■ 前へ戻る   ■ 次へ進む

      
   
   

15.赤イ、毒ニ濡レタ月

   
         
(8)

  

「つーかさ、なんでアンタこんな時間に家にいんだよ」

 というのが、非情にも、恋人の第一声だった。

「昨日は深夜まで会議だったものですから、今日は自由登城と言う事に…」

 判っていたが物凄く冷たい、とハルヴァイトが思ったかどうかは定かでないが、とにかく、顔を会わせるなりそんな暴言を吐いたミナミに、彼がのほほんと答える。

 ところ、が。

「判った、その辺は、まぁ、いいとしよう」

 ところがである。

 同居している家屋内で住人同士が顔を会わせる事は、当然、少なくない。しかも彼らは一応、というか、最近はその「一応」も取れて、明確に明白に恋人なのだから、こういう形で唐突に遭遇しても別に不思議ではないし、慌てる必要もない。

 だが、しかし。

 さすがのハルヴァイトもそこで、ちょっとマズいと思った。場所が場所だけにか? それとも、自分の格好にか?

 とにかく、ミナミはハルヴァイトの姿を目にした途端、多少覇気ないながらも平静を装って冷たく突っ込んだが、開け放ったドアのノブを握る指先は真っ白になるほど力が入っていたし、ハルヴァイトに据えた双眸に至っては、瞬きさえしようとしなかった。

 シャワールームで、濡れた髪を晒した肩と背中に貼り付かせたままのハルヴァイトと、鉢合わせしてしまったから。

 ここに救い難い不注意があるならば、とハルヴァイトは、やや緊張気味に自分を見つめて来るミナミを涼しい顔を装って見つめ返し、反省する。

 ここに救い難い不注意があるならば、それは、ハルヴァイトが忙しさにかまけてミナミの「事情」を失念していた事。最近は随分と症状も改善され、以前ほどミナミも神経質でなくなったために、自分も必要以上に神経を尖らせていなかった事。

 それから、少し気が緩んでいる事と、ミナミに対する注意力が…散漫になっている事、か。

「それでアンタが俺より早起きってのは…結構すごくねぇ?」

「…………………」

 そこでミナミは、微かに口元を…相変わらず緊張気味ではあったが…綻ばせて、小さく呟いた。

 一階の、ではなく、二階のシャワールームで朝の挨拶を交わすハメになった、ミナミとハルヴァイト。不幸中の幸いとでも言おうか、ハルヴァイトはとうにシャワーを終えており、何も知らないミナミが着替えを抱えて踏み込んで来た時、彼はパジャマに使っている濃紺で幅の広いボトムだけを身につけ、首にタオルを引っ掛けていた。

 晒した素肌に燃える、青緑色の炎。

 まさかそれがハルヴァイトとミナミの双方を救ったと、その炎に炙られた恋人は知らない。

 ミナミの、どの記憶とも一致しない、青緑色の……。

 それが、ハルヴァイトをハルヴァイトとして、固定する。

「? 何?」

 ふっと息を吐いてハルヴァイトから一瞬目を逸らしたミナミが、腕から落ちそうになっている着替えを抱え直しドアノブから手を離す。大丈夫、これはハルヴァイト。と思ってしまえば、悲鳴を上げて逃げるような真似はしなくても済む。

 別な理由がある時は、ハルヴァイトだから、逃げ出したくなるのだが…。

「ミナミが意外に冷静なので、ちょっと驚いただけです」

「驚くなよ…」

 とはいえ、ミナミ自身も自分に驚いていた。まさか、ここまで普通に対応出来るとは思っていなかった。

 複雑な気持ち。少しずつながらハルヴァイトに「慣れて」いると自覚するたび、ミナミは…憂鬱さを感じた。

 いつか形成逆転する日が訪れたらと思うと、自分が嫌になる…。

「コーヒーを煎れておきます」

 そんな恋人の複雑過ぎる内情など知る由もなく、ドアの傍らに退去したミナミの前を通り過ぎる、ハルヴァイト。吐息のような呟きさえもはっきりと聞き取れる距離に流れた青緑色の炎を、微か、目で追いながら、ミナミは「うん」と消え入りそうに答えてからぷいと顔を背け、シャワールームに消えて行った。

