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16.全ての人よ うらむなかれ

   
         
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 ざわめきさえ許さない沈黙を、タマリの失笑が破る。

「とりあえずさ、それについての感想はありえねぇなんだけどね、みーちゃん。でも、みーちゃんがそうだつうなら、そうなんでしょ。いいでしょ。そんで、臨界に居るハルちゃんがこっち戻って来るってんならさ、みーちゃんには、その方法が判ってんだろうしね」

 挑発するようなタマリの薄笑いにも、青年は無表情を崩さなかった。ただ、両手をポケットに突っ込んだ男の前にある鉄色の箱を指差し、こくりと頷いて見せただけ。

「んじゃ、ま、やれっつうならやりましょ。

 聞いてない人も居るから手短に言い直すけどさ、この臨界式ディスクは、アタシがちょっと前にハルちゃんから預かったモンなの。その時ハルちゃんは、このディスクを渡すのはレイちゃんでもみーちゃんでもなくて、アタシだってのに意味あるんだつってたんだけど、その辺は、予想の範疇を越えないにしてもある程度納得出来る理由判ったから、気になる人は暇見付けて、すーちゃんとか電脳班とかに訊いて」

 タマリは言いながら、鉄色の箱に載せたロムを人差し指で縫い付け、にぱ、と笑った。

「こっから先が本題なんだけどさ、アタシ、このディスク受け取った時、ハルちゃんに言われてんだよね。まず表面コートを溶かしてからでないと閲覧出来ない、みたいな事と、そのコートを溶かすためのキーコードは、「知ってる人が知っている」って」

 集中する視線を全て見返したタマリがディスクに置いていた指を退けて、いかにも無造作にばりばりと首の後ろを掻く。どうしてこの男はこうも緊張感がないのかと、一瞬室内に剣呑な空気が満ちるも、本人はそれを全く意に介さず話を続けた。

「ぶっちゃけた話、それはみーちゃん意外考えられないってのが、アタシの感想。ちなみに、レイちゃんなんか思い当たる事とかある?

 一行目、ってヒントで」

 刹那ディスクに落ちた視線がすぐに上がり難しい顔のドレイクを見据える。と、ドレイクは、お手上げ、とでも言うように肩を竦めて首を傾げる。

「一行目なんて、なんの一行目だよって感じだな。ミラキ家の家訓か? そんなもんねぇけどよ」

 普段と同じにどこか飄々と答えたドレイクの口調に、微かそれぞれから笑みが漏れた。

「っつー事で、レイちゃん脱落。そしたら後はみーちゃんだけなんだけどさ…」

 ドレイクに向けられていた視線が今度は傍らのミナミに流れて、青年が頷く。

「さっき、みーちゃんに許可貰ってキーコードの入力階層だけ閲覧した結果ですね、とんでもねー事判っちゃったのよね、タマリさん」

 再度室内を見回すのは、枯れたペパーミントグリーンの瞳。

「あれこれ言うよか早いからさ、よく見てね、これ」

 そこだけいつにない固い声で宣言したタマリが、帯状モニターを指差した。

「まずー、解析陣を電脳班無印…ってこれがまー、ハルちゃん専用の臨界式文字を通常のモニターに投影するための装置なんだけどさ、ヒューちゃん」

「…なぜ名指して説明する、俺に…」

「だって、ここでそういうモンの存在始めて知ったの、ヒューちゃんとしつちょーだけでしょ?」

 そこでクラバインが、その通りです、とクソ真面目に頷た。

「簡単に説明すんなら、この箱、通常アタシら魔導師それぞれが刻印入りで用意してて、小隊の会議なんかではちょくちょく使ってるんだけど、持ち出し厳禁で部外秘扱いなんだよね。だって、これあったら、アタシなんかでもハルちゃん個人の臨界式ディスク展開とか出来るんだもの。で、本来なら本人立会いでなくちゃ持ち出せないモノなんだけど、緊急自体って事で、今回は使用許可頂きました」

 これね、これ。とタマリが指差す、鉄色の箱。

「ちなみに、内部構造はハルちゃんしか知りません。あと、ふつーはせいぜい厚さ二センチもあったら充分なのに、なんでこいつのはこうも分厚いのか、すっげー謎です。レイちゃん、なんでか知ってる?」

