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16.全ての人よ うらむなかれ

   
         
(22)

  

 本日も事態状況に進展なし。という報告の少し後、今度は、ミナミが私室から出て今は室長室におり、ヒューが見張っているという追加報告を受け取った。

 執務室ではなく陛下私室のカウチに膝を抱えて蹲ったままウォルは、空中を虚ろに見つめ考える。

 ミナミを呼ぼうか。それともそっとしておこうか。

 彼の青年が口を閉ざした経緯なのか理由なのかは、おおよそ理解出来た。ドクター・ステラ・ノーキアスに面と向かって糾弾されたのは電脳班だけだったが、結局は、この「事件」に関わる誰もがミナミの言葉を奪う原因だったのだろうと、ウォルは思う。

 それならばいっそ、何もせずにこうして拗ねているくらいが丁度なのではないだろうか。今ミナミは誰も必要としていない。彼が本当に必要としているのはハルヴァイトであって、他の誰かが憐れみや少しの期待を持って差し伸べてくれる手は、もしかしたらではなく確実に、煩わしいのか。

 ならばやはり、そっとしておいた方がいい。

 ウォルは横向きにカウチに収まったまま、固い背凭れに肩で寄り掛かり、抱えた膝の上にことりと額を載せた。溜め息はいい加減使い果たしたつもりなのに、尽きる事無く紅い唇から零れては床へと転がり落ちる。

 丸く小さくなったウォルの背中を、ドアの横に控えていたクラバインはもう何時間も見続けていた。朝に出した紅茶には手もつけられず、すっかり冷めて渋くなってしまっただろう。せめてそれを新しいものに取り替えようか、それともこのままウォルはそっとしておこうか、クラバインもまたずっと考えている。

 紗のカーテン越しに、天蓋の向こうで煌く陽光がほんのりと射し込む室内。それなのにここはなぜこうも寒々しいのかと内心舌打ちしたクラバインは、動かない彫像のようにその場に佇んだまま、ふと、思い出す。

 この重く冷たい空気は、何も、数日のものではなかったはずだ。

 もう何週間も。もう何ヶ月も。この私室の火は、消えて久しい。

 あの日からこの部屋の主人は、我侭を言わなくなった。

 あの日からこの部屋の主人は、華やかに笑わなくなった。

 あの日からこの部屋の主人は、時折ああやって黙り込む事が多くなった。

 あの日、この部屋の主人は、どこかに、何かを、置いて来た。

「陛下」

 無意識に呼びかけてしまってから、クラバインは自分に当惑する。顔を上げて振り返ったウォルが長い髪を揺らして小首を傾げ続けろと促がして来るのだが、続けるも何も、別に話題も用事もない。だから隙なく執事のように振る舞う陛下側近は、地味な顔立ちを一層地味に引き立てる眼鏡を直してから、にこりとウォルに微笑んで見せた。

「お茶を、お取り替えしましょうか?」

 本当は、何を言おうとしたのか。

 つい今しがたヒューが内密に文字列だけで報告して来た事柄を、残酷にも告げようとしたのか…。

「ああ、頼む」

 しかし摩り替わって口を衝いたのは、取るに足らない話題だ。いいや、話題ですらない。それはただの言葉の羅列であって、ウォルの顔を上げさせ、クラバインをドアから離れさせただけだ。

「…今度はミルクティーにして差し上げましょうか。砂糖を多めに入れて、ブランデーを少し垂らして。身体が温まりますよ」

「…毎回思うんだが、クラバイン。お前、意外とそういう気遣いが細かくて、気持ち悪い」

「……………。」

 そこまできっぱり言われると返す言葉もないのか、クラバインが苦笑しながら白磁のカップを取り上げ、部屋の片隅に置いていたワゴンに向かう。その動きを追うように眺めながら抱えていた膝を解放して爪先を床に下ろしたウォルは、サイドテーブルの下に転がっていた底の浅い靴に足を突っ込んで、片方だけ自分の方へと引き寄せた。

「クラバイン、お茶の前に靴。それと、ショールも」

 はいはい。全く、少し動いたと思うとすぐ甘える。などとかなり失礼な感想を抱きつつも、クラバインはティーカップをワゴンに置いて引き返し、ベッドの上に広げられていたショールを手にしてウォルの背後に回った。カウチに座ったままぼんやりとどこかを見つめる蒼白い頬に、長い睫が影を落としている。

 また少しやつれたなと思う。

 それでまたきっと、クラバインは「彼」に無言で責められるのだ。お前は、何をやっているのかと。

 柔らかな布を大きく広げ、白いマオカラーのシャツに包まれた弱々しい肩を包み込む。そっと動いたウォルの手がその胸元を掻き抱き、縋るように握り締めたのに、クラバインは人知れず溜め息を吐いた。

