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16.全ての人よ うらむなかれ |
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この非常事態にあって、それがいつまで続くか判らないという理由で一旦官舎に戻り休息を取るようにと命令され、病み上がりのヒューといつでも交代出来るよう心の準備はしていたものの、まさかこんな事になるとは、とルードリッヒはなんとなく苦笑を漏らした。 「コーヒー飲む?」 暇なのか、それとも何かしていないと落ち着かないのか、ルードリッヒが脱いでリビングのソファに置いた漆黒の長上着を広げてハンガーに掛けようとしている小さな背中に問いかければ、返って来たのは「んー」というどこかしら気の抜けた生返事。 慌てて煎れたインスタントコーヒーを二つ持って部屋に戻ると、主であるルードリッヒの帰りを官舎前の植え込みに紛れて待っていたらしいその人は。 「ども」 と、いつもと同じ、ではない弱々しい笑顔でそれを受け取り、もそもそとソファに這い上がって膝を抱え、両手でカップを包んだ。 「それで? えーと。なんでぼくの所に来たの? タマリ」 「行くトコないからに決まってんじゃん。でなかったらわざわざルードの顔なんか見たくねぇ、ばーか」 行く所がなくて逃げ込んで来たくせにその言い方はないだろ? と思ったが、ルードリッヒはまたも苦笑を漏らしただけで言い返しはしなかった。 ソファの隅に蹲り、ただでさえ小さな身体をますます縮めた、タマリ・タマリ。 「レイちゃんのボケが無茶な事言いやがるからさぁ、お使いに来たアンちゃん蹴っ飛ばして執務室から逃げたワケよ、アタシはね。んで、ちっとの間書庫の後ろに隠れたりとかしてたんだけど、ウチのちびどもがやかましくタマリさんを探して走り回るモンだから、ちょーっと離れとこーとか」 「それで、行く所がないからここに来たんだ」 訊いてもいないのに、言い訳するみたいに唇を尖らせて話すタマリの少女っぽい顔を見上げ、ルードリッヒが薄く微笑む。タマリの占拠したソファの足元、絨毯も敷かれていない固い床に直接座ったルードのスラックスを見咎めたのか、タマリはカップに唇を付けたままきゅと片方の眉だけを器用に持ち上げた。 「ズボンに皺出来んじゃん、そんじゃ。着替えてきなよ、覗かないから」 いや、この流れから行って多分また特務室に舞い戻るハメになるだろうからいいよ、とは言わないまでも、ルードリッヒは小さく首を横に振ってタマリから視線を外し、大して美味いとも思えないコーヒーを喉に流し込んだ。 「見つかるよ、タマリ」 「遅かれ早かれ、いつかはね」 「…。タマリの予想より早く見つかるよ」 「? なんでよー」 多分、永久に近付く事のない微妙な距離を保ったタマリとルードリッヒは、お互いの顔を見ないままそんな会話を交わした。 「班長今日付けで復帰したから。今頃、ぼくの自室待機思い出して、こっち向かってるかも」 ミナミとハルヴァイトの間にあるものとも違う、この距離は。 「うお。そりゃ予測範囲外だわ。ヒューちゃん一時登城じゃねかったんだ。つうか、二週間? も入院してたんだね、よく考えればさ」 枯れ行く笑顔がタマリの面(おもて)…表かもしれないが…を飾っていると知って、ルードリッヒも相変らず掴み所のない笑みを唇に載せる。 「予備員不足で強制登城。おかげで、室長はそのうちドクター・ノーキアスに開腹手術されて、そのどす黒い臓腑(はらわた)引っ張り出されるそうだけど?」 だはははははは、と大爆笑のタマリを、ルードリッヒが振り向いた。 「質問は一回だけだよ、タマリ。その答えがぼくの満足行くものじゃなかったら、すぐに部屋から放り出す」 言われてタマリは笑うのをやめ、癖のある薄茶色の髪と緑の瞳を見下ろした。 ルードリッヒは、ソファの座面に左腕を軽く預け、身を乗り出すようにして下からタマリを見つめていた。少しも笑っていない顔。多分、タマリかローエンスの前でしか見せないだろうその硬い表情に、タマリも知らず表情を強張らせる。 どちらも取り繕うのをやめる。