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16.全ての人よ うらむなかれ

   
         
(29)

  

 室内に詰める誰もの思考回路が正常に復帰するのを待つ間、居残りのルードリッヒにお茶を運んで来るようにとミナミは電信した。

(そんな重大な事なのか? これって…)

 実の所、ミナミとしてはその原本がどうこういうのはおまけみたいなものだったから、あまり深刻に考えていなかったのだ。まぁ確かに、ハルヴァイトから話を聞いた時は、ちょっとすげーヒミツかも、くらいは思ったが、翻訳されたディスクとあの赤い表紙の本を気軽に手渡されて、普通に調べたり読んだりしていたものだから、相当感覚が麻痺していたのかもしれない。

 吹っかけたくせに当惑する青年。その横顔に少々呆れた視線を向け、ヒューが小さく息を吐く。

「凄いぞ、ミナミ。お前もついにガリューの毒に冒されたか?」

 ぽそぽそと囁きかけられたミナミが、テーブルに放り出していた小豆色の手帳を開き素早く何かを書き付ける。

―――何が? ―――

「空気を読め、という事だ」

 いや、俺としてはすげー読みまくりのつもりだったんだけど? と言いたいのをぐっと堪えて、ミナミは「はい、すいません」と書き殴ったページをヒューの前に突き出した。

「全くもって誠意の微塵も感じられない、素晴らしい謝罪だな」

―――つうか、それをヒューに言われたくねぇーーー

 すかさず書き足された文字に、ヒューが苦笑を漏らす。

「室長。この件に関しては、ガリュー班長が戻り、それ以降報告を求めるものとする方向で、この場は保留を求める。話が進まない」

 適当に間を取ってからヒューは、難しい顔で眉間に皺を寄せているクラバインに声をかけた。

「そうですね。なんにせよ、ガリュー班長がいらっしゃらないのでは、解決しないでしょうから…」

 何やら釈然としないながらもクラバインがヒューの提案に同意すると、他の列席者も一様に無言で承諾の意を伝える。

 もう、こうなったら是が非でもハルヴァイトにはここへ戻って貰わなければならない。そして、この数日で持ち上がった驚きと疑問を、綺麗に拭い去ってくれるのを期待する。

……。ちょっと、後半の希望に若干不安はあるが。

 軽いノックの後で室内に姿を見せたルードリッヒは、微妙に重い室内の空気を肌で感じつつも、平素と代わらぬ掴み所のない笑みを口元に浮かべたままそれぞれに運んで来たお茶を給仕し、すぐに退室しようとする。それを不意に呼び止めたのはクラバインで、彼は、引き返して来た青年に小さく何かを耳打ちした。

「…私室にお戻りです。会議が終了次第顔を出すようにと、室長に伝言されています」

 潜めるでもないルードリッヒの答え。

 それでその場に居た誰もが、ウォルは陛下の顔に戻ったのだと思い知る。

 ドレイクがドレイクを取り戻したように。

 陛下はまた、ウォルの顔を脱ぎ捨てた。

 ミナミは結局、ルードリッヒとクラバインの短いやり取りの間、傍らのドレイクに一度も視線を向けなかった。どことなくローエンスに似た空気を纏う青年と、取りたててどこがどうとも表現し難い、印象の薄い上官をぼんやりと眺めていただけだ。

 ああ、そうか。とミナミはそこでなんとなく思った。

 クラバイン・フェロウという、陛下からして地味だ地味だという上官は、実は凄く恐ろしい存在なのかもしれないと。どこに居ても、「ああ、いたのか」などと失礼な事を最低一度は言われる。そういえばさっきどこかで見かけたのだが、果たしてそれがどこだったか。と誰もをたっぷり一分は悩ませる。陛下の傍に居たと判っているのに、何をしていたのかは思い出せない。

 いつも誰かに食われている。

 否。

 いつも誰かを楯にして、堂々と暗躍している。

 そんな事を考える傍ら退室するルードリッヒに軽く手を挙げて見せてから、ミナミは小さく息を吐いた。

 ハルヴァイトが姿を消して、たった三日。全てが超高速で処理される彼の世界で、クラバインのように暗躍も出来ず派手に消えて派手に現れようとする迷惑なあの男は、この世とあの世とに分散した「情報」を、全て集め終えただろうか。

 そして彼は、帰って来てくれるのだろうか。

 最後の最後で待つ事しか出来ない、か弱い恋人の元へ。

       

     

それは、

あの本の扉を開き色褪せた薄紙を捲ったページ、

その中央にぽつりと描かれた「記号」。

乳白色の紙面に燃えた炎を指差し、あなたはわたしに尋ねた。

それに意味があるのかと。

「ホムラ(焔)」という記号。燃え盛る炎を表す。

滑らかな曲線を多用したその記号を、あなたは飽きずに見つめていた。

あなたはその時、気付かなかっただろう。

なぜわたしが、その記号の表記方法を細やかに説明したのか。

ただ酷く、居たたまれない気持ちだった。

薄っすらと微笑んだあなたの細い指が、ざらついたページの表面をゆっくりと撫で。

長い睫が殊更ゆっくりと瞬いた後。

あなたはわたしを指差して、言った。

       

