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14.機械式曲技団

   
         
(31)

  

 ウロスに下がれと手で示したスーシェを、彼は完全に無視していた。

 背後には閉鎖されたゲート。幾重にもバリケードの施された門の前にはカーキ色の制服を身に纏った警備兵が展開しており、本来なら市民でごった返しているはずのサーカス・ブロックに続く大通りは、ブロック内の設備通電不良事故を理由に閉鎖されている。そのバリケードからずっと離れた、未だ市民の残る閉鎖区域との境界に配備されているだろう一般警備部の兵士とジョイ・エリアの兵士は、急遽掻き集めたエリア設備隊の作業服を身につけ、内部情報の漏洩防止に当たっていた。

 サーカス・ブロックの全体は天幕風の建物で覆われていて、大きな出入り口はこの正面ゲートしかない。機械式の搬入口や地下にある整備工場への通路なども存在するが、開閉機構は現在稼働していない。

 一旦は電源の落ちた街灯が復旧したのは、タマリがスーシェに電信をいれて来る数分前だった。それと同時に機材の使用不可信号も解除され、サーカス・ブロック外への通信以外は正常に復帰している。

 ウロスは、バリケードの周囲に展開していた警備兵に、全員サーカス・ブロックの外側へ退避するよう指示した。

「魔導機が出る。スゥに迷惑をかけるな」

 言葉少なに、というか、短過ぎる言葉で? そう威圧され、警備兵たちは慌ててバリケードのあちら側へと避難して行った。

 身長が一メートル九十センチもある大男で、体格の良さはギイルといい勝負。禿頭で眉が薄く、それなのに、口ひげと顎鬚を生やしている。それで目つきがデリラよりも悪く口数が少ないのだから、例え纏っているのが鮮やかなブルーの制服でも、極めて見た目の印象が良くない、というのがウロス・ウイリーだった。。

 正直、ケインとウロスは外観をとっ違えてる、というタマリの言い分は正しいように思える。片やインテリ風の外見を裏切って機関銃を乱射し、片やこの体格で機材に囲まれ無言で仕事をこなす。

 それでもふたりは、それぞれ砲撃手として、事務官として優秀だった。

 全ての警備兵が姿を消したところで、スーシェにタマリから電信。「ヴリトラ」の亜種がこちらへ向かっていると聞き、ウロスは即座に移動式の機材車に飛び乗った。

 その頃には既に魔導師不明の「アルバトロス」がこちらへ向かっていると知っていたスーシェが、退避しないウロスの背中に小さな苦笑を吐き付ける。情けない話し、タマリがいない今は、ウロスに頼らなければならない事は意外にも多い。

 だから、有り難いと思った。負けられないとも、思った。

「ウロス、メインゲート広場全域の動体を観測」

「了解。「スペクター」も観測されるが?」

「構わないよ。こっちで勝手に選り分ける」

 先にここへ到達するのは「アルバトロス」。追って「ヴリトラ」もやって来るだろう。彼らの目的は…。

「…………サーカスから消える事? だったら、ここから先には行かせられないな」

 呟いてスーシェは静かに身体の前で手を組み、淡く黄色に発光する電脳陣を纏った。

          

                

 彼らの本当の目的は?

 最悪、彼らを邪魔するスーシェを「消す」事か? それとも、スーシェが希望的に呟いた、サーカスから姿を消しアドオル・ウイン奪還の機会を待つ事か?

 どちらにしても、「アルバトロス」と「ヴリトラ」は手加減などしてくれないだろう。というのがスーシェの落胆で、溜め息混じりのそのセリフを、ウロスも無言で肯定する。

 スーシェは、バリケードを背にして広場の中央に佇んでいた。淡く金色に発光する立体陣に取り囲まれ、ゆっくりと回転する文字列の照り返しを受けたライト・ベージュの瞳で、じっと、くねって先の見通せない通りと、派手なネオンが瞬く様々な見世物小屋の屋根と、その向こう、尖った円錐形の白い天幕を色取り取りの旗で飾ったサーカス・オブ・カイザー・ハイランを眺めている。