 話が脱線しそうだと思いつつも、ドレイクは苦笑を漏らして答えた。

「知らねぇ。内部七層らしいけどな」

 それを聞いたミナミが内心、まぁそんなモンだろ、と暢気に思う。

 七回翻訳し直し、やっと人の理解出来る言語になる、ハルヴァイトの言葉。

(…………やっぱ人間じゃねぇ…)

 思わず、ミナミは唸りそうになった。

「んで、この変換機を通して展開準備するとまず判るのはこのディスクの容量なんだけど、それがさ、どうも、五千電素くらいしかないのよ」

 とタマリはあっさり言ったものの、ヒューとクラバインがなぜかきょとんと顔を見合わせる。

「五千といえば…」

「俺たちの使う携帯端末より容量が小さいのか?」

 そうなのよー。と、タマリはなぜかそこで、あははは、と声を上げて笑った。

 容量の小さい臨界式ディスクと、一行目…。

 ミナミは、無言で室内を眺める。

「そのディスクがどういった役割なのかが問題なのではないかね? タマリ」

 それまで押し黙っていたグランが、重々しく口を開く。その時電脳魔導師隊大隊長はじっとミナミを見つめていて、ミナミも、グランを見つめ返していた。

『五千電素で出来る事 何?』

 問われて、グランが眉を寄せる。

「何がと言われても、個人差があるだろう。わたしなら、そうだな…」

 ミナミにも判り易い例えを捻り出そうとしているらしいグランが、ますます難しい顔をした。

「圧縮して、「ヴリトラ」の顕現プログラムがようやく入る程度か」

 つうか、それって微妙だな…とミナミは無表情に困った。

「…魔導機というのは、意外に小さい容量で動いてるんだな」

 腕を組んだままだったヒューがぽつりと呟き、アン少年が「違いますよ」と笑顔で答える。

「グラン大隊長が仰ったのは臨界から魔導機を「呼び出す」プログラムであって、「動かす」プログラムじゃないです。そもそも魔導機って、何種類ものプログラムの組み合わせで動いてるんですよ?」

 ならば余計に、なんと中途半端なディスクなのだろうと誰もが思った。正直、五千電素という単位が魔導師たちにとってどうなのかはさっぱり判らないのだが、何か行動を起こすには足りないという印象が強い。

 ミナミは、グランからあの鉄色の箱に視線を移して考えた。

 ヒントを解くためのヒントを。

 っていうか、なんでこんな回りくどいんだよ。とか。

 表面コート。

 一行目。

 知っている人が知っている。

 キーコード…。

 一行目………………。

 ぐるぐると考え込むミナミに気付かず、タマリは「しかもよー」となんだかガラ悪く溜め息混じりに言い放って、わざと、アンの膝にぽそりと座った。

「…………おも…」

「うっせ」

 ゴツ! と額に後頭部をぶつけられたアンが涙目で悶絶するのを無視しつつ、タマリは続けた。

「これを見たまえ、諸君! これ。これってどう?

 どう見てもさー、このキーコードの入力画面、一文字しか描き込めないのよ?」

 ヴン。と微かな動作音を伴って、正面の帯状モニターに表示されたのは。

 無愛想なダイアログボックス。カーソルが点滅する記述欄は記号一個が入ればいっぱいになってしまうだろう小ささで、その下に「エンター」のボタンがあるだけの。

 真っ白な画面に浮いた灰色が目に痛い、たったそれだけの。

 ヒント。

 瞬間、ミナミは椅子を蹴倒して立ち上がった。

 見開いたダークブルーが睨むように見つめているのは、帯状モニターに投影されたダイアログボックス。驚いたというよりも怒っているような青年の横顔に、傍らのヒューもドレイクも唖然とする。

 数秒間モニターを睨んでいたミナミが、呆然と見つめて来る室内に視線を戻し慌てて座り直す。それから、一旦その表示を消せとタマリに伝えてから、忙しくキーボードを叩き始めた。

『ディスクの意味は まだ判らない』

『表面コートを溶かすのに必要なのは 一行目 知っている人が知っている』

『その一行目は 一文字で表記される』

 キーボードを叩く軽い音だけが響く、緊張した室内。

 やはりそうなのだ。こうでなければならないのだ。誰が見ても意味の判らないパーツは、しかし、ハルヴァイトの望む通り恋人の中で消化され、組み立てられて、臨界に「消えた」彼(か)の人をこの世…現実…に呼び戻すだろう。

