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14.機械式曲技団

   
         
(30)

  

 ドアの向こうの足音が消える。

 乱雑に跳ね狂う文字列のどれが何を示すのか、少年には判らなかった。いや、冷静になって教えられた通り情報を整理すれば判ったのだろうが、それが出来ていないのか。

 不意に、死んでいた壁面のモニターが復旧し、見覚えのある風景を映し出す。少し前、この施設に入る直前に見たサーカス・ブロックは灯りが消えていたような気がするが、今はそこでネオンが踊っていた。

 音はない。

 文字列がうるさい。

 雑音が酷い。

 少年はいつもそうであったようにモニターの前にぼんやりと立ち、天井を、モニターを、壁面を、閉ざされたまま開かないドアをゆっくりと見回して、がたがた震える両手で顔を覆った。

 どこからが夢でどこまでが現実なのか、だったのか、よく判らない。全部夢で、今ここにこうしている自分も夢であって「イルシュ・サーンス」というデータでしかなく、「自分」はそれを観測しているだけの機械装置かもしれないとさえ思える。

 全身を痙攣させた少年が喘ぐように唸ると、頭上で真っ赤な炎が燃え上がった。その炎は乱舞する無意味な文字列を焼き尽くそうと天上付近を舐めるようにうねったが、文字列は消えてくれなかった。

 声を上げるという思考は働かなかった。音声も所詮データであり、平面を表すものより構成が複雑で容量も食っているが、とどのつまり、データでしかない。

 外に出たい。

 痛切にそう思う。

 いつも思っていたし、今も思っている。

「イルシュ・サーンス」は外の世界を知っていた。真白い鳥が煌く天蓋の向こうとこちらを飛ぶのを見た。それから、「イルシュ・サーンス」と同じ目線で話したひとの、鳥と似た真白い髪と曇り空そっくりの灰色の目を思い出す。データ。そのデータと連結して、ごちゃごちゃに混ざり合った「映像記録」が唸る少年の周囲に展開し、少年は、その中で笑う「イルシュ・サーンス」を冷静に観察した。

 世界の始まりは踊る文字列と半透明な陽炎、その向こうから冷たく見つめてくる鉛色の目だった。突き付けられた銃口、抵抗する真っ赤な龍、無表情に舞う悪魔…。壮麗な城や、大勢の兵士たち、深緑色の制服を纏った魔導師たち。立派な屋敷を走り回る「イルシュ・サーンス」を周りの大人たちは、許し、叱り、時には諭して、最後に笑顔を向けてくれる。

 羨ましいなと少年は思った。

 例えそれがデータであっても、ただ観測するだけの「自分」よりもずっと幸せそうに見える。

 そこに行けないのだろうか。

 少年は、がたがた震える手を伸ばした。

 歪んだモニターに指先が触れると、データが崩壊してぷっつりと映像が途切れ、空間は沈黙した。手の届くところにある別のモニターにも指先を向けてみるが、それも、すぐにブラックアウトし蒸発するようにモニターごと消えてしまう。

 何かが、

 あの世界と、

 少年を、

 隔てている。

 苛々した。無性に腹が立った。癇癪を起こしてざんばらの髪を掻き毟り、固めた握り拳で自分の頭を激しく殴り付ける。

 意識の混乱が原因だろうか、室内に充満していた文字列がぶつかり合っては小さな火花を飛ばして消え、また新しい文字が壁から、床から、天上から、自分の身体の中からふらふらと滲み出してくる。うるさい文字列。眩暈のような陽炎。少年は焦点の怪しくなってきた琥珀の瞳でそれを睨みつけ、荒い息を吐きながら、小刻みに全身を震わせた。

 ぴちっ。と甲高くてか細い音が天上付近で炸裂した瞬間、真っ赤な荷電粒子が室内に充満。刹那光って刹那で消えた真紅の激光が、がくがく震える少年を炙った。

 不意に、全身から力が抜け落ちる。垂直に膝から床に崩れ、ぐちゃりと座り込んでしまう。

 糸の切れた操り人形のようにぐったりと肩を落としてうな垂れた少年は、膝の上に投げ出した自分の指先を見ていた。虚ろな表情で、虚ろな気持ちで、振り切りそうな苛立ちと怒りと恐怖を見つめる。

 指先で踊る文字列。

 悲しい。

 哀しい。

 カナシイ。

 世界は、もう、そこまで近付いたのに。

「………………たすけてよ…」

 閉ざされたドア。

 少年は、虚ろな瞳で固く閉ざされたドアを見つめ、呟いて、目を…閉じた。

「ブルース」

 瞬間、ノブを中心にした淡いオレンジ色の小さな電脳陣がドアに浮び上がり、細かな電撃が内部を走る。うねるヘビのような眩い光に絡め取られたノブがビチリと悲鳴を上げると、少年はやっと、重く閉じていた瞼を億劫そうに持ち上げて、胡乱にドアを…開くはずのないドアを、見つめた。

