■ 前へ戻る   ■ 次へ進む

      
   
   

16.全ての人よ うらむなかれ

   
         
(5)

  

 とぼとぼと廊下を彷徨っているうちに、いつの間にか、城の正面に張り出したテラスに出て、眼下に見える街を眺めていた。天蓋越しの太陽はすっかりと赤く染まり、それがまるであの緋色のマントみたいに思えて、アリスは手擦りに預けた腕に顔を伏せる。

 辛い。哀しい。何かが胸に痞えて、言葉にならない。全てが悪意に操作され、自分を押し潰そうとしているかのようだった。

「アリス…」

 きぃ、と閉じて来たはずのガラス戸が軋んで、アリスは反射的に顔を上げ身体ごと背後を振り返った。その、唐突で驚きに満ちた動作に、ドアの隙間から滑り出して来たマーリィが、一瞬びくりと全身を震わせる。

「あ…。ごめ、ん。マーリィ」

 ううん。と固い笑みを浮かべた少女が、緩く三つ編みにした白い髪を揺らして小さく首を横に振ってから、おずおずと、手擦りに爪を立てたまま佇んでいるアリスに近寄る。

「あの、ハルにーさまの事と、ミナミさんの事…、ルニ様が、今、教えてくださって…。それで、………アリスの傍に、行ってあげってって…」

 まるで叱られた子供のように途切れ途切れに言いながら、マーリィは潤んだ真っ赤な瞳でアリスを見つめた。色彩の薄い少女もまた、胸に痞えた固くて冷たい何かに邪魔されて流れ出すべきものが外側に出られず、辛い思いをしているようだった。

 マーリィは、皺になるほど固くスカートを握り締めたまま、アリスの直前で立ち止まった。項垂れた細い首に青白い光沢の髪を纏い付かせ、伏せた睫を小刻みに震わせて、それなのに、目前のアリスに手を伸ばそうとしない。

 誰もが、支え合う事を拒絶している。ミナミひとりを悲しませてはならないと、そう思っているのか。

 嬉しい事や楽しい事があったなら、無条件で共有したいとアリスはいつも思う。ハルヴァイトやドレイクは時折、自分は自分で、いかに心を許そうとも他人は結局別人なのだから、本当の意味での「共有」は難しい、などと、いかにも魔導師らしく冷たい事を言ったりしたが、彼女はそれに、まるで駄々を捏ねる子供のような顔で言い返したものだ。

         

 確かに、嬉しいのはあたしだわ。ドレイクでも、ハルでもなくて。でもね? 聞いて。あたしは、あたしの感じる「嬉しい」を一から十まで理解して、同じ気持ちになって欲しい訳じゃないの。あたしが「嬉しい」って笑ってる空気で、回りのみんながつられて笑ってくれたらいいって、そう思うのよ。

 あたしの「嬉しい」が他の誰のものでもないって、それは、判ってるの。

       

 だから今アリスやマーリィには、ミナミの「悲しみ」を肩代わりしてやる事は出来ないと、判っている。しかしアリスは、願わくば彼と同じ辛さを共有したいと思った。

 手の届く場所に居る恋人に、その指先で触れてしまうのさえも躊躇う程に、本当に。

「ルニ様はお優しいわね、マーリィ」

 微かに動いた口唇から漏れる呟きに、マーリィが今にも泣きそうな顔を上げる。

「同じくらい、ミナミを囲むあたしたちだって優しいわ…。今の今まで、誰も…、根拠のない慰めみたいな事、言わないもの…」

 きっと、ハルヴァイトはミナミの元へ戻るよと。

「……………でも、もう、だめよ」

 アリスは、消え入るように、吐息のように囁いて、城の尖塔に貫かれようとする斜陽の空を見上げた。

「ミナミは、言ってくれないの」

「…アリス…………………」

 震える手で顔を覆ったマーリィが、ついに、堪え切れない嗚咽を漏らす。

「アリス!」

 少女の悲鳴は、世界が軋む音に聞こえた。

「あのひとは必ず戻って来るよって…ミナミが言ってくれないのよ…」

 もう二度と。

 不思議と、見開いた亜麻色の双眸に溜まった涙は、頬に伝い落ちはしなかった。

        