 落胆以外の感情は、ない。落胆さえもすぐに霧散して何もなくなり、妙に落ち付いている。

 冷静というより、冷めている。飽きれるほど簡単に、スーシェは。

「あんなに自分を否定してたのが、嘘みたいだ」

 魔導師に戻った。

 眺める風景の左の方で、ちかっ、と何かが白く閃いた。それから少し遅れて、植え込みが微かにざわめく。

「動体を確認。データを転送」

 ウロスの溜め息みたいな囁きのすぐ後、スーシェの周囲に展開している電脳陣の一部に高速で文字が流れる。自由領域を使ってウロスの観測機材と交信している結果をスーシェは、通常のモニター形式表示ではなく、わざと、立体陣の文字列に割り込ませて表示していた。

 稚拙な手で笑いも漏れるが、タマリ…制御系魔導師不在では、交信結果は丸見えも同然。だとしたら、どうせ観測されるにしても、多少見難くするくらいの抵抗はしてみよう、というところか。

 身を隠しているのは小柄な「人間」だとデータは語る。とりあえずそちらは無視する事に決めたスーシェは、高速で上空から飛来する魔導機反応だけに注意を向けた。

 肉眼で確認出来るまで、あと数十秒。

 スーシェは迷わず、既に顕現させていた「スペクター」を見え隠れする閃きへと放った。

 操作している魔導師が、物陰に身を潜めた状態で動きを止める。動体はウロスの監視機材が追いかけていた。

 姿のない「スペクター」はしなやかな四肢を使って音もなく地面を蹴り、跳ねるようにして瞬く機影に肉迫。スーシェの瞳が全長一メートル五十センチはあるだろう巨大な空飛ぶ魔導機、「アルバトロス」を捉えた瞬間、「スペクター」は撓ませた後ろ足を力いっぱい蹴って空中に飛び、ひらりと身を翻した。

「スペクター」は、誰もその姿を正確に見た事のない不可視の魔導機は、身体ほども長く頑強な尾で、優雅に宙を滑る白い巨鳥を掬い上げるように打ち据えたのだ。

 金属同士のぶつかり合う轟音に、スーシェがしっとりとした微笑を浮かべる。線の細い、色の薄い、穏やかできれいな男。誰もがそう信じて疑わない彼もしかし、完全攻撃系魔導機を従えた一個の魔導師。

 ぶつかり合って、「スペクター」は急落し地面に降り立つ。片や、索敵開始と同時に痛烈な打撃を食らった「アルバトロス」はデータの齟齬を起こして、一瞬の操作不能に陥って放物線を描きながら錐揉みし、地面に叩きつけられる。

「ステルスかよ! でも、この程度でオレ様に勝てると思うな!」

 ぎりりと噛んだ歯の隙間を押し破るように漏れ出す、怨嗟の声と低い呻き。開門式(だと彼らは知らないが)で繋がれた「アルバトロス」の受けた衝撃の幾ばくかをリバウンドで食らい、操作している…少年は、通りに立てられている案内板の後ろで、がくりと地面に膝を突いた。

 なぜなのか、全身が痺れたように鈍く痛む。

 すぐに復帰した「アルバトロス」は、おっとりとした動作でまたも優雅に飛び立った。胴体と羽根の下に仕込まれた揚力発生装置で浮かび上がり、巨大な羽根をニ・三度羽ばたいて、見えない「スペクター」を探し長い首を巡らせる。

 検索有効範囲をいっぱいに設定し、動体を捜査。折り良く余計な警備兵や一般市民が追い払われているこの広場で、動くものは…ひとつしかない。

「ふん。四足歩行タイプか…。四つ足の獣だろ? 姿が見えねぇっても、オレ様にゃ丸見えだぜ」

 少年は、見ていると思っていた。

 本当は、見せられているのに。

(劣勢を装う。相手が直接こちらに手を出してくるかどうかは判らないけれど、このブロックから出るためには、どうあってもこの…ゲートを突破する必要がある)

