■ 前へ戻る   ■ 次へ進む

      
   
   

16.全ての人よ うらむなかれ

   
         
(13)

           

 少しだけ休ませてくれというミナミの済まなそうな顔に、タマリは笑顔で頷いた。

 どうしてそうしようと思ったのか理由は判らなかったけれど、みんな心配しているのだからせめて姿を見せてあげてよとさえ彼が言い出さなかったのは、ミナミの笑顔が疲れ果てて見えたからだろうか。

 それが効を奏したのか、直後にミナミは、二枚のメモをテーブルに置き、広げた方を「みんな」に、折り畳んだ方をドレイクに渡して欲しいと彼に伝えた。

 それから。

「その時が来たら、必ず判ると思う。…ねぇ」

 始めて目にした青年の文字は、まるでその姿を体現したかのように整っていて綺麗だった。一文字ずつ慎重に綴られる単語。慎重に、慎重に選び出された言葉。ペンを握った細い指先が微かに白くなって見えたのは、青年が、あまりにも緊張していたからか。

          

「わたしはデリケートな患者に安心感を与える精神科の医者でなく、口汚く患者の不注意を罵りながら切った貼ったするのが性分だから、これはあくまでも無責任な「わたし」の意見でしかないというのを念頭に置いて聞け。

 スレイサーの言う通りアイリー次長が「話せない」のではなく「話さない」のなら、彼には、「話したくない」理由か、

           

 どうしても、「聞かせたい」ヤツに「言いたい事」があるんじゃないのか?」

         

 タマリが勢いで顔見知りになった医療院兼警備軍医務課の女医は、刺だらけの大輪の華みたいに豪華で容赦なかった。ヒュー、アリスとは旧知の仲で、アンとも知り合いらしい彼女、ステラ・ノーキアスがどうしても「いい人」に見えなかったのは、いかにも医者らしい神妙な顔でそう言った後に付け足した一言が、あまりにも乱暴だったからだろう。

         

「だとしたら、アイリー次長はとんでもないわがままだな。弱くて、護られて当然の人間が周囲を騒がせていいという甘い考えで今まで生きて来たんなら、是非とも、一度わたしのオフィスに連れて来い。その根性、わたしが叩き直してやる」

         

「…………………」

 ヒューの知り合いだと言うが、女スレイサーだ、とタマリは内心唖然としたものだ。

「ところがまぁ、また…。それもさすが、ヒューちゃんの知り合いつったらいいのかねぇ。憎まれ役を平気で買って出て、爽やか系笑顔で颯爽と退場しやがる、あの女医さんめ」

 てけてけと電脳班執務棟の階段を登りながら、タマリが嘆息する。

 当然、ミナミをそんな風に言われて黙っていなかったのは、アリスだった。デリラの相当渋い顔つきを見れば、彼にも言いたい事のひとつやふたつあっただろうと察しがつく。ただし、その時点で既にヒューはステラの真意を汲んでいたのか、壁に寄り掛かったまま天井を仰いで失礼にも溜め息など吐いていた気がする。

 つまり。アリスはそこでステラに、ミナミの事を何も知らない知らないと言いながら勝手な事を言うなと、今にも殴りかからんばかりの形相で彼女に詰め寄ったのだが、それにあの女医は、あっけらかんと言い返したのだ。

         

「ああ、確かに知らないな。だからわたしは、お前たちからアイリー次長の人物像を予測して話してるんだが?」

       

 そこで笑顔だ。毒のないキレイな笑みだった。明るいオレンジ色の短髪と、褐色の肌に生える翡翠の瞳。それらが輝いて見えるような微笑で室内を凍りつかせ、最後にアンに投げキッスして退場したステラを、タマリは成す術もなく唖然と見送ってしまった。

「みーちゃんをそんな風に思わせてるのはアタシたち、ってか。まー、そうかもね…。だからってあんた、あれはないでしょ、あれは」

 当惑と困惑と衝撃に疲れ果てた人間を、更にどん底に叩き落す完全無欠の荒療治だわ。ともう一度深い溜め息を吐き出し、タマリはようやく第七小隊執務室に到着した。

 さすがにヒューは最初から判っていたのだろう、爽やかに「ごきげんよう」などと言い置いてステラが消えた直後、惚けてソファに座り込んでしまったアリスと、呆然と立ち尽くすアン、相変わらず渋い、しかし、少し前とは完全に赴きの変わった表情でデスクに腰を下ろしているデリラに向かって、「どうやら、ミナミをそういう風に思われたくないなら、俺たちがどうにかしろと言いたいらしいな」などと苦笑混じりに言っていた。

「どーしよ、あの女医さん。惚れたかも。マジで。でも、好きにはなんない。口喧嘩とかしても勝てそうにないし」

 冷静になって考えれば、タマリを含む電脳班や第七小隊、この「異状事態」に遭遇し直接関わり合った者がこの半日で出来たのは、せいぜい大騒ぎしてミナミに振り回される事だけだった。しかし当事者の常であるように誰もそれに気付けず、もしかしたら何か気付き始めているのかもしれないヒューにしても、逆に、当事者の困惑が判っているからあまり強くも言い出せなかったのだろう。

