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16.全ての人よ うらむなかれ |
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小隊長室に出頭するのは、意外にも多かった気がする。 でも、誰も居ないこの部屋を見た事は数えるほどだったと、その時アンは思っていた。 ハルヴァイトはよく、魔導書の解析作業だと言ってこの部屋に引き篭もり、アンがお茶ですよと覗くと、肱掛椅子に座ったままデスクに足を載せ、更には本を顔の上に載せて眠っていたりした。 だから、時たま真剣な表情で本を読んでいる時には決まっていかにも驚いて見せて、叱られたものだ。 些細な事だけれど、楽しかった。特務室詰めの衛視になっても、それは変わらず続くのだと少年は信じていたのだろう。 実際は、全てが劇変したけれど。 ただし、その劇変を少年は当然のように受け入れてもいた。変わらないものだけが全てではなく、変わらなければならないものも存在する。それは、判り切った事だった。 アンは、ハルヴァイトを好きだと思った。ドレイクも、アリスも、デリラも、みんな好きだった。意地悪を言うけれど可愛がってくれていると判ったし、彼らと出会ったからこそ、少年は変わった。 そして。 アンは、ミナミも好きだった。 少年が青年を好きなのだと判ったのは、………………、始めて、怯えるミナミを見たその時だっただろうか。 随分昔のような気がする。 ステーション離岸後、接続不良騒ぎのあった頃。泥酔したハルヴァイトを自宅に送り届けたその日、少年は見たのだ。 蒼褪めて、自分の身体を抱き締めて、小さくなってがたがた震えながらも、爛々と底光りする蒼い瞳で見えない何かを睨んでいた、ミナミ。 外殻は脆く、しかしその裡は強固。ミナミがミナミ・アイリーであり続けるために必要なのは、間違いなくハルヴァイト・ガリューなのだと思った。 憧れた。自由に振る舞っているようにして制約の多いミナミになんの不安も抱かせないハルヴァイトだとか、あのハルヴァイトという人の全部をひっくり返したミナミだとかに。 この二人だけは、ずっと変わらないままでいて欲しいと願った。 それなのに。 小隊長室に置かれている小振りなソファに力無く座り込んでいたアンは、酷く緩慢な動作で二度瞬きし、ようやく短い溜め息を吐いた。何かしなければ。タマリを探して、早く執務室に戻らなければ。そう思うのに手足が鉛のように重く、動かすのが億劫でしょうがない。 ふと思い出して壁掛け時計に視線を馳せれば、時刻はすでに夕方から夜へ差し掛かろうとしていた。ああ、もう、こんな風に惚けている時間は終わりにしよう。と弱々しくも自分を叱咤しソファの背凭れを頼りに立ち上がったアンが、小隊長室と執務室を隔てるドアに爪先を向ける。 なんだか足元がふわふわした。ミナミは大丈夫だろうかとぼんやり考えた。自分ばかり弱っているのはおかしいと思った。ドレイクも、アリスも、デリラも、みんな、何かを堪えているのだと。 ようようドアの目前に辿り着き、引き摺るようにしていた足を停める。すっかり血の気の失せた指先を伸ばしてノブを掴もうとした、刹那、それは反対側から回されて引かれ、アンの手はその場に取り残されてしまった。 焦点の危うい視界を埋めたのは、馴染みの漆黒と深紅。それから、銀色。 「……………」 軽い金属音と伴に閉じられたドアを背にしたままのヒューが、無言でその場に佇む。 極端に回転の遅くなった頭で今自分の前に立っているのがヒューだと理解したアンが、蒼褪めた顔をのろのろと上げる。まるでドアを塞ぐよう背にした姿を訝しんだのか、それともそう「命令」されていたのか、少年は疲れ切った表情のまま不恰好に口元を綻ばせ、小首を傾げた。 平気なふりをしなさいと「命令」した本当のアンは、今、どこを彷徨っているのだろう。 腕を伸ばせば余裕で手が届く位置にありながら、少年の気配は酷く遠い。 ハルヴァイトが何をしたかったのか。 ミナミは何をしたいのか。 いっとききっぱりとその思考を意識の外側に押し遣って、ヒュー・スレイサーは呟く。 「君は、何をしたい。俺は、ここになんで来た」 「…………………た…」 吐く息のような力ない囁きに、ヒューはゆっくり首を横に振った。 「タマリさんを、探さなくちゃいけないんです。ミナミさんが…」 輪郭の滲んだ虹彩を一杯に見開いて、アンは訴える。そうだと思っている。そうでなければならない。