それは、タマリにとってもルードリッヒにとっても、他の誰にも見せない本当の顔でもあった。 だからルードリッヒは冷たいくらいに真剣な面持ちで、今にも泣きそうに歪んだタマリの顔を見つめる。 「なんで逃げた」 ルードリッヒが知りたいのは、それだけだ。特務室の事情など今は関係ない。 「考える時間が少し欲しかった。でも、多分、それは言い訳だと思う。確かに考える時間は欲しい。ハルちゃんの目的が知りたいんだよ、アタシは。みーちゃんが寂しそうにしてるの、ヤだもん。だから。でもさ」 きっぱりと迷いなく答えながらも、若草色の瞳は揺れている。 「ホントは、怖いからかもしれない」 怖いのだ。 「レイちゃんの協力して、電脳班が「見た」全部を確かめて、それで、……」
ハルヴァイト・ガリューは、全て閉じました。
「最悪の結果が出た時、それでも笑って「あちゃー。こりゃだめだね」なんて言えない」 どんなに考えても何も判らない。 だからいつの間にか、最悪の結果ばかりが脳裏に浮かぶ。そしてその時、そうだと確信した時、死刑宣告するタマリの姿を、タマリは。 「それでみーちゃんがやっぱ平気そうな顔してたらって思うと、怖いんだもん」 恐れる。 言い終えて、伝えて、タマリは密集した長い睫を閉じ抱えた膝に顔を伏せた。 タマリは思っている。今ミナミが取り乱したり泣き喚いたりしないのは、彼の気持ち? こころ? そういうものが極端に鈍くなっているからだと。 大抵の人がそうであるようにタマリもルードリッヒも、この非常時にあって逆に静か過ぎるくらいのミナミは、「壊れて」いるのかと…。 そう、思っていた。 しかもタマリは実際に、過去、そういう状況に陥ったスーシェを間近で見ている。デリラは知らないし、スーシェに固く口止めされているから誰にも言った事はなかったが、とにかくあの時のスーシェは、何もせず、瞬きさえも厭うように何もせず、ただぼんやりと中空を眺めているばかりだった。 あの時。 デリラの姿が見えないと、スーシェの気付いた日。 「…………………」 それきり黙り込んでしまったタマリに、ルードリッヒは声をかけようとしなかった。無言でリビングと短い廊下を隔てるドアを睨み、温くなり始めたコーヒーを一口飲んだだけ。 ルードリッヒはその時、自分でも笑ってしまうほど緊張していた。多分、ここ最近で最悪の状況かもしれないと思う。 よりによって、この非常時にヒューと本気で組み手しようという自分が、滑稽でしょうがない。 それでもルードリッヒは、今そう決めた事を後悔しないだろう。単純に勝敗だけを言うなら十中八九完敗だが、黙ってタマリを譲る気持ちがないというのだけはヒューに伝わる。 「…タマリは、スーシェさんが好きだよね」 笑みの混じった、でも、力ない呟きにタマリがはっと顔を上げた。 「ミナミさんの事も、好きだよね」 「……………ルード?」 コト、とテーブルに置かれるマグカップ。暫く離れているうちにすっかり逞しくなった背中と、小さな傷やマメが消える暇もないのだろう手と、タマリの知らない、険しい横顔。 「タマリの好きなものは、大事にしたらいいよ」 言って、さて、と小さく息を吐きながらマグカップに注いでいた視線を正面に振り上げ、ルードリッヒは立ち上がった。 「ぼくも、そうするよ」 唖然とするタマリに降りたのは、いつものような掴み所のない笑み。一瞬前までその面に浮かんでいた一切を覆う、正体不明の。 ただ微笑むルードリッヒに、タマリが何か訴えようと唇を動かす。しかし、それを遮って二度ドアがノックされ、ルードリッヒは見上げて来る少女っぽい顔から視線を引き剥がした。 無言で部屋を出て行く、白いシャツの背中。一瞬惚けていたものの、何か、自分がとんでもない事をしでかしたのではないかと慌てたタマリは、手にしていたカップをテーブルに戻しソファから転がり出た。 瞬間、ドアが開く音。何か囁き合う声。 それから。 一気に冷えた空気が張力に耐えられず弾けてしまったかのような、刹那。 タマリは反射的にびくりと全身を震わせてその場に硬直し、瞬きもせずにすりガラスのドアを見つめた。 ノブが動いたと思った途端ドア全開。それから、突き飛ばされてというか投げ入れられてに近い状態なのだろう、背中から転がり込んで来る、白いシャツ。