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15.赤イ、毒ニ濡レタ月

   
         
(16)

  

 秘密は、隠して置きたいから秘密なのか。隠されているから秘密なのか。どちらにしても、それが明らかになった時、秘密は秘密でなくなるのか。

 彼には、未だ明確な「答え」が、ない。多分、この世に存在しこの事柄に関わっている人間の殆どにも、「解答」というべき答えはないだろう。その場合はそれに行き着いていないのではなく、最初から答えなどないのだが。

 今日ここで明確な「答え」を記入した方程式を完成させようとしているのは、ひとりだけだ。そう、彼だけ。彼にはとうに「答え」があった。始め、その方程式は酷く虫食いだらけで、「答え」…彼の書き込んだ結果、かもしれないが…に到達するのは困難だと思われた。

 しかし彼は容易く、その方程式を完成させるための要素を乱暴に掻き集め、パズルのように嵌め込んでいった。

 そして彼は、最後の最後で、完成した方程式の形を崩さないためにその式に含まれてはいけない不確定要素を、除外した。

 遠ざけた。

 全て判っていたから。

「答え」は用意されていたから。

 思い通りの「解答」をそこから導き出すために。

          

 彼、は、彼、を、彼から引き離さなければなかった。

          

 しかし彼は、土壇場でそれに気付く。

 気付いてしまう。

 それもまた、彼の予測のひとつであったかもしれないという可能性さえ、失念し。

「答え」は、ひとつではない。

          

         

 凍り付いたように睨み合って動かない「ディアボロ」と「アンジェラ」。二機の魔導機がひたひたと発散する重苦しい空気に、サーカス主天幕は今にも崩壊しそうだった。

 天井付近で動きを停めた巨大な電脳陣は、細かな青緑色の燐光を僅かに吐き出すばかりで、何の動きも見せない。その、奇妙で見た事もない複雑な文様を不吉に感じながらも、ドレイクはあの「赤いフィンチ」を操作する魔導師のアカウントに接触を試み続け、アリス、アン、デリラはただそれを見守る。

 それしか出来ないもどかしさにアリスが操作卓に置いた拳を固め、ぎゅと唇を噛んだのに、アンが不安げな表情を向ける。

 アンは、何か異様な緊張を感じていた。何か。言いしれない、何か。それは少年が魔導師だからではなく、ハルヴァイトの部下として今日までやって来たからこその何かである事は、睨むようにハルヴァイトの背中を見つめるデリラの横顔からも窺える。

「……………………」

 長い、刹那の沈黙。不意に、ドレイクが灰色の双眸を見開き、はっと顔を上げた。

 瞬間、彼の周囲に立ち上がっていたモニターが一斉に点滅し始め、超高速で文字列が流れ始める。相手「フィンチ」略式アカウントに隠された本体を発見。ハッキングプログラムが急速停止し、通常速度で内部分析を開始する。

「…アカウントの割り出し、及び相手魔導師の特定に成功。アカウント「フェニクス・フィンチ」、魔導師は…」

 がなり立てるビープ音に引き寄せられてアリスが視線を流したモニターに戸惑うような文字列が流れ、彼女もまた、続くデータを読み取って愕然と目を見開いた。

 カツカツカツ、と拙くタイプするように浮かぶ、その、名前。亜麻色の瞳に暗い光を照り返しながら、赤色の美女は蒼白になって唇を震わせた。

            

          

「魔導師、ティング系暫定第一位、グロスタン・メドホラ…エラ・ティング」

         

           

 全ての鍵は、解かれた。

 その時、ドレイクは瞬きも忘れて傍らのハルヴァイトを見遣り、アンは悲鳴を上げそうな顔でアリスの読み上げた名前を自らの目で確かめ、デリラが眉間に深い溝を刻んで瞼を重く閉じる。

