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16.全ての人よ うらむなかれ

   
         
(7)

  

 アンは、まだ執務室へ戻らない。

             

 タマリは、まだ見付からない。

          

         

班長が皮肉混じりに放った「天使」というヒントに、デリたちは気付かなかった。

確かに、これだけ近接して様々な問題が持ち上がっているのだから、

見逃されても仕方が無いだろう。

しかしわたしは、確信する。

それぞれがわたしの振り分けた位置に落ち着くのに、そう時間はかからない。

多分、エスト卿は既に気付いている。

班長も、判り始めている。

アリス、マーリィ、アンは無意識ながら据わった。

デリとスゥはあと一歩か。

ジュメールの役割は、今回に限るならば、とりあえず終了している。

ブルースくんとイルシュに役が回って来るのは、タマリが「思い出して」からだろう。

わたしは、全てを描いた訳ではない。

ミナミが関わっている。

だから、全てを完全に仕組み描く事は、絶対に不可能だ。

その代わりにわたしは、この難解な「方程式」を式ではなく、

一枚の隠し絵のようにして「あの世」に残した。

図版、か。

白地に線で描かれた、いつかの未来。炙り出しの暗号。

暗号を解くために必要なのは、

無色透明なのに熱を加えると鮮やかな色を発する絵の具。

わたしは、その絵の具をばら撒いた。

そしてその図版を炙るのは。

             

いつまでも燃え尽きない炎であればいいと望む。

           

         

 ラオがミナミの私室に残り、ドレイクだけがひとり室長室に戻る。クラバインは臨界側の動向を調べるために階下の会議室に呼び寄せられているグランとヘイゼンと話し合うために、もう随分前から特務室には戻っていない。

 ドクター・ラオがミナミの部屋に入ってから、どれくらいが過ぎたのか。一旦は電脳班執務室に戻りアリスとデリラを送り出して、それからここに戻ったのだから、と回転速度の極端に悪くなった頭で考えながら、ドレイクは冷え切った紅茶で喉を潤した。

 舌先が痺れるような渋い紅茶を無理矢理飲み下し、小さく咳き込む。疲れてるなとドレイクはその時感じたが、だからどうしようとも考えはしなかった。

 ただ、待つ。

 何を待つのかは判らないが。

 ただ、待ち続ける。

 待ってばかりいる事を放棄したはずなのに、結局自分は何かを待ってばかりいる。とドレイクは自嘲気味に思った。全てが嫌になりそうだった。

 待ってばかりいるくせに、何か行動しようとすれば見返りは手に余る不運か不幸ばかりで、本当に、自分の何もかもがタイミング悪い。なんてぇ人生だよ。と愚痴ってみようにも、そんな気力も沸いて来なかった。

 だから、ただソファに座り、背凭れに後頭部を預けて天井を見上げ、溜め息ばかり吐いてみる。

 ミナミは今、何を思っているのだろうか。

 それからまた少しばかり惚けていたドレイクは、不意に、クラバインのデスクの向こうにあるドアの奥から、何やらばたばたと物音が聞こえて来たのに気付いた。ドクターの問診が終わったのだろうか? それとも、ミナミに何かあったのだろうか。と重い身体を引き摺ってソファを離れかけた時、一際大きな音と伴に陛下執務室に繋がる通路のドアが軋み、ドレイクは慌ててそれに飛び付いた。

 迷う事無くノブを捻って引き開け、倒れかかって来た背中に押されて、思わずよろける。

「………いってぇ…なんだつうんだよ…こりゃぁ」

 殆ど羽交い締めにするようにして白衣の背中を支えたまま呟いてから、ぎくり、と肩を震わせる、ドレイク。情けない顔で俯いたラオの落胆した気配、ではなく、薄暗い通路の奥からひたひたと迫って来る刺々しい気配に、知らず、ラオを抱えた腕に力が入った。

 何か、酷い違和感を感じてゆっくりと顔を上げたドレイクは、その曇天の瞳を見開いて、言葉を無くした。

 殆どが濃い青色に塗り潰された通路にぼうと浮かぶ、蒼褪めた白皙と柔らかくも冷たい金髪の輪郭。周囲の青よりも暗く底光りするダークブルーは、いつも以上というよりも、今まで見た事もないほど凍えるように冴え冴えと、ドレイクに抱えられたラオ・ウィナンを見つめている。

 無表情に。無表情に。どこか…何かが違う、無表情で。

 微かに動いたミナミの視線が、唖然とするドレイクを捉える。

「…あ……………」

 何か声をかけようと思った。しかし、体温の欠片も感じられない冷え切った瞳に射抜かれて浮かんだ言葉が喉元で凍り付き、結局ドレイクは、ミナミが無言で部屋に引き返しドアを閉ざすまで、ラオを支えたままその場に立ち尽くしていた。

 何があったのか。

 パタリ、とミナミの私室ドアが微かな音を立ててから、ドレイクはラオを引き摺って室長室のソファに戻った。さて、今度はなんだよこんちくしょう。と本気でうんざりしたが、まさかこのまま黙ってラオを帰す訳にも行かないだろう。