それがルードリッヒだと気付くなり、タマリは小さい身体でなんとか青年を受け止め、しかし、「あわわわわ!」と情けない悲鳴を上げて、その場にぺちゃんと座り込んでしまった。 見事なまでに一瞬で落とされた(……)のだろうルードリッヒの頭を胸に抱きかかえたタマリが、眉を吊り上げて襲撃者(?)を睨め上げる。しかしそんな視線など痛くも痒くもないのだろう彼は、いつも程度に機嫌悪そうに、「お前」とタマリの顔に指を突き付け、横柄に顎を上げたままこう言い放った。 「そういう顔も出来るんじゃないか」 「あぁ?」 ピシ! となぜなのか額に血管を浮かべたタマリが、いかにもガラ悪く言い返す。 いや、なぜもクソもない。 ほぼ問答無用(だとしか思えない)で部下を落とした男の第一声として、これほど不適切な言葉はないだろう。 「感心してるとこ悪ぃんだけどね、班長。いい加減特務室戻んねぇと、ウチのぼうやがドクターに拉致られるらしいんだよね」 と、ドアの前に立ち塞がっていたヒュー・スレイサーを押し退けたデリラが、苦笑混じりに言いつつ肩を竦めた。 「…アタシは行かねぇつってっ」 「いや、だからね。別件だって」 まるで縋り付いているかのようにルードリッヒを抱いたタマリが、不意に口を閉ざしきょとんとデリラを見上げる。 「別件? て、何さ、それ」 「最初にダンナの言い出したのは、とっくに消えたって事だよね。で、それよりも重大な用件で探してたのに、お前どこにもいないしね、もー大変だったよ」 現れた時からずっと苦笑いのデリラが言い、ようやく自分の勘違いに気付いたタマリが、落ちたきりのルードリッヒを床に放り出して立ち上がる。 ゴン。という鈍い音と「ふぎゃ」という情けない悲鳴…。 「別件、何? 今度は何さ?」 を無視したタマリが、デリラの腕を取って彼を急かしつつ廊下へ飛び出す。その華奢な背中と苦笑いのデリラを呆然と見送りながらルードリッヒは、床に落とされた際強打した後頭部をさすった。 「……………………………」 ルードリッヒ、相当困惑中。 「つまりだな」 だからそこでヒューは、ようやく、自分とデリラがタマリを探してここに来た理由を青年に話した。 「最初にアンくんが第七小隊を訪ねた件、じゃない緊急だ」 相変らず横柄に腕を組んだ涼しい顔の上官をうっそりと見上げたルードリッヒが、心底疲れた溜め息を吐く。 「班長…。そういう重要用件は、手を出す前に言ってください…」 「タマリは、で、いきなり「渡しません」のヤツには言われたくないな」 どっちもどっちだろう。証拠に、デリラはずっと困ったように笑っていたし。 「でも班長、タマリがここに居るって、よく判りましたね」 「お前を自室待機に回したのは、俺だからな」 ふらふら立ち上がろうとするルードリッヒの腕を掴んで引き上げたヒューに視線を向けた青年が、さする手を後頭部からこめかみに移動させる。入室するなり「タマリは」とぶっきらぼうに訊かれたルードリッヒが「渡しません」と答えてすぐ、ヒューは目にも停まらぬ速さで青年の襟元を掴んで手前に引き倒すなり、軽く折り曲げただけの膝をこめかみに当て瞬間で落としたのだ。 「それにしても、随分早かったなぁって」 かなり乱暴にソファに押し込んだルードリッヒを見下ろしたヒューはそこで、口元に薄い笑みを浮かべた。 「俺は単純明快な格闘技バカだからな、あいつの行き先がここ以外思い浮かばなかっただけだ」 「………………」 「信じてないだろ」 「………………………」 「嘘でもいいからここは信じておけ。でないと、もっと都合の悪い理由を聞かせられるハメになるぞ」 「参りました」 深い溜め息を吐いて顔の前に腕を翳したルードリッヒを少し笑ってからヒューは、それじゃぁしっかり休めよ、と言い置き部屋を出て行った。 「……………やっぱりアレなの? 頭上が班長の部屋ってのが、マズかったかなぁ」 エドワース管理人には口止めしたのに…。とルードリッヒは自分の腕越しに天井を睨んで、もう一度深く溜め息を吐いた。
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