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16.全ての人よ うらむなかれ

   
         
(21)

  

 黙り込んだミナミの顔をしばし凝視した後タマリは、ハルヴァイトから預かった臨界式ディスクの開示許可をくれと青年に申し出た。

「持ち主がいないからつうよりは、ハルちゃんのモンだからみーちゃんに確認、くらいの気持ちだけどねー」

 それに、うん、と頷いたミナミがいつもと同じ無表情なのを確かめてから、ヒューがソファの背凭れに身体を預ける。

「ところが、役者がひとり足りてない」

「そうなると、なんでしょう。上がる幕も上がらない? ですか」

「舞台ならな。映画なら、アクションの号令が出ない、になるか」

「そういう例えがさらりと出る辺り、やっぱりねぇと思うわ、班長」

「おれぁ未だに、あのムービースターが班長の家族だって信じられねぇんだけどね」

「? ムービースターがスレイサー衛視の家族? 誰だい、それ」

 とそこで、ヒューとセイル、リセル・スレイサーの関係を知らされていなかったスーシェが小首を傾げ、しまった、とデリラが渋い顔を作る。

「……。」

 ぴしりと冷えた室内の空気を笑いながらヒューにウインクしてみせたアリスが席を立ち、ミナミに小さく目で「待ってて」と合図する。それに答えて青年が頷くと、彼女は鮮やかな赤い髪を翻して、室長室を出て行った。

「諦めてバラしちゃったらいいじゃん、ヒューちゃんもさ。もー今更でしょ。特務室とかウチ(第七小隊)とかじゃ、公然の秘密なんだし、それ。すーちゃんも仲間に入れてあげなよ」

 にゃ? と小さな頭を四十五度傾けたタマリの笑顔を一瞬だけじろりと睨んでから、ヒューはそれこそ諦めたように首を竦めた。

「ゴッヘル家の安寧のためにも、その方がいいだろうしな。俺に感謝しろよ、コルソン」

 それ偉そう過ぎ。と内心突っ込む、ミナミ。

「片親と一番上の弟が役者をやってる。まぁつまり…」

 正真正銘、ムービースター。

「アリシア・ブルックとリリス・ヘイワード」

「………………………うわー」

 告げられて、少し考え込んでから、スーシェはなぜかぽかんと口を開け妙な唸り声を発した。

「まだ無名の頃、アリシアは大部屋役者だったのかな? その頃、屋敷に若い役者を集めてね、寸劇みたいなものを披露して貰った事があるんだよ。

 母が家にばかり居るものだから、母を表に連れ出す口実だったのかもしれないけど、才能のある役者のパトロンになって家族で舞台を観に行こうという話だったと思うんだ。

 その時集められた役者の中にアリシアが居て、…今更だから言うけど…、うちの兄がすっかり彼を気に入ってしまってね、父が、是非に後ろ盾にと申し出たんだけど」

 ちょっと困ったように言うスーシェの顔が、微妙に引き攣っているのはなぜなのか。

「なぜか彼に断わられてね。でも、兄は個人的に今でもアリシアの熱烈なファンで、新作ムービーの公開初日と舞台初日には、必ず豪勢な蘭の花を贈ってるらしいんだよ」

「ちなみにメイライン氏は未婚でね、噂によると、というか、酔っ払って自分で言ってたんだから噂じゃないんだけどね、もう随分前からこころに決めたお方がいらっしゃって、今でも猛烈にアタックしてるらしいよ…。誰とは言わないけどね」

 言い足したデリラの渋面が、奇妙な笑顔を作る。

「なんか、ものすげーどうでもいいネタなのに、可哀想感一杯でもらい泣きしそう」

 などと言いつつも笑っているタマリが、こちらも笑いたそうなヒューに視線を流す。

「では、ゴッヘルの兄上に伝えてくれ。役者じゃないアリシアの「買い」は黙っていれば見栄えのいい事くらいしかないから、止めた方がいいとな」

 匿名希望で。とふざけたように笑う、ヒュー。

「それなのに、無呼吸で好き勝手な事を五分は喋り続けるんだ、煩くて叶わない」

 そんな会話を聞きながら、ミナミが何かせっせと書いている手元を覗き込んだアンが、ついに吹き出した。

―――息子 → ―――

 ずず、とテーブルの上を滑らせた手帳の矢印を向けられ、ヒューが「ミナミ!」と声を張り上げる。

「あははははは! なんかすげーきんちょーかんねーよ、こいつら。おかしー」

 呼吸困難に陥りそうなくらいに笑いながら言ったタマリに、お前がな。と言いたいところを誰もがぐっと堪える。

 実際、ついさっきまでの緊張感とか不安とか、そういうものが室内からは綺麗に取り払われていた。それはなぜか。ミナミはまだ何も言ってくれないけれど、タマリの指が貫通したディスクは間違いなく「キー」で、消えたハルヴァイトは間違いなく「どこかに居て」、その手がかりは、もうすぐ明かされるのだ。

