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16.全ての人よ うらむなかれ

   
         
(6)

  

 アンは、まだ執務室に戻らない。

       

        

 既に懐かしいとさえ思える電脳魔導師隊執務棟を目指して足早に人工緑地を通り抜けようとしていたデリラは、不意に物陰から現れた人影とぶつかりそうになった。

「…つうか、こんなとこで何やってんだね、スゥ…」

「タマリを探してるんだよ」

 どちらもお互いに触れるすれすれで身を躱し、スーシェが「失礼」と、デリラが「すまんね」と言い捨ててまた足早に通り過ぎようとして、お互い、妙な顔つきで振り返る。

 明らかに注意力が散漫になっているのか、はたまた、あの黄緑色を一刻も早く探し出す事しか頭にないのか。まかりなりにも相思相愛で、周囲を大いに騒がせ大いに沸かせて結婚した伴侶に一瞬でも気付かなかったのは、大失態だ。

 それでも致し方ないだろうと、スーシェもデリラも思った。それは、お互いの顔に微か浮かんだ苦い笑みを交わす事で黙認され、彼らはようやく向き直る。

「それで、デリはどこに?」

「ああ、おれもね、タマリ探しに来たんだよ。あっち………今は、何も出来る事がないからね」

 何もない。

「…ミナミくんは?」

「医療院のドクターが来てたよ。どうしようもないってのにね」

 斬り捨てるように呟いたデリラの顔を、スーシェは驚きもせずに見つめていた。

「大将が戻らなきゃ、何も解決しないよね」

 倉庫群に続く通路と電脳魔導師隊執務棟周辺の建物群を繋ぐ緑地には、デリラとスーシェの他に人影はない。だからだろうか、執務棟方面へ爪先を向けたデリラを追いかけて引き返したスーシェは、少し迷ってから前を歩く伴侶の手をそっと握り、彼を驚かせた。

「どうかしたのかね」

「君は、どうもしないの?」

「……………………今は、まだよく判らねぇね」

 言いつつも、ほっそりした手を握り返し、困ったように肩を竦める、デリラ。

「ぼくね、ミナミくんを見てて思い出したんだよ」

 先とは変わって、ゆったりした足取りで人工緑地を歩く、デリラとスーシェ。こんな時でなければもっと穏やかな話題もあっただろうにとスーシェは思ったが、デリラは、こんな時だからこそこの一瞬は大切なのだと思っていた。

 もしかしたら、自惚れかもしれないけれど、自分とスーシェになら、今のミナミの気持ちが判るかもしれないと。

 天蓋の外は既に夕暮れ。分厚いガラス越しの陽光は赤紫を濃くし始め、ファイランという隔絶された都市には、ひたひたと夜が迫っている。

 寒く。孤独な。夜。が。

「デリの姿が、執務棟にないって気付いた日の事」

 スーシェはその時、ただ前だけを見つめていた。色の薄い優しげな瞳から真っ直ぐに注がれる、酷く透明な視線。それは前を見ているようで何も見ていないのだと感じた時、デリラは無意識にスーシェの手を握る指先に力を込めていた。

「デリがどこに行ったのか訊いても、誰も答えてくれなかった時の事」

 微かに目を眇めて薄い笑みの形に唇を歪めたスーシェはしかし、すぐ眉間に深い皺を刻み、瞼を閉じて、握り締めていたデリラの手を自分の胸に押し当て首を何度も横に振ったのだ。

