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15.赤イ、毒ニ濡レタ月

   
         
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 天蓋から差し込む血のように赤い斜陽の光に照らされた清潔な室内に、重苦しい空気が蔓延している。

 完全な拒絶を持って向けられた背中にこれ以上募る言葉が見つからず、彼は透明な溜め息だけをその場に取り残して病室を後にした。

「関係ない」と言われた事に腹は立たなかった。そういうものだから仕方がないとも思った。所詮彼はただの人間で、憔悴し切ってベッドに横たわった彼の伴侶は、「ただの人間」とは程遠い。

 判っているつもりになっていただけで、実は何も判っていなかったのかもしれないという落胆はある。こういう風に「隔たり」を感じたのは、彼と彼が出会ってから始めてだった。

「彼」は、魔導師。

「…………………」

 いつもの癖で、エレベータではなく非常階段を使う。つづら折りの階段は、下っても下ってもお終いに辿り付かない、果てのないもののように感じられた。

「………………」

 非常灯に照らされた鉄扉の前に佇んで、彼はようやくひとつだけ深い溜め息を吐いた。ひとりでは解決出来ない気持ち。それでも、手放したくないと思うもの。「彼」のように全てを許し全てを理解しようとしてそう出来るようにはなれないだろうが、せめてこんな時、あの無表情を貫くだけの強さが欲しい。

「彼」は、魔導師。スーシェ・ゴッヘル。

「彼」は、………。ミナミ・アイリー。

 そして「彼」は。

「…………なんだろね、おれもさ。たった一言で怯んじまうようじゃ、まだまだだよね」

 自嘲気味にそう呟いて、デリラは鉄扉を押し開けた。

           

             

 先日のジョイ・エリア、サーカスブロックでの任務は継続中。分析する情報は多種多様。特務室で捌くべき報告はそれこそ多岐に渡り、本来なら、魔導機を稼働させたハルヴァイト、ドレイク、アンには強制休暇が与えられるところ、たった半日の休養だけで翌々日からは彼らも正常に登城している始末。

 つまり、今の特務室はとんでもなく忙しいのだが…。

 この膠着状態はあとどれくらい続くんだろう、とミナミは、無表情に戸惑っていた。

 漆黒の衛視服を真紅で飾ったミナミの正面に座るのは、お世辞にも似合っているとは言い難い技士の制服を硬質に着こなしたヘイゼン・モロウ・ベリシティで、彼は先日の緊急任務事後報告を求められ、今朝、第七エリアから王城エリアへやって来たのだが。

 ヘイゼンは、開口一番で「アイリー次長と少々お話を」と言い、暫く待ってようやく現れたミナミに軽く会釈し向かいに座ったまま、ぴくりとも動かず青年を見つめているのだ。

 もう、十数分も。

 こういう得体の知れない行動を取る人間にミナミは、不本意ながら、慣れていると言っても過言ではなかった。恋人であるハルヴァイトを筆頭にして、まず魔導師というのはどこか思考回路が普通ではないし、意味不明の行動など日常茶飯事? なのだから。

 では、ミナミの戸惑っている理由はなんなのか。

 ヘイゼンも観ている。ミナミ・アイリーというか弱そうにも見える青年が、一部の隙もなく全てを観察していると、判っている。

 観られているのは、誰なのか。

 目の回るような忙しさの中、ミナミはしかし忙しいからとヘイゼンを急かすような真似をしなかった。それはなぜか。なぜなのか。青年の必要としているのもまた情報で、それは、魔導師たちが事の推移を分析するのに必要とするものと同じなのだから。

 重苦しいというよりも正体の知れない均衡を破ったのは、やや乱暴に開け放たれた電脳班執務室のドアと、入室して来るふたつの足音。ヘイゼンとミナミの睨み合いを無言で窺っていたドレイク、アリス、アンだけが流した視線の先には、不思議顔のハルヴァイトとデリラの姿があった。

 さてこれで役者が揃ったのか、まさかこの緊張に絶え切れなくなった訳ではあるまいが、ふとヘイゼンの剃刀に似た色の薄い瞳が動き、会釈するハルヴァイトに微かな頷きを返す。

 何か始まる、とミナミは思う。

 ハルヴァイトの頭上を離れて旋廻した冷たい視線が再度ミナミを捉え、あの、上辺だけの薄笑みが技士の口元を飾る。

「あなたはありったけの言葉を尽くして私を黙らせようとするのか、はたまた短い回答で私を納得させてくれるのか…。

 アイリー次長。なぜあなたはブルースに、「だから」ブルースには「ドラゴン・フライ」なのだと言った?」

 質問は、ひとつ。

 微塵も動かないヘイゼンの気配に、ミナミは短く息を吐きソファの背凭れに背中を預けた。

 回答は、ひとつ。

「ではなぜあなたには、それが判らないんですか?」

 ではない。

 ミナミは言葉を選ぶでもなくそう言って、わざとのように肩を竦めた。その予想外の反応にドレイクとアリスは顔を見合わせ、ハルヴァイトだけが小さく笑いながら自分のデスクに腰を下ろす。