 刹那でそれを理解し、平然と扇動する者を買って出て、怨まれようが気にも停めず。

「…………まー、そういう女性じゃねーかなっては、ちょっと、思ってたけどさ…」

 タマリは、彼女の知らないところで、彼女の名前を、知っていた。

「うーす、たっだいまぁー」

 からりっ! と勢い良くスライドドアを引き開け、いつもと同じ笑顔を取り繕って執務室に帰還する。

「ねー、待機解除の命令て特務室から届いてた? うろんちゃん。もー帰っていいつうからさぁ、みんなでどっかごはん食べに…って? あわぁ!」

 軽くスキップなどしながら入室し、ドアに近い座席に着いて端末を睨んでいたウロスに笑顔を向けた途端、二メートル近い大男が、ガターン! と盛大に椅子を蹴倒して立ち上がるなり、笑顔のタマリを無表情に見下ろしたまま、その襟首を掴んでぶらりと顔の前まで持ち上げたではないか。

 思わず、脊髄反射で手足を縮めたタマリが、鼻先を突き合せたウロスの顔をきょとんと見返す。

「あ、髭ヅラにぶしょーひげ発見」

 引き攣った笑いを口元にだけ浮かべて、恐る恐る伸ばした人差し指でウロスの頬をつつこうとした、タマリ。

「うにゃぁっ!」

 その細っこい指先に唸りながら食い付くマネをしたウロスの、いつにない据わった目つきと冷え切った気配。それから、指先寸前で打ち合わされ、ガツッ! と恐ろしい音を立てた前歯に怯えたタマリが、またも手足を縮めてがたがた震え出す。

「……たーーーーまーーーーーりーーーーーー!」

「ななななななな、なんなんだよおおおおおおおっ!」

 その悲鳴と物音を聞き付けて小隊長室からばたばたと現れたスーシェに冷たい目つきで睨まれたタマリは、ウソ泣きしながら力一杯言い返した。

「アタシが何したって言うのさあああああああああっ!」

       

        

 ソファの中央に座らせられたタマリは、叱られた猫みたいに小さくなって肩を落とし、くすん、とわざとらしく洟を啜っていた。

 まるで少女のような彼の右隣は冷たい表情のスーシェ、左隣はケインが固め、背後にはウロスが仁王立ちし、正面のソファには当惑気味のイルシュとジュメールが座り、ブルースは、そのジュメールの肩越しにじっとタマリを見つめている。

 つまり?

「反省した? タマリ。ぼくらがどれだけ君を探し回ったか、これでよーーーーーく判ったよね」

「くすん。判ったよぉ。もー消えたりしませんからぁ、許してよーすーちゃーん」

 うああああああん、とこれまた盛大にウソ泣きしながらスーシェの膝に倒れ込んだタマリの小さな頭を、スーシェがようやく解れた表情で、苦笑交じりに撫でてやる。

「よしよし、判ればいいよ、判れば。ね? だからほら、もう泣かないで」

「というか、それはウソ泣きだと思うのですが? スゥ小隊長」

「反省してる人の態度だとも思えない、タマリ「魔導師」」

「つかうっせぇ、クソガキ! てめーは黙ってろ!」

 いつものようにケインが言い、追って、そっぽを向いて吐き棄てたブルースを、がばりと身を起こして睨む、タマリ。

「…やっぱあれなの? タマリさんて、反省とかしないの? ふつーに」

 むむ、と眉根を寄せたイルシュに訊き返されて、タマリは思わず渋い顔を作った。

「…ふつーに反省とかしねーつうかさー、やっちまったモンしょうがねーじゃん、とかいわゆる開き直り? それって大人としてはどーよとか思うし、実際自分がそういうヤツ見たらめちゃムカつくんだけど、今回に限りアタシはなんも悪い事してねーと思うんだよね」

 かなり投げやりなその態度にブルースはまた不愉快そうな顔をしたが、逆に、スーシェとケインは苦笑を交わしただけだった。

「まぁ、そういう内容の謝罪をミラキが入れて来てた訳だし、とりあえず、今回は見逃すとして…、それでね、タマリ、結局、ミナミさんはどうだったの?」

 強制連行された小隊長室で隊員に囲まれた本当の理由がそれだとタマリも気付いていたのか、それまで、どこに居たのかとか何をしてたのか責められていた時はいつもと同じに程よくふざけていたものを、スーシェが本題に触れた途端に表情を引き締める。

「うん…。手っ取り早く言うならさ、異常なしなんだよね…。あんまり無茶も出来ないから、簡易診断で声帯とかなんとかが正常に働くかどうか調べただけなんだけど、身体機能としてはまるで問題なし。