「その時のぼくが何を考えたのか、ぼくは未だに判らない。あの時の数日間、ぼくが一体何を考えていたのか、ぼくには、判らないんだよ。

 ただ、全てが酷く遠く、色褪せていて、これで………」

 恐怖に震える唇を微かに開き、胸に抱いたデリラの手を両手で包んだスーシェが、固く閉ざしていた瞼をゆっくりと上げ、正面を見据えた。

「終わったのかと思った」

 何が、と彼は言わなかった。

 デリラも、何が? とは問わなかった。

 ただ、デリラは震えるスーシェを無言で抱き寄せ、色の薄い髪を撫でただけだ。

「…悲しくなったのは、デリが意識を取り戻したって聞いた時だったよ。ベッドに寝てる君の方が狼狽えてしまうくらいに泣いたのが、最初で最後の涙だった」

「ああ、憶えてるよ。泣きながらね、こっちは生死の境さ迷ったってのに、おもいきりひっぱたいてくれたっけね、スゥは」

「君が生きててくれたのが、本当に嬉しかったんだよ、ぼくは」

「そんで、自分でトドメ刺そうとしたけどね…」

 喉の奥で人の悪い笑みを噛み殺すデリラの後頭部を握り拳で、ごん、と一つ殴り、しかしスーシェは、彼から離れようとしない。

 離れたら、きっともっと鮮明に思い出してしまうだろう。

 自分の身体がワイヤーフレームだけで描き出された擬似三次元映像になり、中身は何も詰まっていない、空っぽの、顔のない、器に……………。

「スゥ」

 いつまで経っても離れないスーシェを訝しんだデリラが、伴侶の柔らかい髪を梳きながらそっと耳元で囁く。判っている。今腕の中で硬直しているスーシェは、「あの時」の記憶に囚われていて、不安なのだろう。

「約束は出来ないけどね、おれはさ、お前をひとり遺して逝ったりはしたくねぇってね、思ってるよ」

 言い終えて、我ながらこんな時になんだなと暢気に思って、デリラはスーシェを抱き締め、ふと、首を傾げた。

 これは…………。

 と?

「ぼくは、君のそういう微妙に真面目な所も大好きだよ、デリ。というか」

 いつも以上に冷静な口調で言い放ったスーシェが、デリラの目前で顔を上げる。場所が場所でなければ睦言の六つや七つ囁き合って然るべき体勢ながら、ふたりは瞬間的にある「おかしな事」に気付いて顔を見合わせたのだ。

「ねぇ、デリ」

「ああ、なんだね、スゥ」

「君でさえそう言うんだよ? 日頃「そんな」素振りなんか見せてもくれない君でさえ、さ」

「おれもそう思うね、ホントに。だったら……大将が何も言わないで消えちまったってのは、絶対おかしいんだよ」

 そう、デリラとスーシェは気付いた。

 ミナミの件を一時意識の外に押し遣って離れたふたりが、電脳魔導師隊執務棟を目指し足早に歩きながら、確かめるように話し出す。

「ミナミさんが自分の過去を告白して、アドオル・ウインを告発したあの臨時議会より前の大将っつったらね、下手したら、四六時中ミナミさんをね、自分の目の届く場所に置いときたいんだろうって勢いだったよね、ホントに」

「うん。ぼくはその頃のミナミさんとガリューを詳しくは知らないけれど、君や、ミラキやアンくんの口振りからして、そうだったんだろうと思うよ。なんだろう…、ガリューには似合わない言葉で凡庸に現すなら、好きで好きでしょうがない、って風情かな」