 薄墨色のショール。

 雨上がりの雲に似たそれを、主人は愛しげに抱き締めるのだ、いつでも。

 なくした何かを、懐かしむように。

 悲痛に歪みかけた眉を押し留めてカウチを回り込み、主人の足元に跪いて右足の突っ込まれている左の靴を手に取り、折り曲げた自身の膝にウォルの細い足を載せる。お前特務室クビになったら僕の執事にしてやる、とウォルがほんのり笑い、では執事が欲しくなったならいつでもクビにして下さって結構ですよと答え丁寧に靴を履かせて、サイドテーブルの下に転がっていたもう一方の靴を手に、綺麗に切り揃えられた小さな爪に視線を落として足首に手を添えた途端、ごん! と、ノックというよりはドアを殴り付けているような音が室内に響き渡った。

 その体勢がよくなかったのか、普段ならば即座にドアに歩み寄り来訪者を咎めるはずのクラバインが動けない一瞬の隙、ドアが遠慮会釈もなく開け放たれる。

「…アイリー?」

 薄暗い廊下から薄明るい室内に踏み込んで来たミナミを目にして、ウォルが呆然と呟く。しかしクラバインは、青年の纏う異様な緊張に微か表情を強張らせ、主人の足を床に下ろして立ち上がろうとした。

 何があったのか。今度はなんなのか。この数日、誰もが何か起きる度抱く不穏な予感を違わず脳裏に思い浮かべる、クラバイン。

 青年のダークブルーが、ウォルとクラバインを射貫く。動くな。息をするな。瞬きさえ許さない。まるで脅すように見開かれた青い瞳と、何も告げないと誇示するように固く引き結ばれた薄い唇。刹那か永遠。全てを「記憶」するかのようにじっと室内の一点、ウォルの白皙を見つめていた青年がすと爪先を毛足の長い絨毯に滑らせた時、クラバインは悟った。

 ミナミの纏った緊張は、彼が彼と闘っている証しか。

 ならば全てを青年に任せよう。そのために出来る事ならばなんでもしよう。そう自らを押し留めたクラバインは立ち上がる事を放棄し、代わりに、跪いた姿勢のままウォルの正面から退ける。

 クラバインの仕える主人を、どっぷり浸かった温く刺々しい泥の中から引き上げるのは、きっと、この「天使」なのだ。

 大股で近付いて来るミナミから傅くように俯いて退去したクラバインに視線を移し、ウォルが奇妙な表情をする。それから彼は、床に下ろされた自分の足をいっとき見つめ、意を決して顔を上げた。

「お前、いつ部屋から…………………」

 引き攣った笑顔をミナミに向けたウォルはしかし、そこまで言って言葉を無くし、いいや、吐く息を瞬間で停め、次には黒曜石の両眼を限界まで見開いて、息を飲んだのだ。

 ミナミは、やはり何も言いはしなかった。

 ただ、無造作に伸ばした左手で………………。

 ウォルの、ショールに縋り付いた腕を引っ掴み、驚愕に凝り固まったそれを無理矢理身体から引き剥がして、引っ張って、入って来た勢いでくるりと踵を返した。

「アイ…リー…………?」

 腕を引っ張られてカウチから転がり出たウォルが、蒼褪めて唇を震わせる。それをちらりと見遣ったクラバインは動かないまま、静かに、極力静かに、青年の決意と行動が脆く崩れ去るのを厭うように囁いた。

「陛下。抵抗してはなりません。ミナミさんの好きにさせてあげてください」

 その言葉に、ミナミは一瞬だけクラバインを振り返った。緊張した面持ち。ウォル以上に蒼褪めた顔。それでも輝きを失わないあのダークブルーが、微かに笑った気がする。

 抵抗するとかしないとかの問題ではなく、最早何がどうなっているのかと当惑したウォルは、ミナミに手を引かれるまま廊下に出た。なぜか反射的にその手を振り解こうとしてしまった時、驚いているウォルではなく手首を強引に掴んでいるミナミの背中がぎくりと震えたのに、思わず「ごめん」と謝ってしまう。

 ミナミは、真っ直ぐ正面を向いて足早に短い廊下を抜け、ウォルを引き摺るようにして室長室のドアをくぐった。心臓が悲鳴を上げている。判っている。でもそれは無用だろう? と冴えた頭で考え、意識とは別に今にも逃げ出したがっている身体を無理矢理抑え付ける。

 恐れるな。怯えるな。「これ」は違う。これはもう憶えた。細くて暖かくて少し骨ばった手首の感触を記憶する。大丈夫。

 これは。

 この手は。

 この手の持ち主は。

 陛下。

 ウォルは。

 ずっと傍に居た。

 だから大丈夫。

 この人は。

        

        

あなたを傷付けない。

あなたを辱めない。

あなたを縛らない。

あなたを囚ない。

あなたの。

あなたが。

あなたを。

曝さない。

        

        

 鬼気迫るミナミの気配と今にも転びそうになりながら必死になって青年に追い付こうとする陛下、という奇妙な二人連れが室長室を嵐のように通り抜けるのを唖然と見送った、直後、今見た映像を脳の中で再現するなり、アリスが声にならない悲鳴を上げてソファから転がり出る。