 残光さえも確認出来ない、ドア。ノブは沈黙し、文字列と陽炎はうるさいくらいに踊り狂い、やはりあの音は気のせいだったのだと少年が落胆の溜め息も吐かずにまた瞼を閉じようとした、その時、ドアが。

 ドアは。

 ゆっくりと開け放たれた。

 まるで。

 世界はこの狭い部屋だけではないのだと言うように。

 少年を。

「サーンス」

 イルシュ・サーンスというひとに固定するために。

          

          

 なぜ? どうして? なんで!

 誰もぼくを迎えに来てくれないのに。

 どうしてお前だけがここから。

 ぼくを置去りにしてここから。

 たったひとりでここから。

 迎えに来てくれた誰かと。

 出て行こうとするんだ!!

          

          

 驚くより先に、何があったのだろうかと観察者は思った。

 隔たりというデータが消失している。そもそも、その「隔たり」を示すデータがどれだったのか、踊る文字列を探るように周囲を見回し、全ての文字列そのものが消失しているのにやっと気付く。

 文字列は、どこへ、行ったのだろうか。

 観察者…少年…は、胡乱な瞳を旋回させてあるはずの文字列と陽炎を探した。それがなければこの部屋=世界にはなんのデータもなく、データがなければ、観察者=少年は存在しない事になってしまう。

 震えた。

 恐怖に。

「自分」の消える恐怖に。

「自分」

 それは。

「…誰?」

 かさかさの声でそう呟いた少年=イルシュは、血の気の失せた顔を伏せ、両手で耳を塞いだ。ジウジウと耳鳴りがする。それがうるさい。うるさいから耳を塞いだ。余計に耳鳴りが酷くなった。

 イルシュが、開いたドアの外に佇むブルースに気付いていないのは明白だった。意識が散乱しているとでもいうのか、目を見開いてはいるものの、周囲の状況を認識出来ていないように見えた。

 見えていない…意識していない…何も居るはずがない…。そんなところか。

 床に座り込んだ少年は、本当にかわいそうなほど震えている。顔を伏せて耳を塞ぎ、がくがく震えながら首を横に振っている。

 拒否か。

 否定か。

 はたまた。

 抵抗か。

 イルシュの姿を見た時、自分はもっと困惑するのだとブルースは思っていた。もしこの部屋が「その部屋」だとしたら少年がどんな状態に陥っているのか判らない、とミナミも言った。

 独白するように。

             

 フラッシュバックする記憶ってのはさ、過去が戻って来る…ようなモンだから。

            

 ミナミの言葉の意味が判らないとブルースはきっぱり答えた。確かに少年はローエンスからイルシュの話しを聞いたが、その時、ミナミの話しを聞くのは拒否したのだ。

 知ってどうなると思ったからではない。

 知るのが怖かった。

 あのローエンスが、ミナミについて言った。

            

 アイリー次長の過去を垣間見たのなら、君は二度と彼を直視出来ないだろう。

 判るかい? アントラッド。

 あれは…。

         

 サイゲン ナク クルイ ツクシ アクマ ヲ エテ セイジョウ ヲ ヨソオッテイル ダケ ノ サイキョウ サイアクノ テンシ。

         

 最強か。

 最凶か。

 最悪の。

               

 冷然と粛々と狂っている。正常に正当に狂っている。全てを見透かし監察し狂っている。

 理路整然と狂っていく。そういうミナミと似たような境遇にイルシュは居た、とブルースは理解していた。

 だから、呼吸困難に陥ってぜいぜいと全身で酸素を求めながら必死になって首を横に振っているイルシュの姿を見ても、驚きさえ感じない。執務室で「必要ない」と言われてからたった数時間でこれだけ冷静に行動出来るようになった自分の方に、驚きを感じたほどだった。

「サーンス」

 室内に一歩踏み込み、ブルースはイルシュの名前をそっと呼んだ。

「サーンス」

 イルシュはまだ首を横に振っている。

「サーンス」

 ブルースに、気付いていない。

「サーンス」

 目の前に居るのに。

「サーンス」

 ドアは開け放たれているのに。

「サーンス」

 ブルースは開け放たれたドアの前に佇み、静かに、イルシュの名前を呼び続けた。

「サーンス」

 永遠に。永久に。飽きもせず。性懲りもなく。

「サーンス」

 イルシュが気付いてくれるまで呼び続けるつもりだった。

 なぜそうしようと思ったのか。実の所は、孤独で身を護ってきた少年には判らなかった。だからわたしが教えてやろうとローエンスは言い、人外と囁かれ、無礼も非礼も許され…または黙殺される…魔導師という称号を頂いてひとの世を生きようとするならば、絶対の孤独など保てないのだと付け足した。