 スーシェは内心ひとりごち、背後に佇むバリケードを軽く振り返った。

 欲しいのは、データ。相手の姿を見極め、記録し、分析する事。

 一つ目のデータは偶然にもタマリとデリラとケインのおかげで確保された。「ヴリトラ」を捜査する魔導師の姿を、彼らは見たのだから。

 照合するためのデータ。

 追いかけるためのデータ。

 追い詰めるためのデータ。

 何を持ってしてこの場の「勝ち」を判断するのか、スーシェは間違えたりしない。

 案内板の後ろで身を縮めた少年の右肩付近に、モニターがひとつ立ち上がる。観測しているのは、不可視の魔導機。アカウントは「スペクター」……。

「? スペクター・アル・バロン?」

 少年は、そこまで完璧に「スペクター」を解析しながらも、最後の部分で首を傾げた。

 世界を知らず、臨界を知らず、ただ押しつけられた思想と歪んだ命令だけで世の中を憎んだ少年は、魔導機のアカウントが操作する魔導師によって委細に違い、基本性能の他に数百とも数千とも言われる付加性能があって、つまり、同時期に稼働している同型の魔導機にふたつとして同じ物がない、というのを知らなかった。

「スペクター」というのは、あくまでもコアがステルス機能を有している魔導機に付けられた記号に過ぎない。

 立ち上がったモニターの内部で、地面に四肢を突く「ヴリトラ」に似た猛獣がワイヤーフレームのままで回る。小さな頭に流線型ともとれるしなやかな胴体と、先の丸い、長い尾。「ヴリトラ」のように頑強な四肢でない所を見ると、どうやらこれは…。

「なんなんだってんだよ」

 モニターの内部で首を回した猛獣が、走る。かなり速い。自然に上下運動する長い尾が特徴的なその姿は、大昔、大地に人が暮らしサバンナに猛獣がくつろいでいた頃、世界最速の哺乳類と言われていた「豹」に似ている。

 少年の注意が逸れたからなのか、「アルバトロス」がいっとき動きを鈍らせる。その隙を突いてまたも空中に飛び跳ねた「スペクター」が、人の顔ほどもある前足で宙を薙ぎ払いながら巨鳥に踊りかかったが、白く愚鈍な怪鳥は辛くもそれを躱して上空にひらりと逃げ去った。

「時間だ、スゥ。「ヴリトラ」到着」

 やや背の高い植え込みを薙ぎ倒して広場に飛び込んで来た「ヴリトラ」の背から、インバネスに似たコートを閃かせて男がひとり舞い降りる。空中を自然落下していた「スペクター」は、なす術もなく、男を下ろすなり展開した磁場を踏み切って体当りして来た獅子に跳ね飛ばされ、回転しながら広場の中央に投げ出された。

 スーシェの立体陣が、歪む。それでもプログラムの崩壊がなかったのは、スーシェ自身が咄嗟に差し込んだ「重力系」の魔法が発動し、「スペクター」を空中で抱きとめたからだった。

 口髭を生やした男が、スーシェを睨んでいる。

 電脳陣の展開は、ない。

「……直結か…。やり難いな」

 スーシェ並の占有率があると、王立図書館収蔵の魔導書のうち幾つかは読み解くことが出来る。その中に記載されていた「直結開門式」の理論は彼も知っていたが、やってみたいとは思わなかった。

 リスクが高すぎる。「契約」までが命がけで、その後も毎回命をすり減らすような覚悟が必要だ。まず、開門式の呼び出し中にデータの齟齬が起これば魔導機は暴走し、上手く直結出来ても今度は魔導機の受けるダメージの幾ばくかはリバウンドとして術者に戻って来る。だから、そんな無茶苦茶な機能を使ってみようなどと思うのはせいぜいハルヴァイトくらいのもので、ふたりもいるとは思っていなかった。

 プラグインで魔法を差し込み、反撃に出るか。

 しかしそれでは、あの「ヴリトラ」がダメージを受け、結果、開門式で繋がれたあの男もただでは済まない。

 という戸惑いが、スーシェの集中力を欠いた。

 体勢を整えた「スペクター」が一旦退避しようとする真正面から、「アルバトロス」が滑り込んで来る。ぱくりと開いた嘴の内部に、強烈な空気振動を起こし魔導機の機能を麻痺させる「サイレンサー」ノズルを見た「スペクター」は、咄嗟に大きく跳び退ったが、その軌道を読み回り込んできた「ヴリトラ」の展開した力場に接触し、逆に、「サイレンサー」の吐く無音の激震只中へと一直線に突っ込んでしまった。

 突き飛ばされたように背を仰け反らせて、胸から地面に叩きつけられた「スペクター」。瞬間、立体陣に囲まれて佇むスーシェの白皙がぎくりと凍り付き、直後、不可視の魔導機の輪郭が歪んだ風景の中に薄っすらと浮び上がった。

