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16.全ての人よ うらむなかれ

   
         
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『いわゆる 辞世の句』

 意外にもあっさりと付け足されたミナミの一言に、さすがのドレイクも苦笑を漏らし頬を引き攣らせるのが精一杯だった。そこまできっぱり言われてしまったら、フォローもくそもあったものではない。

「サマエルなんとかいうのの、辞世の句って事なのか?」

 帯状モニターを眺めていたヒューが、偉そうに腕を組んで呟く。

『そう』

「実際さ、今回の翻訳に関係ねーとは思うんだけど、つまりこれってどゆ意味な…」

 表示されたきりの文字列を目で追っていたタマリが、テーブルに顎をくっつけてミナミの顔を下から見上げて言うのを遮るように、ぽつりと漏れたのは。

「…あのー、つまり、「死が二人を別つまで」って、そういう事なんじゃないんですか?」

 未だタマリを膝に載せた状態でもがいていたアンが、黄緑色の向こうから顔を覗かせて、少し戸惑いがちに言う。と、周囲の視線が一斉に集中して、少年はあたふたと首を横に振りながら、助けを求めるようミナミに顔を向けた。

 だが、しかし?

 アンはなぜかそこで、ミナミに睨まれた。

『何?』と思い切りぶっきらぼうに表示された文字にびくつきつつ、黙っていても何か言っても所詮睨まれるのなら、と少年は、膝に座ったタマリに半ば隠れつつも、あれ、とモニターを指差す。

「いや、あの、印象なんですけど、死ぬまで一緒にいましょうねって、そういう風にぼくには読めたんですよ。ただ、…消えて 魂までを呪詛のように 求めてはいない…、って、なんかそれって…班長っぽいなぁとか。

 だって、…アリスさんとかも、そう思いません?」

 突き刺さるようなミナミの視線に居たたまれなくなったのか、アンは蒼褪めた顔に引き攣った笑みを浮かべて、アリスに向き直った。

「…そう思いません? って言われてもね…」

 ごめん、今はミナミが気になって、それどころじゃないわ。とアリスが内心嘆息するのと同時、モニターに表示されていた文字列が瞬きの合間を縫って消え、変わって『少し 休憩』と文字が並んで、直後、なぜなのか、ミナミが椅子を蹴倒さんばかりの勢いで立ち上がり、さっさとドアから廊下へ出て行ってしまったのだ。

 唖然とする、室内。

 妙に緊張した、空気。

 それに堪え切れなくなったのか、ヒューが…。

「は…………はははは!」

 テーブルに突っ伏して大笑いし始めた。

「…大丈夫か? 班長。疲れ過ぎでどっかキたんじゃねぇだろな…」

 何がそんなに可笑しいのか、ヒューにしたら奇跡的に珍しく、目尻に涙まで浮かべて笑い転げているのだ。ドレイクのかなり本気な心配も、あながち余計とは言えまい。

 散々笑って気が済んだのか、それでもまだにやにやしたままのヒューがようやく息を吐き、テーブルに頬杖を突く。その状態でぐるりと室内を舐めたサファイヤが、何も投影されていないモニターの上で止まった。

「ミナミはな」

 アレ。と指差された、ノイズの走るモニター。

「誰かの辞世の句だとしか説明されてなかったんだ」

「………………ハルにか?」

 しきりに首を傾げるドレイクに軽く頷いて見せてから、ヒューが続ける。

「だからつまり、アレの意味ついては殆ど考えた事もなかったそうだ」

 モニターに据えられていたヒューの視線が、きょとんとするアンに流れた。

「どうやら、アンくんに言われて、なぜガリューがアレをキーコードに使ったのか、気付いたようだがな」

「あ!」

 それでようやく、ミナミが会議室から「逃げた」理由と、ヒューが死ぬほど笑っていた理由に思い当たり、誰もが顔を見合わせる。

「…まー確かに、死が二人を別つまで。でも、死んでまでは縛らねぇ、みたいなね、微妙に突き放し気味なトコ、大将っぽいっちゃぁ大将っぽいけどね」

 はは、と呆れ気味に乾いた笑いを混ぜつつも、デリラが言う。

「そうね…。他にも色んな「記号」はあっただろうけど、ハルがあえてこれを選んだんだって、あたしはそう思いたいわ」

「ところでよ、ミナミはいつ頃立ち直って戻って来んだろうな…」

 開け放たれたドアを眺めたまま呟いたドレイクに対しての室内の返答は、「さぁ」だったけれど。

           