 全ての鍵は解かれた。

 全て、判った訳ではない。

 ただ、ひとつだけ判る。

 その男は今現在も第0エリア最地下特別防電室に幽閉され、臨界に彷徨う亡者のようにただ夢見て存在するだけの、抜け殻だと。

「は……」

 呆然とする電脳班を嘲笑うかのように、丸盆(ステージ)でスポットライトを浴びるアリアが相好を崩し、短く息を吐く。笑っているのか、泣いているのか。ミナミに似た、しかしまったく別の青年は、握り締めた両の拳を頭に押し付け、背中を丸めて俯いた。

「はは…。なんだ、もうバレたのかよ。グロスも大した事ねぇよな、ふがいないつうの? たかがミラキごときにやられるなんて、ウイン卿にどう顔向けすんだよ」

 たかが、というセリフを、今度はハルヴァイトが笑う。

「お前たちに無いものを持つドレイクをたかがなどと気安く蔑むな。

 聞いているか? グロスタン・メドホラ。思い上がりも大概にするがいい。お前たちは、勘違いしている」

 薄い唇が酷薄に告げる。

「臨界は貴様らを歓迎していない」

 その突き放したような喋り方と声に、覚えがある。ハルヴァイトというのは、そもそもこういう人間ではなかったか? 穏やかに微笑み、多少以上の無茶を言い、恋人にからかわれて困ったように、それでもどこか幸せそうに笑っているだけが、ハルヴァイト・ガリューではなかったはずだ。

 本質は変われない。

 結局、そうなのだ。

「勘違い? じゃぁお前はどうなんだよ! 出来合いの「天使」を手に入れたと勘違いしてんじゃねぇのかよ! あれは!」

 顔を上げてキッと睨んで来るアリアを冷たく見下ろしたまま、ハルヴァイトが一度だけ瞬きする。

「わたしは、何も手に入れていない。…まだ」

 微かな笑みを含む凍えた声に、天幕に居る全ての「人間」が、ぞくりと背筋を凍らせた。

             

             

 ミナミは、走る。気が急く。

 一刻も早くサーカスへ行き、ハルヴァイトを停めなればならない。そう思う。

 ハルヴァイトは全て判っていたのだ。アドオル・ウインの隠匿していた施設も、魔導師も、彼には既に明白な事実だったのだ。

 いつからか。いつなのか。

 なぜなのか。どうしてなのか。

 疑問は疑問になる前にミナミの中で崩壊し、ただ青年は、あの鉛色が自らを遠ざけた意味をひたすら繰り返し自問した。

 知られたくないのか。見られたくないのか。判られたくないのか。

 裏切りに怒りを覚える。

 過去の、自分の裏切りを際限なく悔やむ。

 ミナミはいつでも、ハルヴァイトには何も言わず行動を起こした。繰り返し、繰り返し。しかしハルヴァイトは一度もそれを咎めず、それでもいいから、傍に居て欲しいと言ってくれたはずだ。

 傷付けたくはないと。

 ただし。

 傷付けないとは………………言っていない。

 胸がざわつく。嫌な予感がする。

 あの第一期臨界式記号を操れるであろう魔導師は今現在「二名」しか存在しておらず、一名はハルヴァイト・ガリューその人。そしてもう一名は、没落したティング王家第二位、暫定第一位のグロスタン・メドホラ・エラ・ティング。しかしながら当のグロスタンは三十二年前、その誕生の瞬間に、彼を身篭った「超重筒第三号機」内部で発現現象を引き起こし、設備もろとも、第0エリア地下に急遽設置された「特別防電施設」に幽閉されて、現在は。

 ほとんど赤ん坊のまま眠り続けているはずだ。

 しかし、ミナミはなぜそのグロスタン・メドホラ・エラ・ティングが第一期臨界式記号を操れるかもしれないと思ったのか。

 確信は持てない。

 ただし、そう思える要素が青年にはあった。

 それを反芻するには事態が逼迫しているのか、ミナミはあえてその思考を遠くへ追い遣り、細長く暗い廊下を走ってサーカスへと向かう事だけを考える。そう、余計な考えは必要ない。今必要なのは、ハルヴァイトが何をしようとしているか見極める事の方。

