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15.赤イ、毒ニ濡レタ月

   
         
(17)

  

 見えない牙を剥くようにハルヴァイトが唇を開き、笑った。

           

 刹那彼を取り巻いていた立体陣が周囲の空気を激震させて爆裂した。

 それと同時に滞空していた「アンジェラ」がプラズマ翼を消して急落し、伸ばした腕を垂直に「ディアボロ」の頭部に叩き付けようとする。真白い残光の尾を引いて佇む鋼色の悪魔に襲いかかるのは、発光する蒼い臨界式文字で目隠しされた天使。その美しく整った指先が何かを掴むように握られるなり、身の丈を越える長大な黄金の槍(ランス)が文字列から高速構築されて、たった今まで「ディアボロ」の居た空間を串刺しにする。

 しかし、悪魔はその刺突を既に見切っていたのか、僅かに後退して鋭利な切っ先を避けた。緩慢とも思える優雅な仕草は悪魔に不似合いだったが、だから余計に、その動き一つ一つに秘めた不気味さが際立って見える。

 ハルヴァイトの周囲に散った青緑色の文字列は、瞬く間に整列しうねりながら彼の腕といわず、足といわず、背中といわず絡み付き、その四肢を捕らえ中空へと先端を滲ませた。詳細に見るならばそれは、左右の腕に二本ずつ、左右の足に二本ずつ、それから、背中に五本、まるで機械式を操るケーブルのように生えている。

 もしもここにミナミが居たのならば、その意味に気付いただろう。そう、それは間違いなく、ハルヴァイトの身に刻まれた臨界占有率表示(プライマリ・テスト・パターン)に接続されていたのだ。

 そして。

「アンジェラ」の攻撃を避けた「ディアボロ」の四肢と胴体の一部がカッと発光し、青緑の文字列がぼうと浮かび上がる。骨格標本の表面に刻まれる、燃え上がる炎。ちかちかと絶え間無く明滅するそれはダイレクト且つリアルタイムに、ハルヴァイトの意思を悪魔に伝える。

 ハルヴァイト、開門式接続の正常稼働を確認。視覚情報に空間解析情報を組み込ませ、一度だけ瞬く。

 最早「エンター」の入力さえ必要ない。「悪魔」は即ち「ディアボロ」であり、「ディアボロ」は即ち「悪魔」であり、ふたつはひとつとなってイコールで繋がれている。

 自由領域の立ち上がりさえなく、ハルヴァイトには全て見えていた。肉眼で見る現実面に干渉しようとする臨界データが逐次文字列となって表示される様は、まるで映像に詳細な解説を付けているようなものだ。

 十三の縛鎖に囚われた「ハルヴァイト」は、果たして「どちら」に存在するのか。

 ランスの間合いから抜け出さずに「アンジェラ」と対峙した「ディアボロ」。伸ばした左手を握れば、刹那で出現する高速振動する長剣。地面に膝を突くように着地した天使が握り締めたランスを左から迅速で振り抜いたが、「ディアボロ」は軽く後退してその切っ先からするりと逃げている。

 純白の天使が纏う恒常防御圏は、大出力打撃を一度に多数の点で受け止める事は出来ない。それはアンの解析により明白になった弱点であり、「ディアボロ」はその弱点を見逃さない。

 見逃せない。

 振り抜くと見えたランスの切っ先を強引に止めた「アンジェラ」が、一歩大きく踏み込んで、回転する「ディアボロ」の心臓を貫こうとする。しかし、プログラムがその行動を読み込む刹那があれば、「ハルヴァイト=ディアボロ」は的確にその攻撃を躱し、間隙を与えず攻撃に転じる事が出来た。

 撓(たわ)んだ白い腕が伸び切った、瞬間、左上空に振り上げられていた剣が斜めに空を切り裂き、その刀身でランスを叩き落とす。反動で左によろめいた天使が姿勢を制御するまでのコンマ数秒を狙って、悪魔は剣を振り抜いた勢いのまま時計回りに回転しつつ重心を低く下げ、滑り込むように「アンジェラ」の懐に踏み込んだ。

 水平に走る刃が純白の鎧を横薙ぎに捉える。火花のような文字列を散らしながら剣は天使の腹部を激しく打ち据え、舐めるように脇腹から背中までを撫で切られる格好になった「アンジェラ」が、「ディアボロ」の回転に巻き込まれて前のめりに一歩踏み出した。