 んで、だったら精神的なもんだろって思ってさ、試しに、みーちゃんに何か言ってみてって頼んだのよ、アタシ」

 そこで一旦言葉を切ったタマリは細っこい腕を上げて毛先の跳ね上がったショートボブをがしがし掻き回してから、なぜなのか、不意に口元を綻ばせ、でもぎゅっと眉を寄せて、心底困ったように笑ったのだ。

 それで、思わずイルシュとジュメールが、ウロスとブルースが、顔を見合わせる。

「そしたらどうよ、あのコ。

 ハルちゃんのマント抱えてベッドに座ったままさぁ、すごく嬉しそうに、でも困ったみたいにすこーしだけ眉きゅって寄せて、ほわん、て笑いやがんの」

 複雑な心境。タマリはその瞬間を思い出し、膝に置いた手を握り締めた。

「すっげーしあわせそうに見えた」

 同じ話を特務室でした時、ヒューとアンが一瞬視線を交わしたのをタマリは覚えている。すぐにアリスがそんな訳ないとヒステリー気味に叫んだせいで、その真意を問い質すチャンスは逃してしまったが。

「怖かったよ、ホント。アタシさ、そん時もうみーちゃんは狂っちゃったんだって思った。そのくらいキレイな笑い方で、逃げ出したいくらい、辛かった」

 でもさ。

 とタマリは、握り締めていた両手を開いてそれに視線を落としたまま、囁く様に付け足したのだ。

「狂ってるつうか、もしかしたら、何か憑き物が落ちたみたいな顔にも、見えた」

        

        

恋人は、気付いただろうか。

これは、二重三重、複雑に絡み合ったギミック。

果たして誰か気付いただろうか。

わたし、の、消えた意味に。

        

わたしは、全てを、鮮明に、知らなければならない。

        

     

そう。

          

       

 

あなたの、愛、さえも。

         

           

「そんで、アタシがぼーっとしてたらさ、傍にあったメモに「判ってる」って書いて見せてくれて、それからちょっと筆談したんだけど、みーちゃんね、今は何も「言うつもりない」んだって。少し休みたいだけ、とかは言ってた…つうのかな、まぁ、面倒だから言ってたって事にすっけど、あとは、みんな平気? とか、ちょっと色々訊かれて、んで、とりあえず大丈夫だよって答えたら、「ごめん」て一言書いたメモくれて、みんなに伝えて欲しいって」

 その場の空気が判らないからだろう、あまり要領を得ているとは思い難いタマリの言葉に、誰もが当惑している。

「…判ってるって、ミナミさん、何が判ってるの?」

「あの様子じゃ、周りが今どうなってるかとか、ハルちゃんが何をしでかしたかとかまで判ってるっぽい。あくまでそれはアタシの予想だけど」

「それならば、我々を含む、今こうして気を揉んでいる関係者に、そう説明してくれてもよさそうなものだと思うのだが?」

 不満げなケインの横顔に苦笑を向けたタマリが、ぴ! と人差し指を立てて、それだよ、と言い返した。

「判ってるんだよ、みーちゃんは。みんなが安心したがってるのも、みーちゃんに大丈夫つって欲しいってのも、判ってるの。でも、まだみーちゃんとしても確証みたいのがないんだな、きっと。だから、余計な事言いたくないんだよ」

 多くを語らなかったミナミ。

 しかし、タマリには判った。

 あの笑顔と。

 静謐な空気と。

 細い腕に抱いた緋色のマントと。

 たった一言、タマリにだけ告白された秘密。

         

 オトサレル。

       

 内緒な。と少し照れたように差し出されたメモを見て、タマリもミナミに笑いかけた。

 その時タマリ・タマリという男の少女っぽい顔を飾ったのは、紛れもない穏やかな笑顔であり、あの、悲痛に枯れて行く笑みでなかったのを目にしたのは、ミナミだけだったけれど。

「んー。だからさ、みーちゃんはなんとかすると思うよ、自分の事。んで、特務室でも話しして来たんだけど、アタシらはそれぞれやんなくちゃなんねー事をやりましょうよ、って。どうあってもこの件は、判ってるみーちゃんが動き出すまで、何も解決しねーよ」

 多少混乱してたのは確かだろうとタマリが最後に言い足し、スーシェも渋々ながら頷いた。

 それで結局第七小隊は執務室の灯りを落とし、深夜近く、今日の勤務を終え揃って下城する。夕食に行こうと誘うタマリに反対する者もなく、それぞれがどこかしら重苦しい気持ちながら、天蓋の向こうで煌く夜空に黒々と浮かび上がった尖塔群を一度だけ振り返って、誰ともなしに、次の登城は明後日の朝だね、と確かめ、彼らは。

 ハルヴァイトの残した重大な「ヒント」を静まり返った執務室に残したまま、城を後にした。

  

   
 ■ 前へ戻る   ■ 次へ進む