          

<どうしてアンタはいつもいつもそういうマネを平気ですんだよ>

          

         

 殆ど逃げるように会議室を飛び出したミナミは、急がしく行き交う衛視や近衛兵を躱して、王城の正面に位置する、中空へ張り出したテラスへと逃げ込んだ。眼下でうろちょろと歩き回る小さな人間たちをぼんやりと、無表情に見つめながら、手摺に両腕を預けてその上に顎を載せる。

 辞世の句だと聞いた。確かにそれは、別れの言葉でもあった。

 あの本のお終いで筆者であるサマエル・ナミブナンは、冒頭の句を、遺す全ての人と「あなた」へのメッセージだと綴っている。その後(のち)、裏表紙に書き足された「オリエ」というインクの滲んだサインが酷く生々しく、だから余計に、ミナミはあの句を遺言の一部なのだと勘違いしていた。

「オリエ」なる人物が、あの本をサマエルから受け取ったのだろうとハルヴァイトは言った。そして彼、または彼女(「オリエ」についての記述はファイラン史にも見当たらないため、詳細は全く不明なのだ)は、サインと伴にこう書き残している。

          

                   

 あの日の事は、忘れない。

         

    

 書物は、遺言で間違いないだろう。

 しかしその遺言の冒頭に記された一文は、「あの日」サマエルが「あなた」へ捧げた言葉の全部であって、遺言を受け取ったオリエは…。

 はー。と深く溜め息を吐き、ミナミは顔を伏せた。

 きっと、泣いただろう。涙でサインの文字が滲む程。それは絶対の悲しみだっただろう。しかし、本当に「悲しみ」だけだったのか? それまでの…サマエルとの人生に感謝したのではないか。幸せだった頃を思い出し、泣きながら微笑み、サマエルの遺言を抱いてその人を送り出したのではないか?

「臨界」というデータの世界を構築し、最早滅びる道しか残されていない「人の世」を救う…もしかしたら、オリエが居たからこそサマエルはそうしたのかもしれないが…ため、無秩序に暴走する世界を御す「システム」となるべくこの世と別れを告げるひとを。

 今となっては知る由もないのだが、ミナミは、そうであればいいと思う。

 サマエルから見れば、それは「遺言」。消えるわたしをいつまでも愛してくれる必要はないという、優しい別れか。

 でもオリエはきっと思ったはずだ。

 あなたは「生き続ける」のだから、わたしは最期まであなたを愛していいのだと。

 では、ハルヴァイトは?

 なぜ、ハルヴァイトはあの一文をキーコードに選んだのか。

           

         

<だから。アンタは。どうしようもなく、我侭だから>

         

       

 伏せていた顔を上げ、ゆっくりと天蓋の向こうへと視線を送る、ミナミ。もうすぐ夕暮れ。ハルヴァイトが姿を消してから、三度目の夜が訪れようとしていた。

 上級居住区のホログラムを透かして見る空に、桜色の光に炙られた柔らかな雲が漂っている。水色のカンバスに刷いたごく薄い灰色を縁取るそれは時置かず赤を増し、灰は青を増し、青は暗く翳り、いつか、夜は都市を覆うだろう。

「……………………」

 違う、とミナミは。

 ふわりと微笑む。

 都市は、夜を通り過ぎ、朝を通り過ぎ、昼を通り過ぎ、夕暮れを経てまた夜を迎え、幾星霜と螺旋を描いて漂い続けるものなのだ。

         

        

<その上、どうしようもなく、捻くれてるから>

        

        

 広げた両手で顔を覆う。

 喉まで出かかった言葉は、しかし、声にならない。

         

         