「なぜなのか、どうしてなのか…。それは、魔導機が自身の片割れである我ら魔導師が、魔導師に成った瞬間に抱き死ぬまで付き合う命題であり、その命題をなぜあなたがいとも容易くブルースに解いたのか、私は知りたい。

 あなたは魔導師の何を知っている?」

「何も」

「では、無責任にその場を取り繕うためにそう言ったのか?」

「いいえ」

 ミナミの答えは明白だった。

「そう思ったから、俺はブルースくんに「そうだ」つっただけ。無責任かつわれたら、結局そうなのかもしんねぇけど、その時…今も、俺は自分が間違ったその場凌ぎでブルースくんを黙らせたとは思ってねぇ」

 ミナミは、観察者であり続ける。

「…やっぱさ、「だから」、あなたには「オロチ」なんだし」

 呟いてミナミは、ふわりと笑った。

 なぜなのか。どうしてなのか。なぜ、彼には、「彼」なのか。

「あの時ブルースくんは、自分は見てるだけで何も出来ない臆病者だから、観測するだけの「ドラゴン・フライ」しか与えられなかったつったんだよ。でもさ、そうじゃなくて。観てるだけってのは実はすごく辛い事で、判ってるのに手が出せないってのはすごくもどかしい事で、どうして自分には何も出来ないのかとか、そういう風に自分を責めたりもしてさ、物凄く、忍耐の要る事だと、俺は思う」

 ミナミがそうであるように。

「でも、ブルースくんは何かしようとしたいんだよ。なのに自分じゃ何も出来ねぇ。だったらどうするか。魔導機は知ってる。ブルースくんも知ってる。

 だから、臨界はブルースくんに「ドラゴン・フライ」を与えた」

 臨界には、意思がある。

 間違いなく。

 淡々と告げるミナミの無表情を見つめるヘイゼン。

「ブルースくんは、戦おうとするイルくんを助ける事が出来る。見て、確かめて、その上で冷静に状況を判断し選択する事が出来る。「サラマンドラ」とイルくんをさ、護る事が出来んだよ。そんでも判んねぇ? ミラキ卿」

 不意に名前を呼ばれたドレイクが、きょとんとミナミを見つめ返した。判るような判らないような、という感じか。

「半攻撃系、完全補助系に関わらず、ミラキ卿、タマリ、ブルースくん、アンくんとかの制御系魔導師ってさ、つまりこう、どっか似たトコあんだよ。ミラキ卿のは極端だとしても、なんてのかな、自分が前線で戦うんじゃなくて、前線で戦う誰かを優位にするために……自己の犠牲を恐れないってのかな…、そういうの、あると思ったんだよ、俺はさ」

 資質つうの? とミナミはそこで、薄笑みのハルヴァイトを振り向いて小首を傾げた。

「それはなんでしたっけ? ミナミ…。確かわたしも「見た」ハズなんですが」

「「争わずして抑止せよと異界(いかい)のもの言えり。そのもの、咲き乱れる花園でくつろぐ姿優しき天使のごとく」」

 一体なんの話なのか、ミナミとハルヴァイトは、何か判っているようだったが。

「で、これと対になる一説に、「争うときそれを迷わずとまた異界(いかい)のものは重ねて言えり。そのもの、猛々しく勇壮なる姿轟々(ごうごう)たる炎熱を従えた悪魔のごとき」つうのがある」

 しんと静まり返った室内に、ミナミの声だけが流れる。ソファの背凭れに身体を預けて膝の上に両手を組んだ青年は、まるで語り部のよう見えた。

「全部さ、創世神話はちゃんと教えてるよ。最初に居たのは天使と悪魔。全てはそこから……………」

 ミナミと、ハルヴァイト。

「始まった」

 悪魔は戦うもの。しかし破壊するものではない。創世神話における悪魔は、都市を護るために脅威を退けるものとして描かれていたはずだ。

「…ちなみにここで攻撃系魔導師について俺が言っちゃうとさ、非常に立場悪くなるひとが大勢居そうだから、あえて言わねぇ」

 わざとのように意地悪く呟いたミナミが、ハルヴァイトではなくヘイゼンの顔を見つめる。

「それはナンですか? アイリー次長。私が代表的な攻撃系魔導師だとでも?」

「ある意味、あのひと以上にね」

 ミナミの中で攻撃系魔導師がどういった評価を受けているのか、ハルヴァイト以外の全員が、是非訊いてみたいと思った。

  

   
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