 まぁ判らないでもないんだが。と内心苦笑を漏らしつつ、こんな時でもムカつくくらいに冷静なヒューが「ちょっと落ち着け、はしたないぞ」と呟くと、赤い髪の美女は眦を吊り上げて佇む銀色を下から睨め上げた。

「どうしてそんな平気そうな顔してるのよ、班長! 驚くでしょう? 普通は!」

 そう、多分驚く。驚くべき。

「驚いたよ、さすがに」

 しかし、本人曰く驚いているらしいが平素と変わらぬ落ち着いた物言いに、アン少年ががっくりと、ようやく事態を飲み込んで、深い溜め息を吐きながら項垂れる。

「なんか、過去にも、似たような場面に遭遇した記憶があるんですけど、ヒューさん」

「ああ、そう」

「相変らず動じないですね、何が起こっても」

 多少恨みがましい目付きで少年に見つめられたヒューが、無言で肩を竦める。

「でも今回こそは言わせて貰います、ぼくだって。人として驚きましょうよ、もっと! まさかきゃぁとか悲鳴を上げてくれとまでは言いませんから、せめてもうちょっとサプライズな感じに振る舞ってください!」

「というか、なんで俺がここで責められてるんだ? 諸兄の驚くべきはミナミが陛下の腕を鷲掴みにして通り過ぎた事で、俺がそれに驚くかどうかじゃないだろう?」

 びし! と下から突き上げて来た人差し指を煩そうに払い、またもや平然と腕を組み直したヒューの涼しい顔を凝視して、タマリが唸る。

「やっぱそうだよね? みーちゃん…、へーかの腕掴んでたよね。

 つうかっ! それってどゆ事!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

 今頃になってその事実を確認したタマリが頭を抱えて「にゃーーーーーっ!」と悲鳴を上げ、スーシェは相変らずぽかんとミナミの消えたドアを見遣ったまま傍らのデリラに縋り付き、デリラが…妙な顔でヒューを見つめる。

「つうこたぁね、班長。やっぱり、「さっき」のはおれの見間違いじゃなかったんだね…」

 さっき?

 漏れたデリラの呟きに、誰もが目付きの悪い砲撃手を振り返る。

「いや、ほらね? 立ち位置として、おれはずっとここに居た訳だしさ、さっきミナミさんが班長に手帳を「渡した」時にね、つまり…こう…」

 スーシェの手をさり気なく振り解いたデリラが、わざとのようにヒューの差し出したあの小豆色の手帳を受け取って、再度、偉そうに組んだ腕の交差した辺りにぺたりと押し付ける。

「見えたんだよね」

 周囲からその様子がよく見えるようになのだろうか、デリラはヒューの横に立って、人差し指と親指で手帳の下半分を挟み他の指を握りこんで、それをそのまま、彼の腕に預けていたのだ。

「誰かにこういう物を渡そうとするとさ、普通にこう持つよね? それで、受け取ろうとしてくれなかったら、ま、普通にこうすると思うんだけどね。そうすると、手が、腕に触るからね、おれの見間違いだと思ったんだよね」

 だってそれはありえない。

 ミナミがヒューに手帳を手渡そうとするの事態、ありえないのだが。

「それでメッセージが「少し待て、すぐ済む」だろう? ミラキの様子がおかしいと聞いて即行動を起こさなかったくせにすぐ済むというんだから、ミナミはこの件の解決方法を知っている。しかもミナミは、ナヴィの話を聞いてから少しの間、俺から目を離さなかった。…あれは多分、「記憶する時間」だったんだろうがな」

 だったらその時もっと驚けよ、という周囲の苦々しい感想などまるで無視して、ヒューは奥から姿を現したクラバインに軽く手を挙げて見せた。

「ミナミは俺を記憶した。その上で、俺に害はないと判断したから、「触れた」。だとしたら次はなんだ? なんのためにミナミは俺に触ってみる必要があった?」

「なんかその言い方が凶悪にムカつくんだけど? ヒューちゃんて」

「勝手にムカついておけ。

 つまりミナミは、確かめたかったんだよ。俺に触れるかどうか。触れたから今度は本題に移った。

 誰がどんなに言葉を尽くして懇願しても、本人が判っていたとしても、絶対に自分からミラキの様子を見に行かないだろう陛下を、黙ってヤツの所に行かせる最も有効な手段を取ったんだ」

 ヒューの指差したドアにゆっくりと視線を流したアリスが、もう一度ソファにどさりと沈む。

「もう、驚いてばっかりで疲れたわ、あたし…」

「……………」

「何? アン」

 アリスと同じようにドアを見つめていたアンに彼女が問うと、少年は、ちょっと考えてから小首を傾げ、いえね、と仄かに微笑んでこう付け足した。

「ガリュー班長って、自分が思ってる以上に愛されてるんじゃないかなーって、そう思っただけです」

  

   
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