 丸盆(ステージ)上のアリアがびくりと全身を震わせる。広範囲に叩き込まれた剣の振動を殺し切れない反動が、術者に転化されている。全身の骨が悲鳴を上げるような衝撃にアリアは息を詰まらせたが、「ハルヴァイト」は攻撃の手を休めようとはしなかった。

 咄嗟にランスを地面に突き立て、転倒を免れようとする天使。振り抜けた剣を警戒して悪魔との間合いを取ろうと、ランスを支えに前後を入れ替えかけた胴をありえない方向から急上昇して来た悪魔の尾が激しく打ち据えたが、それは恒常防御圏に邪魔されて水平に跳ね返された。

 しかし、前面で尾の一撃を受けた防御圏が背面での密度をまばらにした瞬間、その華奢とも取れる純白の天使は、首筋に豪速の肘撃ちを食らって、顔面から床に叩き付けられたのだ。

 無茶苦茶だ。と恐怖に震えつつ誰もが思う。

 悪魔は天使の動きを見切り、その先を読み、更なる高速で容赦ない攻撃を仕掛けていた。相互間の通信誤差、ゼロ。考える暇も与えないとはまさにこの事か。

 またもびくりと全身を震わせたアリアが、ついにくぐもった呻きを上げつつ丸盆(ステージ)の上で膝を折る。幾ばくか、とハルヴァイトの言う衝撃の転嫁が極限を越え、術者の肉体を苛んでいるのだ。

 上空で唸る巨大電脳陣は徐々に収束し始めていた。ゆっくりとした回転は直下で荒れ狂う天使も悪魔も関係ないもののように見えて、無気味過ぎる。

 肩で激しく息を吐きながら顔を上げたアリアの表情が、苦悶に歪んだ。濁った青い瞳から注がれる、何か訴えるような視線は「ハルヴァイト」ではなく「アンジェラ」を捉えていたが、目隠しされた天使はそれを無視して弾けるように立ち上がり、床から引き抜いたランスを勇ましくも構え直して、対峙する「ディアボロ」へと突進した。

 踏み込みながら二度、三度と繰り出される鋭い突き。肩の入ったそれは大気を引き裂いて甲高い音を天幕内部に木霊しながら、ひらひらと踊るように切っ先を躱す悪魔を追い詰める。

 どこへ。

「ハルヴァイト」は、無機物でも見下げるような冷たい視線をアリアと「アンジェラ」に注いでいた。退屈そうにも見えた。透明度ゼロの鉛色が微かに動いて何かを確かめるたび、アリアは喘ぐように息を継ぎ、震え出す拳を身体の前で押さえ付けて、喉の奥から、心の底から唸った。

 これが、恐怖か。目の前にある。最強だと言い聞かせられた者さえもへし折ろうとする、最悪か。

 弧を描くように天幕内部を移動しつつ「アンジェラ」の攻撃を躱し続ける「ディアボロ」が、不意に顎を上げて天井を仰ぎ見る。空洞の眼窩がどこに向けられているのか誰にも判らなかったが、悪魔は何かを待ち、「ディアボロ」はその何かを確かめている。

 闇雲に突き出されるランス。薙ぎ払われる切っ先。残光にしか見えない高速の先端はしかし、「ディアボロ」に掠りもしない。

 なぜだ! アリアは悲鳴を噛み砕き、床に両手を突いたまま「ハルヴァイト」を睨んだ。

 何故も何も、ない。全て判っている。脳が命令を出し臨界がそれを受け取って「アンジェラ」が行動を起こすまでのタイムラグは現実面で観測出来ないほど微小だが、最早その時間差ゼロの「ハルヴァイト」にとっては、退屈な待ち時間なのだから。

 両手でランスを構えた「アンジェラ」が、背中のプラズマ翼を展開。地面を突き放して空中へ舞い上がりながら、斜め下から掬うような一撃を「ディアボロ」の大腿部へ叩き込む。

 悪魔は、その渾身の一撃を左に握った剣の腹で払うように受け止めつつ、勢いに逆らわず右へと身体を投げ出した。跳ね飛ばされるように地面を転がる、悪魔。その回転が止まる位置へ上空から先回りした天使がランスの切っ先を悪魔の頭部へ据えて、突き下ろすように急落する。