 なぜか蒼褪めて俯いているラオをソファに残したドレイクは、隣りの執務室を覗いて、居残りのジリアン・ホーネットに医療院医師管理係へ電信を入れるよう命令した。

「なんでもいいや、面倒臭ぇ。管理部のいっとう偉いヤツ呼んどけ。理由はどうあれ、だ、ドクターにあの状態のミナミが噛み付くなんざ、余程の事なんだろうからな。ちょっとシメてムカつく返事しやがったら、そのお偉いさんに無茶苦茶非道な八つ当りしてやる」

 いや、大人なんですから辞めてください、ミラキ副長。とジリアンは黒縁眼鏡の奥で思ったが、今のドレイクに意見するのは寝起きで不機嫌なヒューと組み手するより無謀、と瞬時に判断し、笑顔もなくクソ真面目に「了解しました」と答えた。

「…班長、もしかして、もう医療院に戻ったのか?」

 さっきまで居たはずのヒューの姿がないのを訝しんだ訳でもないのだろうが、ドレイクは医療院に電信しようとするジリアンの背中にそう問いかけていた。別に、班長なんぞ居ても居なくても同じなのか? と思ったが、なんとなく。

「あ、いえ。何か、ゴッヘル小隊長に呼ばれて、魔導師隊の方に行きました」

 疲れてるなとも思った。

 医療院と通信し始めたジリアンに背を向けて、携帯端末でヒューを呼び出す。「今度はなんだ」と質問口調ではなく普通に問われて、ドレイクは思わず苦笑を漏らした。

「ミナミがよ、部屋からドクター蹴り出して来やがった。理由はまだ判らねぇがな」

 なんだ、意外と元気いいじゃないか。と呆れた溜め息混じりのセリフに、ドレイクも「ああ」と答える。

「こっちが済んだらすぐに戻る。タマリの捜査は?」

「第七小隊……と、デリが当ってる」

 第七小隊。懐かしくも忌々しい響きだとドレイクは思った。

「なんだかよ、俺がスゥたちを指して、第七小隊、なんつってるってのは、おかしな気分だな」

「ミラキがそこに居て俺が魔導師隊の執務棟に向かってるのも、奇妙な感じだがな」

 他愛も無い会話。

 疲れたドレイクのそれに、ヒューはいかにもいつもと同じように付き合う。

 何も楽しくなさそうに。

 何も不安などなさそうに。

「…少しだけ、班長が羨ましいよ…」

 薄っすらと微笑んだ唇から滑り出した溜め息を伴う呟きに、ヒューは、なぜか吐き出すような笑いを返して来た。

「羨ましい? めぼしい波風などないのに、どうにも落ち着かない俺のくそつまらない今までがか? それとも、俺が正真証明の平民で凡人だからか?」

 そこまですらすら言えればいっそ天晴れとさえ思えるほどすらすらと、ヒューは大いに嘘を並べて笑う。

「おいおい班長、冗談やめようや。あんたのどこが一体…」

 平民で平凡で、つまらない今までを送ってきたのか、と言いかけて、ドレイクは口を噤んだ。

 判りかけたのは、小さなモニターの向こうで嫌味なくらい涼しい顔をしている男の、今まででもこれからでもなく、今。

「特別な事など何もなかった、ミラキ。

 生まれてみたら、片親は格闘技バカでもう片親はムービースターになっていた。

 気付いたら、血の繋がらない弟が四人もいた。

 それなりにやっていたら、いつの間にか衛視になっていた。

 ガリューは消えた。

 ミナミは黙り込んだ。

 では、俺はどうすればいいのか」

 画質の悪いモニター越しにも判るのは、サファイヤ色の瞳がじっとドレイクを見つめている事。

「違う、ミラキ。

 俺は、何をしたいのか。だ」

          

     

班長は判っている。感覚としてかもしれないが。

未来の可能性をゼロか百に近付けるのは、

いつでも、関わるひとの気持ち次第なのかもしれないと。

だからわたしは、班長にどうしてもこの役割を振らなければならなかった。

           

          

「ミナミが、何をしたいのかだよ」

 アンを拾ったらタマリ捜索に合流して、なるだけ早く特務室に戻ると言うヒューに頷いて、ドレイクは通信を切断した。

 ミナミが何をしたいのか。

 ドレイクが何をしたいのか。

 ハルヴァイトが何を求めていたか、ではない。

 そう。

 ハルヴァイトは、誰にも、何も、期待したりしないのだから。

 思う存分やって行き着いた先にこの「答え」があるのならば、とドレイクは、携帯端末を懐に仕舞い込みながら、ジリアンに「ヒマか?」と問う。

「…医療院の管理長の怒鳴り声が頭の中から消えれば、気持ちにも余裕が出来て尚且つ暇だと思います…」

 げんなりと疲れ果てたジリアンの肩を労うようにぽんと叩き、「じゃぁ、暇になったらお茶でも頼むわ」と言い残し、ドレイクは室長室に戻った。

 ミナミが何をしたいのか。

 自分は、何をしたいのか。

「で? ドクター。お前は、何をしでかしてくれたつうんだ?」

 ドレイクはその時、ドクター・ラオとミナミを会わせたくないような話を、以前ハルヴァイトがしていたと、今更ながら思い出した。

  

   
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