 ドレイクが現れて、ミナミが「やる」と言えば、それで。

      

       

ところが世の中はそう甘くない。

しかしわたしは落胆しない。

これもまたいつか確かめなければならない事で、

その「いつか」が今になっただけで、だからわたしは全てを恋人に任せる。

そう。これは。あなたも知りたいと思っていた事のはず。

わたしには。わたしたちには。まだ、無数のデータが必要だ。

       

         

「そういえば、消えたサーカス団長を特定するのにセイルを特務室に出頭させるというあの話は、どうなってるんだ?」

 思い出したように言いながら、アン少年に視線を流すヒュー。

「あー。まぁ、こっちも色々ごたついてて、実はまだなんですよね。先日、出頭はもうちょっと先になりそうなんですがスケジュールどうですかーって連絡したら、いつでも空けるから気にしなくていいよって言ってくれましたけど、セイルさん」

「ついでに、猛烈デートに誘われて、断り切れなくておれに泣きついてきたけどね、ボウヤ」

 困ったように眉を寄せて苦笑する少年の顔を、デリラがからかうように覗き込んだ。

「…………………あのバカ…」

 俄かに頭痛を感じたらしいヒューが項垂れて忌々しげに吐き出し、それをミナミが小さく笑う。

 しかしそれは、ある意味酷い違和感のある場面だった。

 きっといつものミナミなら、好き放題突っ込みに突っ込んだだろう数々の話題。しかし青年はたった一度ヒューをからかっただけで、後はずっとこんな調子で薄く微笑んでいた。

 調子が出ないというよりは、少しさみしい気がする。

 だから、随分と自分たちは、この青年の無表情から繰り出される容赦ない突っ込みに馴らされていたのだと確認してしまう。

 一瞬、室内に奇妙な空気が流れた。

 二呼吸ほど続いた固い静けさを破る、金属の軋み。この時ばかりは笑っていなかったタマリだけがドアを振り返り、戻って来たアリスの顔を見て、また、眉を寄せる。

「アリちゃん、ひとり?」

「ええ、ひとりよ」

「? レイちゃんは?」

 もしかして、誰もいない間に屋敷にでも帰ってしまったのだろうか、と顔を見合わせて首を傾げる面々を強張った表情で見回してから、アリスは弱々しく「ミナミ…」と、曇らないダークブルーで見つめて来る青年を呼んだ。

「ごめんなさい…、ミナミ。あたしが…………………迂闊だったわ」

 重苦しく搾り出されたのは、悔恨のセリフ。

 それだけで何か判ったのか、ミナミはちらりとヒューに視線を送り、すぐにそれを戻して、ドアを背にしたまま立ち尽くすアリスを示した。

 命ぜられる格好でソファを離れたヒューが、俯いたきり黙り込んだアリスの肩を小さく叩いてから彼女の手を取り、とりあえずソファに戻って、何があったのか落ち着いて話すようにと囁きかける。握るのではなく添えられただけの手を見つめ、それから頷いてやっと一歩踏み出した彼女の背中を支えるよう腕を伸ばしてソファに向き直り、ヒューは、無言でミナミに視線を送った。

 一難去ってまた一難、か? と。

 そうだろうとミナミも思う。迂闊だったのは、アリスだけではない。

 無言ながら探るような気配に晒されて、アリスは口唇を柔らかく噛んだ。どうしてもっと早く気付かなかったのだろうか。どうして、そうなると判らなかったのだろうか。ハルヴァイトも……ウォルも……いない今、あの、尋常でないドレイクの苛立ちを何かの前触れだとすぐにでも判ってやらなければならなかったのは、アリスだったのではないか。

 ようやくソファに到達して腰を下ろしたアリスの手をそっと膝に置いたヒューが、一旦室長室を出て行く。その時彼は何も言わなかったが、ミナミは黙して小さくなったアリスを見つめ、ヒューが戻って来るのを待った。

 彼は何をするのだろうと、青年は考える。クラバインに連絡するのか。もしかしたらマーリィを呼ぶのか。どちらにしてもヒューは何かをしたとは言わないで、ただ、暖かい湯気の立ち昇る薫り高い紅茶を手に戻って来るだろう。

 ミナミの予想に違わず、数分で戻って来たヒューの手には人数分の新しいカップとティーポットが携えられていた。それを目にして微かな空気の動きだけを伴い近付いて来たスーシェにトレイを手渡し、ヒューがミナミの背後に回って佇む。