しかしヒューは再度首を横に振り、その、少年の嘘を無残にも取り払おうとする。 それは嘘。 多分今、誰もが自分に吐き続けているだろう、嘘。 「君は、泣きたいんだよ」 冷たいくらいに抑揚のない呟きがアンの胸を抉るのと同時に、ヒューは優しさの欠片も見えない乱暴な手つきで少年の後頭部を掴んで引き寄せ、いきなり、その小さな頭を自分の胸に押し当てた。 額に思いの他強い衝撃を受けたアンが、一瞬息を詰まらせる。掻き回すでもなくただ頭に当てられた大きな掌を振り解こうと、右手でヒューの襟元を掴み、後ろに回された腕を左手で外側から引っ張ろうともがいた少年はしかし、どんなに暴れてもびくともしない男の様子に、悔しさと微かな安堵を覚えた。 見られていない。と思う。誰にも。誰にも。 「今のうちに泣いておけ。俺は君を笑ったりしない」 誰にも向けられていないもののように、少年の頭上を通り過ぎるだけの言葉が。 「君を弱いとは思わない」 静かに、通り過ぎるだけの言葉が。 「泣きたい時は泣けばいい」 静かに。 「言いたい事は言えばいい」 静かに。 「君は君の思うように行動すればいい」 静かに。 「何かをしなければならないのではなく、何がしたいのかが問題で」 静かに。 「君たちは今まで、そうやってあいつと向き合って来たんじゃないのか?」 静かに。 「俺たちよりも、誰よりも、君たちがあいつと一番長く付き合ってたんだからな」 通り過ぎるはずの言葉が。 「二度と言わないし、言うつもりもない。 だから、泣いてしまえ。 次は、許さない」 気持ちを固めた何かを削ぎ落とす。 ヒューの襟元を掴んでいた手に力を込めたアンは、何かを堪えるようにぎゅっと瞼を閉じた。少しも優しくない仕草と、冷たいくらいの言葉と、そういうものに支えられているけれど気遣われている訳ではなく、ましてや抱き締められているでもない。 それなのに、と少年は、閉じていた瞼を上げて自分の足元に視線を落とした。必然的にヒューの胸元に額を擦り付ける格好で、その襟を引き、手をかけただけの腕を引き、……………、まるで縋り付いているようだと思う。 気を抜いたら膝から力が抜けてその場に座り込んでしまいそうだった。それでもきっとヒューはアンの好きにさせてくれるだけで、手を差し伸べてはくれないだろう。 一度だけ泣く事を許すというひとは。 二度目は許さないというひとは。 どこか、あの鋼色を思い出させた。 驚くほどなんの抵抗もなく、爪先にぽたりと一滴。泣くというより溢れようとするそれに気付いたのかどうか判らないが、ヒューは一度だけ、痩せた肩と背中を震わせたアンに視線を落とした。 聞こえた嗚咽混じりの囁き。 ヒューにその答えはない。
「どうして、ガリュー班長は、ミナミさんをひとり遺したんですか」
「どうして、連れて行ってあげなかったんですか…」
悲しいくらい刹那的な発想だと、平素なら失笑も出るだろう。しかしヒューがそれさえ憚ったのは、襟元に縋り付いていた手がついに、動じない男を責めるよう握り締められ、その胸板を弱々しく叩いたからか。 苛立たしいほどの悲しみ。 何に。誰に向けていいのかも判らない。 抱き締めるでもなくぼんやりとアンを支えたまま、ヒューも思う。 どうせだから、連れて行ってしまえばよかったのだ、どこへでも。それなら、やはりひとときの寂しさはあるだろうが、誰もこんな風に自分を見失わないで済んだかもしれない。御伽噺で申し訳ないが、きっとハルヴァイトとミナミは幸せになったのだと…自分を……納得…。 「………………」 否。 号泣するでもなくただ弱々しく涙を零し続けるアンの小さな頭に視線を戻し、ヒューは不意に表情を引き締めた。 何がしたいのか。誰が、何を、したいのか。 と、ハルヴァイトは予想した? 御伽噺を信じているようなタマじゃないだろう? と急に笑いが込み上げて来る。あの男とそんな儚い夢などは一生涯無縁に違いない。証拠に、ハルヴァイトはミナミを手に入れたではないか。たった一度、言葉も交わさず、遠くに眺めただけで見失った青年を、「通りで拾って」手に入れた。 そんな男が、果たしてミナミをひとり残してどこへ行くというのだろうか。 行く訳がない。 連れて行く訳もない。
アレは、最悪に、狂っているのだから。
アンが落ち着くまで微動だにしないながらも、ヒューは確信する。
ハルヴァイトは、「戻る」つもりなのだと。
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