 悶え苦しむ「スペクター」。長い尾を地面に叩き付け、小さな頭部を振り回してのたうち回る。その姿は相変わらず見えなかったが、歪んだ風景が広場の中央を転げ回っているような錯覚が、ウロスにはあった。

 ステルス機能が正常に働いていない。否。正常に働いていないのは、ステルス機能だけではなかった。

 直接「スペクター」の「脳」に浴びせ掛けられる、振動と高周波ノイズ。この「アルバトロス」の攻撃機能は指向性が高く、ローエンスの「アルバトロス」のように辺り構わずウイルスを吐き付けるという敵も味方もあったものではない攻撃はしないものの、振動という直接的な攻撃が付加されていた。

 だから、一旦捕まってしまうと距離を取るのが難しい。空気振動は魔導機の内部機構を攻撃し、操作命令を実行し難くしてしまう。

 高周波ノイズが臨界経由でスーシェの脳にも障害を起こそうとしていた。ひどい眩暈、ひどい頭痛。意識が滅茶苦茶に掻き回されて、正常な…判断が……滞る。

 スーシェを取り巻く立体陣が、急に倍速で回転し始めた。取り巻かれている白皙は冷然と「スペクター」を見つめているだけで特別変化はないように見えたが、ウロスは何か、焦燥に似た落ち付きのなさを感じて、無意識に椅子から腰を浮かせる。

 何か。

 どこかが。

 おかしい。

          

          

 ひどい眩暈。

 ひどい頭痛。

 回転する文字列が徐々に陣から剥離して無秩序に広がり広がり広がり広がりああこれはもしかして今から「アゲハ」が出るのかなだったら遅いよタマリもう遅いよ後少しでぼくの脳は爆発してしまいそうなんだだってひどい雑音がひどい大きい音で耳の中と外と頭蓋骨の中と外でぎゃんぎゃん鳴っててすごくうるさくて耐えられないんだよ辛いんだよこういうのイヤなんだよ怖いんだよ何もかも痛いのも苦しいのも悲しいのもイヤなのにぼくはこんなに臆病なのにどうして戦ったりしなくちゃならないのか判らないよねぇタマリどうしてなんだろうねタマリ君はあんなに強いのにどうしてぼくが戦うのかなどうして君じゃないのかなねぇタマリねぇタマリねぇねぇねぇねぇねぇねぇタマリ。

 どうすれば、デリが、悲しまないで、済むのかな?

 ねぇ、「バロン」。

            

<カイジョ ヲ ヨウキュウ. OK?>

              

            

「…………スゥっ!!!!!!!!!!!!」

 滅多な事では大きな声を発しないウロスが、叫びながら監視機材の操作ブースから転がり出る。

 何が起こったのか。起こっているのか。理解出来ないまでもこれは、最悪の状況に見えた。

 突然の出来事。何事かを途切れ途切れに呟いたスーシェの身体がぐしゃりと地面に倒れがくがく震え出すのと同時に、四肢でしっかり地面を掴んだ「ヴリトラ」と滞空する「アルバトロス」の間に、何か、白っぽい生き物がぐったり横たわる。

「は…ははははは! やった! やったぜ、ガイル!」

 スーシェを取り巻いていた立体陣は、彼が倒れるのと同時に音もなく吹っ飛んで散った。何が起こったのか。続いているのか。終わったのか。冷静な判断も出来ぬほど視界の狭くなったウロスは、そこに二体の魔導機が居る事さえも忘れて、倒れたまま痙攣するスーシェに駆け寄ろうとした。

「安心するのはまだ早いようです、ラシュー。「スペクター」にとどめを…」

 インバネスの男が冷たく言い放ち、案内板の後ろから飛び出して来た少年に顔を向ける。少年は短い黒髪に青っぽい暗い瞳で、どこか拗ねたような顔を歓喜の色で染めていた。

 ラシューと呼ばれた少年が、男、ガイルに駆け寄る。外の世界は目前だ。邪魔な魔導師は倒した。後は、行動不能の魔導機を叩き壊して、あのバリケードを越えるだけだ。

 ごそりと身じろいだ「ヴリトラ」が、動かない白い獣の直前に降り立つ。その白い獣は何なのか。

 何なのか。

 少年は、男は、それを「スペクター」だと言わなかったか?