 では、さて、何があったのか。

 俯いたまま茶器の触れ合う音を聞いていたアリスがようやく顔を上げた時、その場にいた誰もが彼女を安心させるように小さく頷いた。

 もう、驚かないから。

 何があっても、大丈夫。

 アリスは、浅く息を吸い込んだ。

「ドレイクは、今は、ダメよ。

 あたしが仮眠室に入った時、彼はベッドに寝転んで天井を睨んでたの。まずミナミが室長室に居て、ドレイクに話しがあるって言ってたってあたしは伝えた。

 それから、ハルがタマリに臨界式ディスクを預けてた事も、簡単にだけど、伝えた。詳しい事は向こうで話すからってね。

 とにかく、ミナミが待ってるから早くしてって言ったら、ドレイク、起きたのよ。ちょっと疲れたような顔に見えたから、大丈夫? って声を掛けて、その時彼は大丈夫だって言いながらベッドから降りて…。

 でも、それで終わり。

 それっきり。

 ぼんやりっていうよりはずっとはっきりどこか見たまま、何か言いたそうに口を開いて、すぐ閉じて…。

 おかしいと思ったのはその時。だからあたし、ドレイクの名前をもう一度呼び直したの。そしたらドレイク、今行くよって答えたわ。何もしないでね。何かする素振りも見せないのに、すぐ行くって、繰り返した。

 それから…」

 アリスはそこで一旦言葉を切り、細く吊り上がった眉をぎゅっと寄せた。

 思い出したのは、どこかハルヴァイトに似た横顔。そっくりでもないのに、どうしてなのか今日に限ってやけに似ていると思い知ったのは、ハルヴァイトと同じような冷たい事を、でも、彼なりに噛み砕いて角を取り、少しは柔らかく伝えようとするはずの唇に登った酷薄な笑みのせいかもしれない。

 自嘲でもなく。

 諦めでもなく。

 なんの感情も伴わないのに、微か引き上げられた唇の端。

「意味は判らないけどなって言ったのよ」

 なんの脈絡もなく吐き出されたような言葉に、タマリやスーシェが首を傾げる。しかしそこでなぜかミナミは、蒼褪めた唇を震わせるアリスを真っ直ぐに見つめ返したのだ。

 多分、と青年は深い青色の瞳でゆっくり瞬きしながら、苦々しく浅い溜め息を吐いた。

 ドレイク・ミラキは機能を停止したがっているとでも言えばいいのだろうか。単純に言うならば、極端に疲れ果てている。そうでなければ、彼はまるで、彼の父親の違う弟と同じように、あっさり全てを「面倒」の一言で片付けたいのか。

 しかし良くも悪くもドレイクなのだ。ハルヴァイトのように本当に全てを投げ出す事も出来ず、だからといってそれらに関わっても尚「自分」を保つ事も出来ず、あの、煌くような白髪と曇天の瞳が特徴的なミラキ家の当主は、理解し行動する事を放棄する。

 ミナミの知る限り、二度目の現象。アリスに問い質しても、多分、あんなドレイクを見たのは二度目だと答えるだろう。

 一度目は、いつだったのか。

 がんじがらめの軋轢に耐えかねたドレイクが、そんな風に全てから遠ざかろうとしたのは。

 またかよ。とミナミは内心深く深く嘆息し、自分の記憶力と、珍しくよく喋ったあの時のハルヴァイトにちょっとだけ、ほんの少しだけ、一ミリグラム(?)くらい感謝した。

          

(でも、ぜってーぶっとばす!)

       

 過去、ドレイクが同じような状況に陥った原因は、ハルヴァイトだった。父親の違う弟だと意を決して告白したドレイクに非情な一言をぶつけて失望させ、その頃はまだ生存していた母親、マーガレッティアはハルヴァイトに会わないと言い張ってまた息子を絶望させ、まだ十五か十六だったドレイク少年を徹底的に叩きのめして、屋敷のクロゼットに逃げ込ませた。

 黙り込んだミナミから、スーシェが差し出したままの状態で忘れ去られていたカップに視線を落としたアリスが完全に沈み込み、気丈な赤色の美女らしからぬ表情で長い睫を伏せる。

 その意味が、それこそ判らないのだろうタマリたちが何か言いたそうにデリラとヒューの間で視線を往復させるが、残念ながらこの部屋でその事実を知っているのはアリスとミナミだけだったから、結局問われる形になった二人も顔を見合わせるばかりで、誰も呟きさえ漏らせなかった。

 その間、室内を侵食しようとする当惑の気配などまるで無視して、ミナミはアリスを見つめたまま、ぎゅっと膝の上に置いた手を握り締めていた。

 では、さて、「その時」、ドレイクをヒミツのクロゼットから叩き出したのは誰だった?