 記号に埋もれない、綺麗な恋人。

『知っている』

 ミナミは、知っていると言った。

 一文字で現される一行目を、ミナミは…知っていたのだ。

 それじゃぁ! と喜色を浮かべたアリスとアンの顔から帯状モニターを経てミナミに視線を移したヒューが、短く息を吐いてから眉を寄せる。昼食後ミナミはなんと言ったかな、と面倒な事を思い浮かべ、つい、不愉快そうな顔で「待て」と言ってしまう。

「知ってるだけか?」

 奇妙な上に不機嫌そうな声で繰り出された質問に、ミナミはこくんと頷いた。

「描けないのか、もしかして」

 重ねて告げられた質問をミナミの頷きが肯定し、一瞬にして室内が凍り付く。

「さっきお前、すぐには読めないと言っただろう? もしかして、キーコードの事にも気付いてたのか?」

 今度は首を横に振ったミナミが、キーの上でぱたぱたと指を躍らせた。

『記述方式が基底言語かもしれないと 思った』

『それだと 表示出来ても解読に時間がかかる』

『まさか』

「まさか?」

 戸惑うような表情で打ち込まれた最後の文字をドレイクが反芻し。

『まさか、ここに来てあの基底言語を描かされるなんて、さすがの俺でも思ってねぇって』

 ミナミは「言って」、エンターキーにバシン! と指を叩き吐けたではないか。

 そこだけいかにもミナミらしく標示されたセリフに、誰もがぽかんとした。

 というか…。

「無理じゃね? それ…。だってあのフリーハンド画像みたいな文字でしょ? 基底言語。つか、第一期臨界式文字か」

「ハルの使ってるヤツだろ…。俺も何度か見たけどよ、あれが文字だとは到底思えねぇシロモンだったぞ」

「イルくんとブルースも、読み込み不良の理解不能記号だって言ったアレ?」

「そもそも、アレで「一行目」とかいう何かを一文字で表記出来るものなのか? ローエンス」

「さぁ、どうだかな。ガリューがそれをキーコードに指定し、アイリー次長が出来るというなら出来るのだろうが、わたしの力はアテにして欲しくないな」

「で? その記号なのか言語なのか判らないアレって、どんなの?」

「ぼく見たことないんで知りません…よ」

「…アレだ、ボウヤ実は魔導師じゃねぇのかね…」

 言い合う魔導師や関係者を尻目に、ヒューはなんとなく傍らのミナミに視線を向けた。

「描けない訳じゃないのか? お前…」

『描ける』

「……………………………」

『あの箱みたいに 七回も翻訳しない』

「…」

『二回書き換え 一行目… 一文を 一文字にする』

「………………………」

『自分じゃ出来ない』

 いつの間にか、誰もがミナミとヒューの会話に注目していた。

『描くのは タマリ アンくん ミラキ卿 エスト卿』

『俺は 確かめるだけ』

 それでヒューは、やっと、ミナミの不機嫌な理由を理解した。

 結局青年はここでも、見ているだけなのだ。ドレイクたちを働かせて、自分は待つだけ。

「あの…、ねぇ、ミナミ? もしかして君、ハルがキーコードにどんな文字を指定したのかも、知ってるの?」

『知ってる』

 当惑するアリスの問いに、ミナミはきっぱりと答えた。

『見た』

 ミナミは、見た。その「文字」を。青緑に燃える炎のように滑らかで柔らかなそれを、青年は見た。

 見たから、記憶した。

『一行目は 誰でも知ってる 魔導師なら』

 続けて標示された文字列を目にして、ドレイクが渋い表情を浮かべる。実は、もしかしたらと思う「一行目」は彼にもあった。

「全ての人よ うらむなかれ。か?」

 溜め息混じりの問いかけにミナミが頷き、魔導師どもががくりと肩を落とす。魔導師だとしたらそれは忘れられない一行目であり、忘れてはならない一行目でもある。

「ハルのワリにゃ捻ってねぇな。あんまり当たり前過ぎて、見落とした…」

『違う ミラキ卿』

「? 何が違うんだ? ミナミ」

 ミナミから顔を背けて白髪を掻き回したドレイクの呟きを、ミナミは即座に否定した。

『間違いではない 正解でもない』

 やはり単純に答えは出ないのだろう、ミナミは少し考えてから傍らのドレイクに視線を据え、小さく微笑んで見せた。

『基底言語で表される一文字は 全文』

『普通魔導師が習うのは 全文の一行目だけ』

『それだけでは 基底言語で 表せない』

 さっぱり要領を得ないミナミの言葉に痺れを切らしたのか、ついにドレイクは口を閉ざして黙り込んだ。もう、こうなったら知っている事をありったけ話して貰うまであとは何も言わないぞ、というような剣呑な視線に、青年がつい吹き出す。