「わたしたちは、最強を保証されて生まれた」

 ガイルが、暗く、深く、陰鬱に笑った。

 その笑みを轟音が抉る。

 悲鳴ではなく息を飲む気配が広場に転がり出る。

 威嚇射撃に気を取られたガイルとラシューが視線を流した先には、真っ青になって呆然と立ち尽くすタマリと、差し上げた銃口をガイルの顔面にポイントしたままスーシェに駆け寄るデリラの姿があった。

「……てめーら…」

 大きな瞳を目いっぱい開いて倒れたスーシェを見つめているタマリが、軋るように呟く。

「ただじゃ済ませねぇ…」

 ひび割れた声が、静寂の広場に下りる。

「アタシのすーちゃんにこんなコトしやがって…生かしちゃおかねぇ…」

 小刻みに震える黄緑色の髪。ゆっくりと俯き、何度も首を横に振り、長い睫を伏せて全身を強張らせる。

「崇高な目的なんか、そんなモンいらねぇ」

 倒れたスーシェを抱き起こしたウロスが、駆け寄って来たデリラに彼をそっと渡す。意識はないようだが、痙攣は停まっていた。

「てめーらなんか、臨界ごと吹っ飛んじまえ!!!!!!!!!!」

 ぎゅっと握り締めた両手を身体に引きつけて血を吐くようにタマリが叫んだ、刹那、彼の全身から吐き出された光の渦が文字列に姿を変えて踊り、捻れた途端に薄水色の蝶に変化する。

 舞い散る、咲き乱れる蝶の群れ。滅茶苦茶に閃くそれらが一斉に「ヴリトラ」と「アルバトロス」に襲いかかり、二体は逃げる暇もなく「アゲハ」に取り付かれた。

 死んで行く植物のようなペパーミントグリーンの瞳に、ほの暗い炎が燃える。絶対の孤独を心に魔導師として「死ぬまで生きる」と決めたタマリ。だからタマリにはスーシェが、魔導師として、必要なのだと枯れ果てた笑顔で嘘を言い続ける彼はしかし。

 好きだった。本当に。スーシェが幸せならば、自分も幸せな気持ちに…なった。

 それだけでよかった。それ以上の幸せは、いらない。

「う……わあああああああああああああああ!」

 全身を「アゲハ」で包まれた「アルバトロス」が地面に落下するなり、ラシューが悲鳴を上げて喉を掻き毟る。監視「しかしない」種類の「アゲハ」が何をしたのか、それはタマリにしか判らなかっただろう。

「ヴリトラ」と直結しているガイルも、低く呻きながらその場にがっくりと膝を突いた。こちらは少年のように悲鳴を上げたりはしなかったが、胸を押さえて息苦しそうに肩を上下させている。

 タマリは、直結している魔導機経由で直接魔導師の生体活動に干渉していた。特別に、臨界式神経医療師の資格を持っているタマリだからこそ出来る荒業で、彼は…。

「やめろ! タマリ! スゥはお前に…そんなコトして欲しいなんて思っちゃいねぇ!」

 意識のないスーシェを抱えたまま、デリラは声を張り上げた。

 タマリは、魔導機から逆に辿ってガイルとラシューの臨界脳に割り込み、更にそこから現実の肉体にアクセスして、彼らの神経の一部を乗っ取っていたのだ。

 そんな滅茶苦茶な真似が出来るのか? タマリには出来る。やろうと思った事はいままで一度もなかったが、彼にはそれが出来た。

 誰かをこんな風に苦しめるためでなく、誰かを助けるために身につけた技術だったのに。

「タマリ!」

 口角から泡を吹いて全身を痙攣させる、ラシュー。呼吸困難に陥っているのか、喉はひくついているが胸は上下していない。このままでは、時置かず少年は窒息してしまう。

 デリラにももうどうしていいのか判らなかった。タマリにこれ以上誰かを殺して欲しくない。もう彼をこれ以上苦しめてはいけない。それなのに、デリラにそれを止める手立てはないのか。