 ドアの閉ざされる気配を素肌で感じつつ自室に入り、脱ぎ散らかしたシャツを跨ぎ越えてクロゼットに近付き、新しいシャツを探し出し袖を通す。適当に濡れたままの髪から離れた水滴が床でぱたりと音を立てたのに、慌ててタオルで頭を掻き回した

 クロゼットの鏡に映った、何か考え事をしている自分の横顔に気付き、ハルヴァイトは不透明な鉛色の瞳だけをじろりと動かして、その、全てに無関心そうな「自分」を睨んだ。

 睨んだ。

 睨み返してくる。

 少し苛々する。

 判っている。

 全ての原因はハルヴァイト自身にあり、だから、鏡の中のハルヴァイトを咎めるように見てしまう。

 それと…。

 ハルヴァイトは短い溜め息で鏡の中の自分から視線を逸らし、やや乱暴にクロゼットを閉めて、床に散らかったシャツと長上着とネクタイとスラックスをまた跨ぎ越え、廊下に出た。

 微かに聞こえる、流れる水音。

 人影さえ映らないシャワールームのすりガラスを見つめ、ハルヴァイトは…失笑した。

            

 どうして、ミナミは、逃げ出して、くれなかったのか。

           

 傷付けるかもしれないと思った。

 階下に繋がる階段をゆっくりと踏みしめながら、考えた。ほんの少しの間だけ。傷付けるかもしれない。いいや。もしかしたら、それ以上に深刻な事態を招くかもしれない。ただでさえミナミには、ああ見えて内面的に不安定な部分が多分にあり、その「不安定さ」が極度接触恐怖症という心因性の病を引き起こしているのだから。

 それでも、とハルヴァイトは、続けて思う。

 最後の一段を降り、キッチンに爪先を向けてふと立ち止まる。天蓋の外は曇りなのだろうか、暗く翳った玄関先に顔だけを向けて、くだらない感傷じみた考えに終止符を打つ。

 それでも、「やる」といったら必ず「やる」。非難されようが罵られようが、「やる」と…「彼ら」は決めたのだ。

 だからハルヴァイトは、全てを切り捨てる。

 不安は元よりない。唯一の気がかりはミナミの事で、しかし、「この世」にはドレイクやアリスや、数多の、ミナミを助けようとしてくれる人間たちがいる。だから、結局、気にし続けるほど重大な問題でもない。

 ミナミがそれに気付けば。

 ハルヴァイトの計画は絶対に失敗しない。

          

「出来るか」と問い重ねて問い返し、「出来る」と答え重ねて答え、「やらねばならない」と決め重ねて誓い、「ならばよしなに」と告げ重ねて告げられる。

         

 冷え切ったキッチンに入り、なんの飾りもない白いマグカップを二つ戸棚から取り出してテーブルに置いたハルヴァイトは、今度新しいカップを買いに行こうとなんとなく思った。ミナミの細い指に似合うのは何色のどんなデザインだろうかと考えるのは、少し、楽しい。

 それから、最近発売された自律式簡易AI搭載の「リビング・アニマル」を見ようとも思う。以前特務室で話題になっていて、誰だったか(ハルヴァイトは衛視の名前をろくに覚えていない)がミナミに欲しいかどうか訊ねると、彼は無表情に「触ってみたい」と答えていたはずだ。