 だからミナミは、走った。

 不吉な外観を夕暮れに暗く聳え立たせた、サーカスへ向かって。

           

             

 重苦しい静寂と稼働する端末が漏らす排気音だけが占める特務室で、スーシェ・ゴッヘルは蒼褪めたまま肩を震わせ、じっとテーブルの一点を睨んでいた。その彼を支えるように座るヒュー・スレイサーもまた、深い呼吸を繰り返しながら、なぜか、沈黙するドアを見つめている。

 時間経過と伴にますます募る、嫌な予感。それが何に起因するものなのか判らないまま、ヒューはゆっくりと長く息を吐く。

 呼吸を整える。操作する。落ち着くというよりも、攻撃をし掛ける前の呼気に似たそれに、知らず緊張が募る。

 張り詰めた空気を砕く、けたたましいビープ音。緊急通信の着信を知らせるそれにスーシェはびくりと全身を固くし、不安げな表情でヒューを見上げた。

「…特務室です。どうかしましたか?」

 無言でスーシェの傍を離れたヒューが壁際に置かれた端末を立ち上げ、いかにも不愉快そうに言い放つ。

『陛下への早急なお目通りを願いたいのだが、スレイサー衛視』

 モニターに映し出されたのは、いつにも増して険しい表情のグラン・ガン電脳魔導師隊大隊長。その肩越しには、ローエンス・エスト・ガン小隊長の姿も見えた。

「目的を申告してください」

「……………それは、ぼくが室長にお話します、班長。至急陛下へのお目通りを取り次いでください」

 背後からかかった弱々しい声にヒューが微か視線を動かし、モニターの中でグランが頷く。

『ゴッヘルか。ならば適任だろう。現在臨界ファイラン階層で起こりつつある非常事態について、ご報告申し上げねばならん。今、そちらへ向かう』

「非常事態?」

 形のいい眉を吊り上げて不審げな表情をして見せるヒューに、グランとローエンスが頷き、通信は一方的に切断。それで、何があった? とは訊ねないまでも振り返って黙したヒューに視線を当てたスーシェは、小刻みに震える長い睫を閉じ、疲れたように項垂れて、華奢な眼鏡を外した。

「臨界ファイラン階層攻撃系システムが、所属する全AIに保護プログラムの稼働を強制して来ています。数十秒前から無期限に、ファイラン中の攻撃系魔導師は臨界との接触を……禁止されているんです」

 その呟きの意味が、ヒューには判らなかった。

 紙のように真っ白な顔で俯いたスーシェ。ヒューは「少し待て」と彼に言い置き、室長室のドアをノックしようとした。

「特務室! 誰か残っているか! 今すぐジョイ・エリアサーカス・ブロックに急行し、ガリューを………………あの、狂った悪魔を停めろっ!」

 瞬間、内部から切羽詰った悲鳴が上がり、ヒューは咄嗟にドアを引き開けた。

「陛下!」

「スレイサー! ここはいい。そうじゃない! 「そんな事」をさせるためにぼくはサーカスの調査を許可したんじゃない!」

 停めるクラバインを振り切ってヒューに飛び付いて来たウォルは、蒼くなって必死に何かを言い募りながら、ヒューの胸倉に縋った。

 どこで、何が、どう行われようとしているのか、顔を見合わせたヒューとクラバインには判らなかった。しかし、ウォルはその細い指先が白くなるほど力一杯ヒューにしがみ付き、必死になって、尚も続ける。

「ぼくはこの都市が平和であればいいと願うだけだ。誰もが健やかに過ごせればいいと願うだけなんだ! だから、本当は、誰にも傷ついて欲しくなんかないし、悲しい思いなどして欲しくないし、そんな………」

