなくもないが、吊り上がり気味で睫の長い一重瞼の双眸が全体の印象を悪くしている。

 よろしくない。

 よろしくなさ過ぎ。

 せめてもの救いは……。

「…………………。ちっとも救いじゃない…」

 スーシェはついに、紅茶のカップを両手で握り締め、がっくりうな垂れて深く深く…ああ、これ以上底はないさ、というような溜め息を吐いた。

「先に、ゴッヘル卿の人生相談に乗った方がいいですか?」

「…結構です。さすがのぼくでも、家庭内のバカ話しを他人に披露するほど自虐的にはなれないから」

 バカ過ぎ。

「とりあえず、父と兄と絶縁する日は近い…」

「に…二度目?」

 一度は放逐されたらしいスーシェが何らかの理由でゴッヘル家に「戻りそうだ」という噂は、既に貴族会で囁かれている。というか、スーシェの…どうして「兄」というのはどいつもこいつもああなのかと言いたくなる程弟に甘い…兄が、「スゥは無駄に立派な伴侶と一緒に屋敷に戻って来る」と言いふらしてしまったのだから、囁かれている所の騒ぎではないのだが。

 その話しは…今は忘れよう、とスーシェは引きつった笑いをマイクスに向けて「それで?」と彼の話しを促した。厳格な父も歳を取った、とか、兄は寛大だ、とかの綺麗事を言わないのであれば、あれはただの…バカだ。

 せめてもの救いは、父と兄と母が、デリラとの婚姻をやっと喜んでくれた事か。

「…実は、その…アンが…」

 それまでのだらけた気分がいっぺんに吹っ飛ぶようなマイクスの沈鬱な声に、スーシェは知らず背凭れから身体を浮かせていた。

「…………。すまない。先に言わせて貰うが、ダイ卿…ぼくを、失望させるなよ」

 そう呟いたスーシェを、マイクス・ダイが愕いた顔つきで見つめ返す。普段はほんのりと優しげで美しいひとだが、この時のスーシェはまさに、貴族を抑えつけるために上に立つ教育を受けたゴッヘル家の者として堂々と、マイクスを叱るように言い放ったのだ。

「いいえ、ゴッヘル卿。

 ダイ家の嫡子として、そのような愚行は犯さないものだと思っていただきたい」

 酷薄そうな薄緑の瞳でスーシェを見つめ、マイクスは内心震えた。穏やかな印象のスーシェでさえ、威厳ある物言いだけでこうも周りの空気を一変させるだけの資質を持ち合わせている。ではこれがあのドレイク・ミラキだとかハルヴァイト・ガリューだとかであったなら、どんな恐ろしい事になるのか。

 そう思うから、思ったから、マイクスは恥を忍んでスーシェを訊ねた。

 刹那睨み合い、ではどうぞ、と再度促されて、マイクスが頷く。

「アンが、魔導機の顕現に入ったというのは本当ですか?」

「…本当だ。正式な通達ではないので、これ以上詳しくは言えない」

「では、ゴッヘル卿が新設される魔導師隊の小隊長に昇格なされると言うのは?」

 続いた言葉が意外で、スーシェはちょっと眉を寄せた。

「…明言は避ける」

 新設されるのは「衛視団電脳班」であって、魔導師隊ではない。なのにマイクスの確信的な言い方はどうか? と一瞬浮かんだ疑念は、すぐに消えた。

 多分、クラバインだろう。

 訓練校の方ではイルシュが行動を起こしているし、謹慎中ながらアンは毎日登城して来る。それに、その他の準備もあるのでギイルも殆ど毎日特務室に顔を出しているとヒューが言っていた。

 だとしたら、おかしな噂が立つ前に適当に情報を流し、興味本位のその他大勢を黙らせる。どの程度真実を明かしどれを曖昧な噂にしておくかは、元来そういった情報操作を一手に引き受け慣れている、クラバインの裁量か。

 いつでも真実だけが正しい訳ではない。

 そしてスーシェは今から、それをイヤと言うほど堪能するハメになるのだ。

 奇しくも、欺く相手は…陛下である。

 出世したもんだな、ぼくも。と…思った。

「ありがとうございます。

 それではゴッヘル卿…。卿が抜けた後の、第九小隊の事務官選出権限は?」

 マイクスは、色の薄い瞳でじっとスーシェの白皙を睨み、殊更淡々と、わざとのように淡々と、そう続けた。

「……………それは…」

 挑むような視線の真意が判らず、ではなく、スーシェが、思わず言葉に窮する。

「ゴッヘル卿?」

「それ………は…」

「それは?」

 そ……れ、は。

「……忘れてた!」

 両手で包んでいたカップを小さなテーブルに叩き付け、スーシェは今度こそ本気で悲鳴を上げてしまった。

「忘れてた! ああああああ。そうだったんだ! ぼくが抜けた後の事務官は、イムの件があるので、ぼくが決めて大隊長に報告し、一応、面接に立ち会って貰うんだった!」

 周囲ばかり気になって自分の事は後回し、というか、殆ど今日この時まで全くそれに気付いてもいなかったのだ、スーシェは。

 期日はいつだったかさえ定かでない。確か、それも二週間? アンが魔導機顕現に成功し、イルシュが相棒を決めるのと同時に、スーシェも「スペクター」を呼び出して階級の再取得を認めさせなければならず、グランの許可が得られた所で即時次の事務官に辞令を交付し、第七小隊小隊長として正式にあの緋色のマントを受け取るまでには、仕事の引継ぎを終わらせなければ…ならなかったような…。

「どうしよう」

 全然考えてなかった。

 第九小隊のイムデ・ナイ・ゴッヘル小隊長は、対人恐怖症で人見知りが激しく、部下に指示も出せない。小隊長クラスの魔導師だというのにそれ以外は惨憺たる有様とはまさにこの事で、普段はスーシェの陰に隠れて泣いてばかりだった。