「…それより、「キューブ」が一個欲しいと言っていたかな」

 ふと、鋼色の瞳に穏やかな光が差し、呟きと伴に笑みが零れる。

 綺麗な恋人。

 健やかであって欲しいと願う。

 長くはないがそれなりに波乱万丈だった自分の人生を鑑みて、こんな風に誰かの平穏を願った事はない。

 自らさえ憎み切って疲れ果て、それなのに、「この世」との関わりを断ち切れなかった、悪魔は。

「…………………」

「そのため」に例えいっとき、何にも換え難い恋人を裏切っても、涼しい笑顔で謝りもしないだろう。

 綺麗な恋人。

 願わくば、悲しんで欲しいと思う。

 願わくば、気付いて欲しいと思う。

 願わくば、もとめて欲しいと思う。

 願わくば。

 激しく蒸気を発する古風な鉄製のポットをコンロから下ろしながら、ハルヴァイトはリビングとキッチンを隔てるカウンターに顔を向け、穏やかに、微笑んだ。

「意外に早かったですね。コーヒー、まだ出来てませんよ?」

「まさかアンタでも、そんな高速で、お湯、沸かせると思ってねぇよ、俺だって」

 まだ少し濡れた髪にタオルを載せたまま、ミナミはカウンターを廻り込んでキッチンに入って来た。やや不思議そうな顔のハルヴァイトを無視し、そう大きくないテーブルにスツールを引き寄せて座り、既に置かれている白いカップの縁に指先で触れる。

 テーブルには、白いカップがふたつと、ミルと豆とコーヒーサーバーが無秩序に並ぶ。それを胡乱なダークブルーで見回し、少し戸惑ってからミナミは、コンロの前に佇みじっと見つめてくるハルヴァイトに視線を据えた。

「なんかさ…」

 微かに上気した、薄っすら桜色の射す頬と唇に、笑み。

「アンタがそうやってコーヒー煎れてんの見んの、久しぶりかも、ってさ」

 嬉しいのか恥ずかしいのか、そこまで言ってミナミは、長い睫をゆっくりと閉じ、それからゆっくりと俯いて、二つ並んだ白いカップに視線を落とした。

「ちょっと、思い出しただけ」

 ミナミが、この家のこのキッチンかリビングでしか見せない柔らかな表情を、ハルヴァイトは無言で見つめ続ける。

            

 イトシ ヒトヨ ウラム ナカレ

          

「…新しいカップを買いに行きませんか? 今日でもいいし、次の休みでもいいし、もっと後でもいいですけど」

「? 別に、使うのあんだろ?」

 これ、とテーブルに並んだ白いカップを指差されて見つめられたハルヴァイトが、少し困ったように眉を寄せ微笑む。

「まぁ、そうなんですが…」

 きょとんとするミナミの何が可笑しかったのか、ハルヴァイトはいっときくつくつと笑って、小首を傾げた。

「なんだよ…」

 そのハルヴァイトを睨む、無表情ながらも不満そうなミナミの声音に、なんでもないよと顔の前で手を振りつつ恋人は笑い続ける。

 ミナミ、おかしな所でカンが鈍い。

 さすがにそれと判る剣呑な視線が頬に突き刺さり、ハルヴァイトは笑うのをやめてわざと咳払いしてから、キッチンミトンをテーブルに放り出し、それにコンロから下ろしたポットを載せた。

「ミナミのカップでいつでもコーヒーが飲めるように、新しい、あなたの好きな物を買いましょうよと…言ったつもりなんですが?」

「……………………」

「いつまでも、ドレイクが辺り障りなく選んでくれた事務的なカップでは、寂しいでしょう?」

 だから。

「頻繁に使うものですから、あなたが自分で選んだカップを置いても、いいんじゃないかなーと」

 ね? などと、やっと何を言われたのか気付いて完全に硬直したミナミに、残酷にも、ハルヴァイトは穏やかに微笑みかけた。

 ハルヴァイトもミナミも侵蝕しないリビングとキッチンは、「公共」スペース。

 そこに、ミナミのカップを置いたらどうかと、ハルヴァイトは誘う。

 誘う。

 ドレイクやアリスが生活に必要なものを「配置」してくれた、この場所に。

「……アンタは?」

 問う。

「何かいいのを選んでくれますか? あなたが」

 何も描かれていない白いマグカップでなく。

 それ、がテーブルに置かれているだけで、その人の存在を確かめられる、何か。

 言いながらハルヴァイトは首の長いポットを持ち上げ、琥珀の香りを振り撒くコーヒーを慎重に、丁寧に、煎れはじめた。

「………………文句言うなよ…」

 不意に耳まで赤くなって俯いたミナミが呟き、ハルヴァイトは、微かに笑いながら「はい」と答えた。

            

           

 願わくば。

 この裏切りで、もう二度とわたしから離れられないのだと思い知ればいい。と、ハルヴァイトはその時、思った。

  

   
 ■ 前へ戻る   ■ 次へ進む