 見開いた漆黒の瞳に、透明な水滴が盛り上がる。どうなっているのか。何があったのか。起ころうとしているのか。ヒューは今にも頽れそうなウォルを半ば抱きかかえるようにしてスーシェの傍らに座らせると、その手を握って一礼した。

「仰せの通りに」

 まだ痛々しくも真白い包帯に巻かれた手をウォルの繊手から離し、ヒューが佇むクラバインに目配せしてドアに向き直る。陛下が停めろと仰るのならば何がどうあろうと停める。という気概に満ちた背中は頼もしかったが、しかし、それが…所詮無駄だとスーシェは知っている。

 無駄なのだ。最早。システムは緊急プログラムを発動している。端末である「バロン」や「ヴリトラ」に命令が下っているという事は、もう、取り返しのつかない所まで来てしまっている。

「行っても無駄だ、スレイサー衛視。我らに許された時間は残り少なく、後はだた、無力さを噛み締めながら「その時」を待つだけだ」

 ヒューが一歩を踏み出そうとした瞬間、特務室のドアが乱暴に開かれ、グランとローエンス、それから、淡いクリーム色の制服に身を包んだヘイゼンが姿を現す。ローエンス以外のふたりはスーシェやウォルと同じように蒼褪め、固い表情で虚空を睨んでいる。

「邪魔するな、ガン! 待つだけ? なぜそう決め付ける。ガリューを思い留まらせる事など出来ないと、なぜお前が言う!」

 癇癪を起こしたように叫ぶウォルを背中で感じながら、ヒューはグランとローエンスを躱して部屋を出ようとした。しかし、その腕をヘイゼンに掴んで引き止められ、反射的に、冷え切った剃刀色の双眸を睨み返す。

「離せ」

「無駄なのだよ、何もかも。逆らえない。避けられない。ファイランという現実面を統べるのは確かに陛下であらせられるが、我々の「棲む」臨界を統べるのはまた別の意思であり、その意思は最早何者をも受け入れず、何者の接触も許しはしないと宣言した」

 言って、ふ、とヘイゼンは暗く笑った。

「見事に謀(たばか)られたな。いっそ清々しい程に騙された。恋人ひとり出来たところで、所詮アレが変わる事など無理だった。周囲の迷惑など顧みないアレの遣り方に、何を今更驚いているのか、わたしは!」

 ふつふつと沸くような怒りを示す、ヘイゼンの押し殺した声。がたがた震えながら自身の肩を抱き締め、ついには泣き崩れようとするウォルをそっと抱き、スーシェは微かに………………微笑んだ。

「違います、ヘイゼン。ガリューは、変わったんですよ、間違いなく。だから彼は踏み切った。何か理由があるから、「こんな真似」をするんです」

 そんな事。その時。こんな真似。果たしてそれが何を差しているのか、ヒューはヘイゼンの手を振り解き、ほんのりとした笑みを苦痛に歪ませるスーシェの白皙を見つめる。

「いつだって出来たんだ。この世に愛想を尽かして臨界に沈む事など、ガリューにはいつだって。でも彼はそうしなかった。する必要もなかった。どうでもいい「ファイラン」など、どうなろうと関係なかったんだから。それがなぜ「今」になって実行しようとしているのか。判るでしょう? 判っているから、今更何をしても無駄だと思うんでしょう?」

 スーシェの唇から零れたのは、溜め息みたいな言葉だった。

「全て、ミナミさんのためなんじゃないんですか?」

          

            

文字列に変換されない綺麗な恋人。どうぞあなたは安らかであるように。

どうぞあなたがゆっくりと微笑を取り戻し、ゆっくりと平穏を取り戻せるように。

古の天使と悪魔。

ただひとつの契約は履行され。

愛する者だけを護るため。

わたしは、全てを、閉じよう。

          

             

「…そんなのは、間違ってる…」

 顔を上げて、しかし瞼を固く閉じたまま、ウォルは搾り出すように言い放った。

「傍に居て、それだけで……………いいのに」

  

   
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