 

アンタの背中にも、同じ記号あるよな。

        

わたしは、わたしに、嫉妬したのだ。

わたし、に触れないあなたが触れた、わたし、に嫉妬した。

        

         

 短い吐息で余計な考えを頭から追い出し、それから、片付けるべき問題を反芻し終えたミナミが、さて、とそれまでカップに据えていた視線を振り上げる。

 それで、当惑と安堵と落胆が複雑に絡み合った空気がぴりと引き締まり、青年は傍らの銀色に軽く頷いて見せた。

 あの悪魔と同じに、この天使もまた「やる」と言ったら「やる」のだ。今回に限って言うならば、どんな妨害があろうともミナミは、ハルヴァイトを取り戻すための犠牲を…それが自分自身であればこそ…惜しんだりしないだろう。

「ディスクの解析手順自体は、そう難しいものじゃないそうだ」

 あらかじめ打ち合せていた通り、青年に促がされる形でヒューが話し出す。

 それを内心苦々しく思いながらも、ドレイクはあえて「ああ」と答えた。

 酷く情けない気持ちだった。ドレイクとしては。今回、ハルヴァイトが消えた事に起因するミナミの行動や結果について、本当なら、青年の代弁者であるべきは自分だったのではないだろうか。しかし自分は「自分」の面倒を見るので手一杯なあまり、ミナミへの対処がおろそかになっていた。

 しかし、彼の青年はそれを咎めず。

 その内に燃える焔で、全ての不安を焼き尽くす。

 別れ際、ウォルが溜め息のように呟いた言葉が胸に痛い…。

          

        

 アイリーに感謝を。僕らは今日まで彼を支えて来たと自惚れていたけれど、本当は、彼に寄りかかっていただけなんだ。

        

         

「まず、ミナミが108×108マスに表される第一期臨界式記号を書き起こす。それを今度は一文字ずつ制御系魔道師の方が記号として翻訳し、全文が翻訳された時点で、今度はそれをある特定の法則に当て嵌めて整列させ、全文を一文字で表記しタマリが収納する。

 あとは、その記号をあのディスクの描き込むべき部分に描き込めば…」

 そこまで淡々と述べて、ヒューがミナミを振り向いた。

『それで何が起こるのか 判らない』

『だから 翻訳作業と同時に 特務室では 非常事体に備えた緊急配備シフト 構築』

『全ての準備 整い次第 ディスク 翻訳に 入る』

 流れるように表示される文字列を見つめ、誰もが小さく頷く。

 今日までの三日間、ミナミが何をどう考えたのか、その上でなぜ自らの「声」を封じたのか、その答えが整然と並べられるのも、きっとあの、傍迷惑も顧みず、つまりは、「気に食わないから叩き潰す」勢いで忽然と姿を消したハルヴァイトが戻ってからなのだと、その場に居た全員が思った…。

「ま、大体の事は判ったし、みーちゃんが出来るってんだから、アタシらは信じるしかねーんじゃねーの?」

 そもそもハルヴァイトにしても、遅かれ早かれミナミがなんらかの行動を起こすだろうと予想? していたはずだし。

「ところで、ねぇ、ミナミ? その、翻訳して全文が一文字になる「一行目」? って、ややこしいわね…、それ、どんなものなの?」

 続けて何か言いかけたタマリを遮って、ふとアリスがミナミに問いかけた。

 そうえいば、先ほどから一行目だとか全文だとか一文字だとか、結局はどれも同じ「文章」を示す言葉なのだが、そればかり何度も出て、肝心の文章そのものについて誰も訊いていない。

「……………」

 問われて、ミナミは赤い髪の美女から逸らした視線を正面の空間投影式モニターに移した。

 瞬間、室内が凍り付いた。

 ミナミはそこで、ふと微笑んだのだ。何も投影されていないモニターをあのダークブルーの双眸で見つめ、仄かに色付いた薄い唇で微かな弧を描いて。

 それを、誰がどう受け止めたのかは判らない。しかし、その「全文」をあらかじめ訊いていたヒューにはその笑みが、酷く…………………幸せそうに見えた。

 そう、これは。

 言葉さえ書き換え可能な記号だと冷たく言い放つ恋人が、彼の記憶に刻んだもの。

 他者の干渉出来ないミナミ・アイリーという青年の「絶対」に、深く焼き付けられたもの。

 そして、それは。

 あのハルヴァイト・ガリューが世の中の全てを解読するために駆使する。

 多分、唯一の、言語。

       

    

それは、データで出来た世界を表す、言葉。

  

   
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