<それなのに、どうしようもなく、正直だから>

         

        

 ミナミは、ゆっくりと瞼を閉じた。

        

       

許せないものは許さない。それだけ。

確かめたいものは確かめる。それだけ。

言えなかった言葉は言わない。それだけ。

でも。

伝えたい事は伝えた。

それだけ…ですよ。

           

 

ねぇ? ミナミ。

             

          

<たった一言、愛してるから、待ってろって、そう、言ってくれたら、よかったのに>

         

          

 

答えたのに。

 

こんなにも。

 

「……………」

          

            

 ふと疲れたように項垂れて、ミナミは顔を覆っていた手をだらりと身体の横に垂らした。

 気付かされて、判らされて、どうしようもないのに。

 これかよ。

 じっと自分の爪先を見つめていたミナミが、一度だけぱちりと瞬きする。

 気付いたから、判ったから、もういいよ。

 最後の一つを「知った」ら。

           

          

 独白―D

         

         

 多分俺は、この世の全てを今日までみてぇに愛せなくなるんだろうと、そう思う。

 大切なのに変わりねぇけど。

 必要なのは間違いねぇけど。

 多分、「無限」なんて幻想が本物の幻想でしかねぇ人型の俺たちが抱える自分と同じ体積の「愛」は。

 俺の、気持ちの中心にあんだろう、それは。

 全部。

        

 

あなたのものに、なるでしょう。

         

         

 短く息を吐き、青年は顔を上げた。

 柔らかい曲線を描く頬と淡い桜色の唇から、微かな笑みが消える。

 それまでどこか戸惑うように揺れていた、深海のダークブルーを思わせる双眸から、一切の温度が消える。

 毛先の跳ね上がった素晴らしい金髪に縁取られた、色の白い綺麗な面(おもて)から、一切の表情が消え去る。

 暴くのではなく、「知る」覚悟は出来た。

 ミナミはいっとき背筋を伸ばして正面を見据えていたが、不意に、長靴(ちょうか)の踵を鳴らして身を翻した。

 吹き抜けのホール。

 壁に沿って螺旋を描く階段。

 テラスから城内に入るとそこは、下界に正面大階段の見渡せる吹き抜けのホールになっていて、上階へ繋がる螺旋階段は空中回廊と呼ばれ、緋色の絨毯と舞い飛ぶ天使と悪魔の壁画で飾られている。吹き抜けの終点であり開始点でもあるのだろうドーム型の天井からは円形のシャンデリアが幾つも下がり、それは、空を漂う都市の群にも見えた。

 そして、天井には、天使と…悪魔。

 ミナミは、壁画にも天井画にも一瞥くれる事なく、来た道を取って返した。

 伝説の天使と悪魔。どちらがサマエル・ナミブナンだったのか。どちらがオリエだったのか。しかし彼らには都市の人々を救うという命題があり、だから彼らは自己の犠牲を顧みず、別たれる運命を甘受した悲劇の登場人物たち。

 全ての人よ、うらむなかれ。

 では、ミナミとハルヴァイトは?

 最強最悪の、天使と悪魔は?

 そう長くない廊下を歩きながら、ミナミは微かに、そのダークブルーの双眸を眇めた。

 彼らは、彼らという物語、彼らという舞台の、監督か?

 彼、は。

         

          

全てがわたしの思い通りになる訳ではない。

まず、あなたはその意固地さでわたしの予想を覆す。

だからわたしはあなたという物語の登場人物に過ぎず、

あなたはわたしという物語の登場人物に過ぎない。

そして。

誰もが、この世という舞台の端役なのだと、わたしは、思う。

         

         

 これは、些細なエピソード。この世のどこかで、まっとうな本筋は滞りなく上演中。本筋は、小さな騒動が折り重なって出来上がる壮大なストーリー。

 ミナミは、周囲から探るように注がれる視線を全く無視して、廊下を歩き進む。

 扉を開けて、この物語を続けるために。一旦退場した端役のひとりを、取り戻すために。

 そのひとに、逢いたいと思う。切実に。

 逢いたいと、想う。

  

   
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