 魔導師であるならば、望むと望まざるとそういう星の元に生まれてしまったならば、付き従う魔導機や、もうひとりの自分である、攻撃系魔導師には制御系魔導師が、制御系魔導師には攻撃系魔導師が必要であり、魔導師もひとであるのだから、家族や友人や恋人や伴侶が必要なのだと彼は続ける。

 では、イルシュは?

 少年はこの部屋から出て、たくさんの人に関わり面倒を見て貰っていた。しかしそれは少年がこの世界に慣れるために手を貸してくれた大人たちであって、少年が…望んで選んだ相手ではなかった。

 だからといってイルシュに、ドレイクやミラキ邸の使用人たちに不満があった訳ではないだろう。いいや、あっていい訳がない。

 少年は、保護されていた。

 このドアの中に帰らなくてもいいのだと言い聞かせられていた。

 それはそれでいい。

 では、ブルースは?

 ブルース・アントラッド・ベリシティという少年は、イルシュ・サーンスが「選んだ」。

 望んだ。

 半透明な羽根をきらきらと輝かせた「ドラゴン・フライ」とブルースを、イルシュは。

 希望した。

           

 お前は裏切った。保身のために傷付けた。戸惑いながらドアの外に出ようとしていたサーンスを、あの部屋に突き戻した。

 何が不満だった?

 何が気に入らなかった?

 何が面白くなかった?

 そうではないだろう。

 お前は、ヘイゼンに見捨てられてたったひとり放り出されたお前は、自分よりも脆い「はず」のサーンスが迷いなく前に進もうとしているのが、疎ましかっただけなんだろう?

            

 胸を抉るような冷たいローエンスの言葉に、ブルースは黙り込み、俯いた。

 その通りなのかもしれない。

 噂で聞いたイルシュ・サーンスが「噂通り」だったなら、彼は小さくなって怯え、おどおどと周囲の顔色を窺っている「はず」だった。しかし少年は、ブルースの戸惑いになどまるで気付かず、今出来る事をやりきって満足し、ありがとうと素直に頭を下げ、笑って、ブルースの臆してしまうような相手に受け入れられていた。

 自分だけが置去りにされた気持ち。

 追い討ちをかけるようにヘイゼンが除隊した理由を知り、ブルースはますます孤独に陥る。

           

 単純な話だよ、アントラッド。誰もお前を子供扱いなどしてくれない。誰もサーンスを子供扱いなどしない。お前は魔導師で、サーンスも魔導師で、みんな同じに、魔導師だった。

 簡単な話し。

 お前は、甘えていただけだ。

 拗ねて見せてガリューが悪かったと謝れば、受け入れられるとでも思ったのか?

          

 そういうのを浅知恵というんだ、ばかめ。

         

「サーンス」

 ブルースの背中が、何度目かの呟きを漏らす。それを廊下から見つめるミナミは相変わらずの無表情だったが、無造作に身体の両脇に垂らした腕、その先端の白手袋がぎゅっと握り締められているのを、ルードリッヒとクインズは見逃さなかった。

 何も出来ないんじゃないんです。と言いたいのを、ルードリッヒが飲み込む。

 今は何もしてやれないだけですよ。と言いたいのを、クインズが押し殺す。

 このひとは。とふたりは思った。

 ファイラン中の全てのひとを、幸せにしたいのだろうか。

 安らかにしたいのだろうか。

「サーンス」

 繰り返すブルースの声。ふと、ミナミの視線が横に流れる。

「…………ルード、クインズ」

 青年は呟きながら完全に廊下の奥、まだまだ永久に続くのではないかと思われそうなドアの群に向き直った。

「なんかの陣が、稼働してる」

 細長く、天井が高く、幅の狭い廊下。

「サーンス」

 ブルースが呟いた、瞬間、細い廊下を振動と破壊音が駆け抜け、ミナミは顔の前に腕を翳して吹き飛んで来た壁の欠片を防ぎながらも、見た。

「……つか、それって反則じゃねぇのか、おい…」

 左右の壁を長くくねった尾で叩き壊しながら猛然と突進して来る、真紅の…龍を。

「この展開は、最悪だな…」

  

   
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