         

 無言でやって来て膝に縋り付いたルニの癖毛を撫でながら、ウォルはぼんやりと虚空を見つめていた。玉座に上がる気にもなれず、私室のカウチに座り込んだまま数え切れない溜め息を吐き、ただでさえ沈みがちだったここ最近にも増して沈んだ気持ちを浮上させる手段さえ、考える事を拒否する。

「おにーさま…」

 甘える小さな子供のように、床に座り込んでウォルの膝に頭を載せていたルニが、伸ばした細い指で兄の手をそっと握る。それを握り返し、「なんだい?」と搾り出すように答えれば、少女は戸惑うように数度瞬きし、それから、深い吐息を漏らした。

「泣きたいの」

「…いいよ。構わないから、泣いておやりよ」

「でも、どうしてなのか、泣く方法が思い出せないの」

 とても簡単なはずなのに。と弱々しく付け足された言葉。

「僕もだよ」

 どうしようもなく悲しいのに。

 倣岸不遜で、そこに居る時は居ても居なくてもどうでもいいとさえ思えそうなハルヴァイトが忽然と姿を消し、本当に居ないのだという悲しみ。そして、そのハルヴァイトを無くしたミナミの悲しみを思う辛さと、ミナミが「声」を手放すほどに打ちひしがれているのだという事実を理解した、悲しみ。

 全ての思考も感情もそれらに食い潰されて、泣き喚きたい気持ちが表層に上がって来ない。

 涙さえ出ない。極限の。

「あたし、きっとガリューが好きだったんだわ」

「………………」

「好き過ぎて、本当に大好きで、だから、泣いて認めたくないから、泣きたいのに泣けないんだわ」

 少女は、どこか怒ったような、苛立つような口調で言いながら、ゆっくりと顔を上げた。

 黒い瞳には、今にも零れ落ちそうな、涙。

「でも、アイリーが泣かないのに、あたしが、泣いたら…ダメでしょう?」

 瞬き一度で溢れ出すそれを堪えているのか、ルニはウォルを睨んだまま唇を引き結んだ。

「ダメじゃないよ、ルニ。アイリーはきっとね、もう、僕らよりもずっとずっと悲し過ぎて、泣く事さえ出来なくなってしまっただけなんだよ」

 停滞しているとウォルは思った。

 認めたくないのは、誰も同じだろう。亡骸も見せず拭ったように消えたハルヴァイトがどうなったのか、判らないから、最悪の状況をあえて誰も口にしない。

 しかし。

「アイリーも、僕らも、ルニもね、いつかは泣かなくちゃならないんだよ、きっと」

 事実を認め、諦めて、この膠着した時間を無理矢理にでも前に進ませなくてはならない。

「おにーさま…」

 胡乱な表情で正面を見つめているウォルの疲れ切った顔を見上げたルニは、無意識に呟いて、兄の白くて細い手を強く握り締めた。

「泣きたいの、本当に。

 泣いて泣いて泣いて、今抱えている悲しいとか辛いとか苦しいとか、そういうもの全部流し出してしまいたいの。あたしだけじゃなくて、きっと、みんな。

 でも、どうしてなの? おにーさま。

 泣こうと思うと、急に、アイリーのコト、思い出すの」

 冷たいくらいの無表情を虚空に向け、その薄い唇を閉ざしたまま腕に緋色のマントを抱いた、ミナミを。

「はっきり過ぎるくらいはっきり、アイリーが…」

 あの、ダークブルーの双眸が。

「あたしを見つめて、泣くなって、そう言ってるような気がするの」

 ウォルはゆっくりと長い髪を揺らして俯き、自分の膝に取り縋ったまま大きな瞳を潤ませている少女を抱き締め、「僕もだよ」と…………呟き返した。

  

   
 ■ 前へ戻る   ■ 次へ進む