『通常 魔導師の習う一行目は 臨界の創世に掛る魔導書の原本 その一ページ目に記述されている基底言語を 特定の法則に則って分解したときに表される一文の 一行目だけ』

『逆に その一行目をヒントにして 全文を基底言語で描き出し 特定の法則で組み立てると 一文字で 表せる』

 しん、と当惑する静寂。

「…………つまりアレか? ミナミ…。お前はその「全文を表す一文字」を知ってて、ついでに、そいつを作るための「特定の法則」ってのも、知ってるんだな?」

 確かめるようなドレイクの呟きと、曇天の双眸から注がれる視線。それを真っ向から受け止めたミナミがこくりと頷いた。

「ひとつ、余計な質問をいいかな? アイリー次長」

 先ほどから青年を捉えて動かないグランの深緑が微かに眇められると、ドレイクから視線を逸らしたミナミが、腕を組み横柄に座する電脳魔導師隊大隊長に顔を向ける。

 どうぞ。という無言の気配に、グランはひとつ頷いて口を開いた。

「我らが習い学ぶ「一行目」は臨界の理を示す書の冒頭に記載され、尚且つ、臨界に接触する都度見せられる決まり文句のようなものなのだが、それが全文ではない、とアイリー次長は仰るのか」

 短い首肯に、ミナミの金髪が揺れる。

「ではその全文とは、どこに在る」

『サマエル・ナミブナンの遺言』

 簡潔に表示された、しかし、見た事も聞いた事もない単語を口の中で反芻し、魔導師どもが首を捻った。

『創世神話の元になった 魔導書』

『オリジナルが王室で保管されてる』

『でも それは 本当のオリジナルでなく 内容も 随分と割愛されている』

 文字列を目で追っていたクラバインが、不意に眉を寄せた。創世神話原本といえば、王のみが閲覧出来、この都市が空に舞い上がってすぐに翻訳され、その後、一人として解読出来た者はないと言われている都市の重要機密であり、世代を重ねても尚改定されないままになっていたはずだ。

 その禁書どころか、誰一人読み解けないと囁かれている書物を、なぜ、ミナミが…その原題までを知っているのか…。

「まさか、ミナミさん…。ガリュー班長はそれを」

『全部読めてる』

『その上であの人は 王室にある創世神話原本を 改定しないと言った』

『そこに書かれているのは 歴史だけじゃない』

『後世に 残せない 残酷な理論と 結果も 書かれてる』

『だからあの人は それを 自分の中で留めた』

 そして。とミナミは、殊更ゆっくり文字を打ち込み、最後に、室内をぐるりと見回した。

『あの人は それを知っていたから 臨界に行って 戻る』

 そうしなければならなかったから。

 酷く口の中が乾いて、ドレイクは苦いものを飲み込んだ。

 淡々と告げるミナミからは想像出来ないが、これは突拍子もない事ではないだろうか。しかも、ハルヴァイトはその禁書から得た知識に則って、今まさに臨界へ赴きまたこちら側へ戻ろうとしている。

 臨界の理がひっくり返るような一大事。

 ドレイクは、微かに冷たい汗を掻いた掌で自分の頬を撫で、それから、傍らのミナミを見た。

 ミナミは、冷たい無表情で室内を睥睨している。最強、最悪の「悪魔」。最強、最悪の「天使」。悪意と妄執で別たれたそのふたつは、今まさに、この世の常識を根底から覆す勢いでたった一文字の愛を交わす。

 それ、をミナミが正しくハルヴァイトに伝えれば。

 ハルヴァイトは、それ、に導かれて来るだろう。

 あの、文字列の揺れる無人の草原と、上空に広がる煩いくらいの星空だけが占める、静寂の世界から。

  

   
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