 ガッ! と固い床とパイプイスの残骸を吹き上げて、「アンジェラ」が着地する。膝を折り、祈るように頭上で手を組み合わせた姿はまさしく天使のようだったが、その手に携えた凶悪な刃が全ての祈りを否定しているかのようでもあった。

 そして悪魔は。

「!」

 息を飲む、全ての者。

 悪魔は、転がる反動を殺すために剣を投げ出しその四肢に蓄えた鉤爪で床を掴んだ、獣のような姿を曝し、天使の背後に迫ったまま、にー、と、暗く笑っている。

「…………………や…」

 ドレイクが、搾り出すように呟く。

 瞬間、「ディアボロ」は撓んだ四肢で踏み荒された床を突き放し、天使に組み付いた。

 白い鎧に到達した右の掌底が弾き返されるのと同時に、左の膝が天使の太腿を蹴り折る。そのままの勢いで回転し、一拍遅れて太い尾の一撃が背に当って押し戻されるなり、左の裏拳が目隠しのある顔面に食らい付き、押し戻された尾が再度へし折れた右足に襲いかかる。掬うような打撃に天使の上半身が浮き、バランスを制御出来ない「アンジェラ」の身体が左に傾ぐ。ぐらりと揺れて咄嗟に出した左腕は、目前で跳ね上がった「ディアボロ」の右爪先に間接を逆に蹴り上げられて、バキン! と派手な金属音と伴にあらぬ方向へ捻じ曲がった。

 異物の詰まったような悲鳴に、ドレイクとアリスははっと丸盆へ視線を投げた。そこでは、ついにアリアが血塊を吐きながら悶絶している。

 高速打撃を前後左右からほぼ同時とも取れる勢いで叩き込まれ、すでに恒常防御圏は崩壊寸前だった。しかも「ハルヴァイト」は、常に二度重ねて攻撃するようカウンターをプラグインしている。さしもの「アンジェラ」ですら、この衝撃を防ぐ手立てはない。

 スポットライトの中央で血に塗れたアリアの背中が、激しく痙攣し出す。しかし「アンジェラ」は、攻撃が停まるなり這うように「ディアボロ」との間合いを抜け、ふらふらと立ち上がって両手を広げると、その背に燐光の翼まで展開したのだ。

 まだ抗うのかと、「ハルヴァイト」は「アンジェラ」に問う。

         

 タタカワズシテ ワタシノ ソンザイ ハ ナイ

       

 では最後まで闘えばいいと、「ハルヴァイト」は薄く笑った。

          

        

 ミナミは、走る。もうサーカス主天幕は目の前だった。息が上がり、心臓が苦しい。それでも青年は走った。

 止めさせなければならない。

 何を? それは判らない。しかし、それは、ダメ、なのだ。

        

        

 特務室には、重苦しい空気とウォルの啜り泣きだけが蔓延している。

 何が起ころうとしているのか。

 ヒューは掠れた声でグランに問い、ローエンスに問い、ヘイゼンに問い、スーシェに問うた。

        

          

「ガリューは、全てを閉じようとしている。

 それは、閉鎖(スクラム)と呼ばれるシステム権限の強制実行。

 彼は、自らを、閉じる」

        

       

 臨界ファイラン階層攻撃系システムは、閉鎖される。

          

         

 対峙した白と黒。

 最後の力を振り絞って天使は地面を滑るように移動し、同じく高速で突進する悪魔の心臓に狙いを定め、握った右の拳を繰り出す。

「やめろ、ハル! お前は、あいつを………殺す気なのか!」

         

         

それはない、ドレイク。あなたがわたしを悔やむような事はない。

クリアされるのは「わたし」であり「ディアボロ」であり、

閉ざされた空間で息づいている、

ファイランの幽霊だけ。

           

          

 ハルヴァイトがふと口元に穏やかな笑みを浮かべて俯いた時、上空の電脳陣が急激に収束し、直径一メートル程にまで縮んだ。

 そして。

 突き刺すような「アンジェラ」の一撃が「ディアボロ」の心臓に吸い込まれ、漆黒の球体が砕けたガラスのように飛び散った、瞬間、悪魔は硬直したように動きを停めた天使を、そっと、優しく、抱き締めた。

           

 刹那後、天幕の全てを燃やし尽くすかのごとく青緑色の炎が中空に浮かぶ電脳陣を中心に膨れ上がり、真白い光がこの世を包んだ。

  

   
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