「ダイ卿に感謝する…。大事な仕事をひとつ思い出したよ、やっと」

 苦笑いと溜め息でそう力なく呟いたスーシェに、マイクスが複雑な笑みを向ける。

「……その事務官候補をひとり、ご紹介申し上げたいのですが…」

「え?」

 意外な事続きで惚けたスーシェの顔から目を逸らしたマイクスが、一度深呼吸し、「ゴッヘル卿」と改めて彼の名前を呼び直す。

「現在行政窓口の受付業務に従事している者で、人当たりもよく見た目の印象も悪くない。行政機関からの登用で軍の事務官という仕事には不慣れでしょうが、ですから逆に、ナイ卿も親しみ易いのではないかと」

 身体ごとスーシェに向いて真剣に話すマイクスの、緊張した面持ち。

「…メリル・ルー・ダイ…といいます」

 今日最大の、意外。

 スーシェは思わず目を見開き、誰? と訊き返してしまった。

「アンの、二番目の兄です」

 ダイ家は、一族末席にあるルー・ダイ家をあまりよく思っていない。と貴族会でよく言われていた。スーシェに言わせればまだまだだろうが、ダイ家もそれなりに由緒正しく、しかし、系統のルー・ダイ家から今まで「まともな」魔導師が出たのは、何代も前にひとりだけなのだ。それを一族は「恥じ」だといい、そう言われ続けてきたルー・ダイ家はすっかりと卑屈になってしまっているらしく、確かに、以前アン少年もそんな事を言っていた。

 実際、マイクスもアンを大いに見くびっていたり、マイクスの弟のなんとかいう警備兵(スーシェはタイスの名前を知らない)も、事あるごとにアン少年に突っかかってたりしている。

 だから、意外だった。

「それは何? 冗談? それとも…臨時議会の日に…」

「いいえ…ゴッヘル卿。そう思われても仕方がないと反省しています。が、断じてそうではないのです。

 実は昨日帰宅した際、アンの長兄…父の秘書として屋敷勤めをしているセリスに、アンが正式に魔導師になるとの噂を聞いたが、どうなのかと訊ねられまして。わたくしはそれを知りませんでしたもので、判らない、と答えたのです」

 一瞬浮かせた腰を椅子に戻し、スーシェが小さく頷く。

 マイクスは、酷く落ち込んだ顔をしていた。

「そこでセリスは、「そんな訳がない」と…言ったんです」

 安っぽいパイプ椅子に小さくなった、マイクス。

「あのコにそんな才能などある訳がない。今まで魔導師隊から放り出されなかっただけでも十分だ。と…実の兄に…アンは言われたのです」

 三流の貴族の、末っ子魔導師。聞けば、アン少年の訓練校時代の成績は、お世辞にもいいとは言えないそうだ。

「わたくしは始めてその時、一族を恥じました。そう言わせてしまった自分を恥じました。父を、なんて恥ずかしい人間なのだと思いました。

 それ以上に、アンが…。一族の、というよりは、同じ魔導師として、アンが…哀れになったんです」

 必死に。

 必死に。

 訓練校での魔導機顕現も待たずにあのハルヴァイト・ガリューを選んで魔導師隊に編成願いを出し、自宅に帰らずたったひとりで官舎に住まい、あの騒ぎの多い第七小隊と一緒に衛視になろうと必死になっているのに。

 健気に笑って、辛そうな顔など微塵も見せずに。

「アンは、もうニ年も屋敷に戻っていないそうです」

 魔導師になるまで戻らない、といって出て、二年…。

 十六歳のアン少年は、どんな思いで家を出たのか。

「あの臨時議会の後、医務室にいた間、わたしは考えました。アンに才能がないのではなく、わたしたちに…見る目がなかったのだと、ようやく判ったのです」

 なのに頭の悪い弟がアン少年に食って掛り、偶然現れた衛視にこっぴどく叱られてその場は事無きを得た。とマイクスは本当にすまなそうに言った。ついでに、その暴挙を責めて弟をひっぱたき、勢い父親と散々言い争ってから数日、顔を合わせても口を利いていない、と恥ずかしそうに付け足したが。

「…それで、なぜアンくんの兄上を事務官に?」

 アンに頭を下げるとか、彼が屋敷に戻れるようにするではなく、なぜそこで兄を事務官に推挙なのか、と厳しい顔つきで問いただしたスーシェに、マイクスは固いながらも確固たる意思を持った笑みで答えた。

「謝れば済む、許して貰えて馴れ合えばいい、ではありません。だからわたしは考えました。考えて、思った。

 アンの家族にも、今までアンがどういった環境に耐え、どういったひとに支えられ、本物の魔導師になったのか、それを見せてやるべきだと。

…もちろん、アンが正式に魔導師階級を頂いたら真っ先に謝りに行くつもりですが…」

 お前の弟は、あんなに凄いんだよ、と…。

「内定なので、秘密にしてくれる? マイクス」

 スーシェは、ほっそりとした指を立てて唇に当て、ほんのりと優しげに、不安そうなマイクス・ダイに微笑んで見せた。

「アンくんはね、魔導師になるのと同時に衛視に…なるんだ。…まだ、内緒だけどね」

 それを聞いて、マイクスは目玉が零れ落ちそうな程目を見開き、それから、スーシェの手を握って引っ張り寄せ、「大変だ! お祝いしなければ!」と彼を抱き締めて悲鳴を上げた。

                

 その後三時間ばかりの間、ゴッヘル卿に浮気疑惑が持ち上がったのは、言うまでもない。

  

   
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