 そして今回、ドレイクを仮眠室から連れ出せるのは、誰なのか。

 確信犯だったら最悪だ。きっと、そうなのだろうが。

         

(マジ、ぜってーぶっとばす。俺でなくアリスとヒューが)

      

 前例の詳細を反芻し、落ち込んだアリスに伝えるべき言葉を無表情ながら必死になって考えつつ、ミナミはふと、テーブルの横に立ったまま臨界式ディスクをぐるんぐるん回しているタマリに視線を流した。

 無意識に。

 それを見て。

 途端、今の今まで底の辺りを抑揚少なく漂っていた気持ちが、沸点を突破するのを感じた。

 間違いなく計画的犯行。でなければ、あのディスクが渡されるべきはドレイクだったはず。

 しかし、ハルヴァイトはそうしなかった。

 なぜなのか。

 なぜか。

 彼には、知りたい事があったのだ。

        

(つうか世間をこの状況に突き落とした挙句、ソレ、まで確かめんのかよ!)

      

 最悪。最悪。最悪。あの悪魔め! と思わず絶叫したい気持ちになりながらも、ミナミは辛抱強く唇を噛み締め俯いて、指先が白くなるほど握り締めた自分の手を睨みつけた。

 もし今ミナミの考えが全て見通せたのなら、ハルヴァイトだってどうしようもないが、この期に及んで一言も発しないミナミの強情振りにも周囲は唖然としただろう。

 だからお互い様か?

 仲のよろしい事で…。

 しかし残念ながらミナミの考えは誰にも知られず、唯一、項垂れて小刻みに肩を震わせている青年を冷然と見下ろしていたヒューだけが、何か得体の知れない不穏な空気に微か眉を吊り上げる。

「…………ミナミ?」

 暫く待ってもミナミがなんの行動も起こさないのをどう取ったのか、ヒューが軽く身を屈めて青年に声を掛けた。

 刹那、ミナミはキッを眦を険しくして顔を上げ、正面に座っていたアリスを大いに驚かせ、横から覗き込んでいたタマリとデリラを凍り付かせ、傍らのアン少年をびくつかせたではないか。

「…………………………」

 何があった? とも訊けず呆然とする周囲を取り残した青年が、あの小豆色の手帳を広げて素早く何かを書きつける。ほとんど殴り書き、それでも体裁の整った文字でとりあえず今伝えるべき事柄だけを簡潔にしたためると、ミナミは勢い良く立ち上がり全身でヒューに向き直った。

 ミナミは、睨むような目付き、しかし平素と変わらぬ無表情で、背後に立っていた…今はソファの背凭れを挟んで真正面だが…男の顔をじっと、それこそ穴が開くほどひたすら凝視し、その間一度の瞬きさえせずに、「まるで何かを確かめるか、または何かを完璧に記憶しようとするかのようにぴりぴりと緊張した空気を纏って」、たっぷり一分近く、涼しい顔ながらどこか不思議そうに見つめ返してくるヒューの「全部」を見ていた。

 観察する。青年は、いつでも、静謐な観察者。

         

      

ではいられないと、わたしは思う。

いいや。

あなたがそれで良かった「刻」は、もう、終わった。

      

         

 ミナミの腕が微かに動く。

 何か言いたげに震えた唇。その意味を確かめようとヒューが器用にも片方の眉だけをひゅっと軽く動かす。

 その間も逸らされないダークブルーにヒューが違和感を抱いた、瞬間。

 ぱしん、とあの小豆色の手帳を押し付けられて、ヒューのサファイヤが微かに見開かれた。

 ふと、ミナミの基本的に無表情ながら強張った顔つきが仄かに緩む。ほんの少しだけ開かれた唇から、浅い吐息が漏れる。

 たったそれだけで青年はすぐヒューから視線を逸らし、さっさとソファを離れて室長デスクの向こうに見えるドアへと消えてしまった。

「…………………」

 ミナミの華奢な背中を見送らずに小豆色の手帳を開いて中をあらためたヒューの口の端に、なんだか酷く複雑そうな苦笑が浮かぶ。まさかあっさり見逃すか? こいつらは。と内心吹き出しそうになったが、それはそれで面白そうなので黙っておくことにした。

 何を?

「少し待て、すぐ済む。だとさ」

 素っ気無く言って手帳を閉じたヒューは、開け放たれたままのドアを唖然と見つめている他の五人に倣って視線を上げ、もしかしたら、とまたちょっと笑った。

 もしかしたら。

 これ「ら」もハルヴァイトの計画の内だったなら。

「……最悪だな」

 言葉とは裏腹に、ヒューの口元を飾った笑みは酷く優しかったけれど。

  

   
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