 デリラはそこで、スーシェの意見を否定はしなかったがちょっと難しい顔で首を傾げ、それから、微かに口の端を歪めて、「そうだね」と何か思案するように相槌を打った。

「刺のない独占欲」

「……………………」

 ぽつりと呟いた伴侶の顔を華奢な眼鏡の奥から見上げたスーシェが、妙な顔をする。

「刺…だらけじゃないのかい? ああいうのは」

 少しでもミナミに不都合だと思われる事柄には容赦なく荷電粒子の雨を降らせそうな顔をしていたハルヴァイトを、思い出す。

「ここ最近よりずっと、おれたちの想像出来る範疇だったよ、その頃はね」

 刺がないと言ってしまうには普通に剣のある状態、と付け足したデリラの頬が、引き攣った感じに綻ぶ。

「それがナリを潜めたのは、あの…………ダンナん家での晩餐後、おれたちが衛視になった頃からじゃないかね」

 という事は、スーシェたちが第七小隊になった頃でもある。

「…確かに、それぞれ仕事も忙しいしと言ってしまえばそれまでだけど…」

「始めはね、ダンナの件が絡んでるからだろうと思ったんだよね、おれたちはさ」

 実際、ハルヴァイトやミナミはドレイクに気付かれない範囲内で細かな「暗躍」を繰り返していたのだ、当時。ミラキ気の家系図を内密に調査したり、ダイアス・ミラキと細君マーガレッティアの経歴を洗い直したり、警備部隊に紛れ込ませた協力者に事情を説明し、何度もスラムや上級居住区に向かわせたりと、表立った行動はなかったが、水面下では相当詳細な調査を進めていたはずだ。

 事後アリスから聞かされたものとして、あのミル=リー・アイゼンとグレース・ノックスの絡んだ騒動もある。それに付随して、いつの間にかタマリが一枚噛んで来ていたりもした。

「……いや…………その頃からね、どうも…おかしかったのかもしれねぇよね」

「その頃って?」

 人工緑地を通り過ぎ、ふたりは左右に小さめの倉庫が立ち並ぶ細長い通路に差し掛かっていた。あと五百メートルも行けば魔導師隊の執務棟方面と一般警備部方面に通りは分かれ、丁度、建物と建物の間に見える辻には、第七小隊のちびどもだろう赤と栗色と純白の頭が見えている。

「電脳班初の謹慎食らう頃」

 スーシェと伴に近付いてくる漆黒の長上着に気付いたのか、煉瓦色の髪が暗い赤紫の風景の中で旋廻し、すぐ、その傍らに寄り添っていた、三人の中では一番小柄な栗色が大きく手を振る。

「確かに機嫌悪かったんだよ、あの頃の大将はね。でもね、思い当たる理由が多過ぎて、どれが本当の原因なのかよく判りゃしなかったよね、おれたちには」

 淡々と延べながら、デリラは思い出す。ミナミのように鮮明に、ではないにせよ、人として普通に、ぼんやりと、今頃になってハルヴァイトの異変に気付く。

 もしこの会話をドレイクが聞いていたならば、デリラの抱えた違和感を解決してくれただろうか。

 ドレイクは、ハルヴァイトの口からはっきりと聞いているのだ。判ったから、許せない事があったと。

「謹慎が明けてから、大将は……………」

 そうだ、あの、サーカスに始めて行ったその日に、自分たちはようやく気付いたけれど。

「ミナミさんをね、あんまり、傍に寄せなくなったよね」

 見た目は普通だった。いつもと変わりなかった。しかし、ハルヴァイトは。

「突然、なんつうのかね、それまであった「剣はあるけど刺のない独占欲」みたいのをね、全然見せなくなったよ」

 元々、ハルヴァイトが電脳班に昇格してからミナミとの接触は以前よりも減った。だから目立たなかっただけだ。隣室、特務室で他の衛視とふざけているミナミを微笑ましそうに見ているのには何度か遭遇したが、そういえば、と今頃になってデリラは思い出す。

 ミナミに声を掛けなくなっていたのだ、ハルヴァイトは。

 徐々に。

 誰にも気付かせないように。

 ハルヴァイトは。

「遠ざけたんじゃなくさ、遠ざかった、みたいな感じだよね」

 では、その、目的、は?