 ウロスとケインがタマリに走り寄る。何かを叫んでいる。タマリはぼんやりとそれを眺めながら、薄っすらと、死んだように、微笑んだ。

「今更ひとりやふたり増えても、どうってコトないじゃん」

 これで本当に、もう二度とスーシェの顔は見られないなと思った。

「………………哀しいなぁ…それは…さぁ」

 タマリが落胆したように呟くと、それまでぐったりと地面に横たわっていた白い獣が、ふらふらと置き上がったではないか。

 ぎょっとする、誰もが。

 それは「スペクター」。

 魔導師であるスーシェが意識を失っている今、「スペクター」が動く訳は…ない。

 しかし「スペクター」はしっかりと地面を掴み、凍り付いたように白い肢体を凝視するタマリに…襲いかかってきた。

 反射的に陣を飛び散らせ「アゲハ」を臨界に帰還させたタマリが、硬直している…実は、タマリを庇おうと動かなかった…ケインとウロスを撒き込んで真横に転がる。その頭上を飛び越えた「スペクター」は空中でひらりと身を翻し、今度は、酸素を貪るラシューとガイルに踊りかかった。

 今だ立ち上がれないラシューを抱えたガイルが、身軽に後方へ飛び退りつつも舌打ちする。意識が逸れたせいで「ヴリトラ」は唐突に霧散してしまったし、ラシューは白目を剥いて昏倒している。意識のない少年を抱えて「スペクター」と対峙するのは、命を無駄に棄てようとしているようなものだろう。

「…………ちっ!」

 再度無念の舌打ちを漏らして、ガイルは踵を返した。目の前に外の世界があり、外の世界には「あの方」が居ると判っていても、今はまたあの「空隙」に身を潜め、反撃の機会を窺うしかない。

 ラシューを抱えたガイルが、一目散にサーカス方面へ逃げ去っていく。「スペクター」は一瞬その背中を追いかけるような仕草を見せたが、すぐ首を巡らせ、軽い足取りで引き返してきた。

 意識を失ったスーシェと、そのスーシェを抱きかかえたデリラの元へ。

「…………」

 それは、薄い灰色の身体に乳白色の臨界式文字を散りばめた、豹。先の丸い長い尾を揺らし、デリラの太腿ほどもある四肢でゆったりと闊歩する、ほっそりとした獣。

 とすとすと歩み寄って来た「スペクター」が、デリラの隣りにちょこんと座ってスーシェの顔を覗きこむ。しかしこの豹、大きさが五メートル近くあるものだから、思わずデリラは唖然と、「スペクター」の金色の目を見上げてしまった。

 無表情に見つめてくる、「スペクター」。

「…ミナミさんでもいたらお前の言いたいコトも判んだろうけどね、おれじゃぁさっぱりだよ」

 当惑しつつも声をかけてみれば、「スペクター」はなんと…丸い鼻先でデリラの肩を押し、薄い顎でスーシェの腕を引っ張った。

「…何かね…」

 つんつん、とスーシェを引っ張り、ぎゅ。とデリラを押す…。

「それはもしかして? ねぇデリ。スゥをそこに置いて、君は退け、という意味じゃないのかな」

 恐る恐る近寄って来たケインが呟くと、「スペクター」が長い尾をぱたりと振った。

「どうも、そう…みたいだね…」

 確か、魔導機のAIというのは意外に自律知能部分が発達しているものなのだ、とハルヴァイトは言っていなかっただろうか、大昔。などとかなり怪しい記憶を探りつつ、デリラは黙ってその場にスーシェを置き、少し離れた。

 しかし、これは一体なんの冗談なのか。スーシェには意識がないのに、「スペクター」は動いている。

「…お前はアレかね? 直結なんとかいうのかね?」

 問いかけたデリラに、薄墨色の豹は答えなかった。

 変わりに、スーシェの頬を丸い鼻先でつるりと撫で、顔を上げてタマリを見つめ、それから。

 スーシェの身体の下に、勝手に電脳陣が立ち上がる。それはいつもより速度が遅く、平面のまま二メートルほど広がって回転を開始。不安定に何度か回転したそれが一定の速度を保った途端、臨界接触陣が中空に描き出され、「スペクター」が陣に飛び込んで消える。

 霧散する。

 ゆっくりと解けるように。

 そして。

 後には意識のないスーシェと、唖然とするデリラ、ケイン、ウロスと…、真っ青になって蹲ったまま瞬きもせずにじっと地面を睨んでいるタマリだけが、残された。

  

   
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