 辻全景が見渡せる場所まで来たところで、デリラはやっと軽く手を挙げてイルシュとブルース、ジュメールの三人に固い笑みを向けた。

 もう少しで判る。多分、判る。

 だからジュメールに訊ねたい事があった。

 ミナミが「そう言った」と聞いたから。ミナミが「そうだろう」と言うのなら。

 パズルのピースは、少年たちが持っている。

「デリさんも、タマリさん探しに来たの? 執務棟からは出てったってさっきロビーで聞いたんだけど、その後は誰も見てないって…」

 小走りに駆け寄って来たイルシュの固い表情に微か笑みを見せたデリラが、少年の頭をぽんと叩く。

「ひとつ、ジューくんに訊きたい事、あんだけどね」

 デリラの唐突な発言に、ジュメールは微か首を傾げた。

「なんですか」とも問い返さないその仕草に、思わず苦笑いが漏れそうになる。確かに、似ていると言われればそうかもしれない。

 誰かと同じように世の中を憎んだ青年。

 誰かと同じように狭い部屋に閉じ篭っていた青年。

 全く誰かと同じだとは思えないけれど、あのミナミが「似ている」というのなら、この質問は無駄ではないはずだ。

「もし君が今ここから姿を消そうと思っててね、それで、二度と戻って来ないとしたら、君はね、例えばイルくんやブルースくんに、何か言い残すかね」

 立ち止まり、何かを確かめるように見上げて来るデリラの顔を赤い瞳で見つめた青年は、ほんの一呼吸ほど何かを考えてから、戸惑うように答えた。

「ありがとう」

 端的な返答に、デリラは今度こそ笑った。

「じゃぁ、戻ってくるつもりなら?」

「別に、何も」

「「…………………」」

 その素っ気無い口調に、ブルースとイルシュが顔を見合わせる。

「言う必要が無いからかね」

「…違います…。ただ、行こうとする時は、まだ何も言えないから。戻って来るつもりだけど、…その……………、上手く言えないけど」

 迷っているようで、少しも迷っていない答え。

 そう、これが答えであって欲しいと思う。

「嘘か気休め。そういうものを口に上らせるつもりがないなら、何も言わずに行って、戻って、後で説明すればいい。無責任に、信じて待ってくれ、とは、言わない」

 と、突然ぶっきらぼうに言い捨てられて、その場に居た誰もがぎょっと辻の入口、一般警備部執務棟方面へ顔を向ける。

 そこに立っていたのは、いつもと同じどこかしら不機嫌そうな表情の、ヒュー・スレイサーだった。

「班長もタマリ探しに来たのかね。つうか、急に現れて、脅かさないで欲しんだけどね…」

「脅かしたつもりはない。それと、俺は別の用事だ」

 サファイヤの瞳がゆっくりと旋廻し、無言で会釈するスーシェに移る。

「今更ながら、俺もひとつ気付いた」

 そう呟いて電脳魔導師隊執務棟に爪先を向けたヒューは、軽く手を振って歩き出しながら、佇む五人に向かって言い放った。

「誰も、ミナミの意見を聞いてない」

 言われて、はっとする。

「慌ててばかりいて、自分を憐れんでばかりいて、ミナミを憐れんでばかりいて、誰も、ミナミが何を考えているのか、聞いてない」

 しん、と静まる、夕闇迫る浮遊都市の片隅で。

「ミナミが何をしたいのか、俺は聞いてないよ」

        

 ミナミが何をしたいのか。

        

「とまぁ、そういう訳だから、とりあえずタマリを見付けたら俺の代わりに一発ひっぱたいておいてくれ。ヤツがあっさり出て来てくれれば、ドクターがミナミの私室から蹴り出されるような事はなかったかもしれないからな」

「「「「「はぁ?!」」」」」

 沈鬱な空気を打ち砕く素っ頓狂な声に、ヒューは溜め息を吐き付けて肩を竦めた。

「理由はまだ判らない。俺が向こうを出てすぐミラキが電信して来た内容によれば、とりあえず、ドクターがミナミの爆弾を着火させて廊下に放り出されたらしいぞ。それで、件の「天使」はまた部屋に篭城したそうだ」

「…こりゃまた、ますますややこしい事になっちまって…つうんですかね」

 こちらも溜め息混じりに答えたデリラが、慌てて懐から携帯端末を取り出す。

「まったくだ。出来れば俺は、今すぐ部屋に逃げ帰ってベッドに入りたい気持ちだよ。そうしたら、全部夢で片付きそうな気がする」

 もう、何がどうなっているのか判らない、とでも言いたげに再度肩を竦めたヒューの背中を見送ってから、イルシュたちはタマリを探すべく、血相を変えてそれぞれの方向へと駆け出して行った。

  

   
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