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16.全ての人よ うらむなかれ

   
         
(33)

  

 その時ファイラン王城正面エントランスに居合わせた貴族たちは、幸運だったのか、不運だったのか。

 滅多な事では大階段に姿を見せない衛視たちが颯爽と現れ、エントランスに点在し談笑する数多の人々を威圧するかのように周囲を見回したのに、何事かと誰もが訝し気に、豪奢なホール、その中央に位置する緋色の絨毯が敷き詰められた幅の広い階段を見上げる。

 天井から螺旋を描くように連なったシャンデリアの柔らかな光が最初に照らしたのは、漆黒の長上着を深紅で飾り、その肩に金属にも似た硬質な銀髪を流した男。

 男…ヒュー・スレイサーは、周囲から注がれる探るような視線をその冷たく端正な面で一瞥しつつも、長靴(ちょうか)の踵で毛足の長い絨毯を踏み締め一定の速度で階段を降りて来る。

 ヒューに続くのは、黒と赤。衛視服に身を包み、真っ赤な長い髪をなびかせた美女。城内を我が物顔で闊歩する華やかな女性たちの誰よりも美しく、しかし厳しいその姿に、貴族たちどころか、警備の近衛兵でさえいっときほおと見蕩れてしまう。

 女性、アリスのすぐ後ろを足早に歩く少年は、小さな顔に大きな水色の瞳。色の薄い金髪に飾られた顔はどこかしらあどけなく、それなのに、陛下側近である衛視の衣装をぴたりと身体に馴染ませた、魔導師。

 魔導師アン・ルー・ダイは、最後の一段からホール平面に降り立ってすぐ歩を緩め、何かを確かめるように背後を振り仰いだ。

 誰もがその動きに吊られて再度階段を仰ぎ見、ぎくりと背筋を凍らせる。

 そこには、天使。

 彼の「悪魔」の徹底的な恐ろしさをこのファイラン王城中に知らしめた、最強最悪の。

 艶消しの長靴。深紅のベルトで飾られた漆黒の長上着となんの変哲もない白手袋で華奢な身を包む、青年は。

 毛先の盛大に跳ね上がった素晴らしい金髪で飾る顎の細った綺麗な面に、深海のダークブルーが暗く耀く。やや伏せられた長い睫毛。きりと引き結ばれた桜色の薄い唇。無表情ながら見る者を惹き付けて止まないその青年を知らぬ貴族は、この城に存在しないだろう。

 ゆったりとも取れる足取りでホールに向かう青年、ミナミ・アイリーの背を守るのは、最後尾の二人。

 ひとりはデリラ・コルソン。取りたてて派手な顔立ちをしている訳でもないのだが、その据わった目付きと濃茶色のボウズ頭、確か、婚姻に伴ってゴッヘル家の養子に入ったはずながら、纏うガラの悪そうな空気が一向に変わりないものだから、逆に目立った存在とも言える。

 それから。

 やや浅黒い肌に映える、煌くような白髪と曇天の双眸。ドレイク・ミラキ。彼の悪魔、ハルヴァイト・ガリューとは父親の違う兄で、若くして貴族の中の貴族と名高いミラキ家を預かる当主であり、衛視団電脳班の副長でもある、稀代の魔導師。

 まるで、陛下お出ましのごとき静寂と緊張に包まれた正面エントランスホールを、漆黒の一段が無言で通り過ぎる。先行しホール内に点在していた衛視たちは大扉手前で彼らを送り出すとすぐ、呆然と立ち尽くす貴族たちに会釈し、潮が引くように姿を消してしまった。

 だからその時、誰もがその不思議な一団に足りないものがどうしているのか、問う言葉さえ口に上らせる事を躊躇う。

 あの鋼色が現れない不自然に、エントランスはまたいっとき、不気味な静けさに包まれた。

          

         

 青年、アリア・クルスは意識を取り戻してすぐ、王城地下特別防電施設から、拘置棟の特殊防電室に身柄を移されていた。

 不自由は、ない。薄っぺらな絨毯の敷き詰められた正方形の部屋にあるのは、ベッドとサイドテーブルとパイプイスが一客。壁に嵌め込まれたテレビのリモコンは、ベッドの上に放り出してある。

 この部屋に連行された彼が最初に会ったのは、外科医だという女性だった。小柄なくせにやたら偉そうで、褐色の肌に映える翡翠の双眸と橙色のショートカットがいやに印象的だった。

 診察するから服を脱げと命令されて、ぶつぶつ文句を言いつつもシャツのボタンを外したアリアを、女医が苦笑混じりに手招きする。なんだよ、とそこで非難がましく睨んでやれば、彼女は、「お前みたいにけろっとして肌を晒す魔導師に、始めて会った」と、なんだか少し可笑しそうに首を傾げた。

 骨には異常ないが、全身に打撲が点在しているから、一週間か十日はあちこち痛むだろうと彼女は言った。それから、内臓に損傷はないけれど、少しでも不調があればすぐ看守に言え、とも。

 ベッドに座らされて、細い指が腹部に浮いた赤黒い痣を撫でたり軽く圧したりするのを、アリアはじっと見ていた。…多分、あの方以外の「人間」が自分の身体に触ったのは、それが始めてだと思う。

 手足を動かせとか、前屈してみろとか、彼女はカルテらしいボードに何かを書き込みながら、意味があるのかないのか判らない命令を次々アリアに出した。途中、運動能力にも問題ないとかなんとか言っていたのは、よく憶えていなかったが。

 最後に採血すると言われた時だけ、青年は酷く渋い顔をした。注射が怖いのか? と少しからかわれて、青年は「悪い?」と本気で答えた。

     

    

「注射、あんたは怖くねぇの?」

「わたしは注射する方で、ここ最近、された試しはないからな」

「知ってる? 注射されたら、死ぬんだよ」

         

         

 差し出された白い腕を取った女医が、翡翠の瞳でアリアの青を覗き込んだ。

               

         

「注射されんのはさ、いらなくなったヤツだから」

        

       

 事実、アリアはそう思っていた。採血すると先に言われていたから抵抗する気は起きなかったものの、そうでなければ…。

 逃げただろうか。彼女を振り切って。そこまで、生きたいと思っただろうか。

 一瞬射るような視線の注がれていた翡翠がふいと逸らされる。それと同時に、アリアも女医の手元から視線を逸らした。

 肘の内側に痛みを感じた瞬間、知らず全身に緊張が走り、青年は微かに表情を強張らせた。すぐ終わる。というぶっきらぼうな一言に、なぜか、安堵の息が漏れる。

 彼女の言葉通り、採血はすぐに終わった。俯いて、腕にぽつりと滲んだ球の血をガーゼで押えるアリアの額を、女医…………ステラ・ノーキアスの掌が乱暴に拭う。

       

      

「汗が出てるぞ」

「………なんでもねぇ…。気安く触んな、俺に」

「でもお前は、逃げたりしないでわたしに汗を拭いて貰える程度には、マトモなんだな」

        

          

 アリアが、ふと顔を上げた。

 ステラは、微笑んでいた。

        

       

 彼女はすぐ、「また来る。そのうちな」と相変らず素っ気無い男言葉で言い残し、さっさと部屋を出て行ってしまった。

 取り残されて、アリアは当惑する。彼女は何を言いたかったのだろうか。

 それが、多分一日半ほど前。窓のない防電室に閉じ込められていて昼と夜の区別は付き難かったが、時折点けるテレビの番組や表示された時刻から、今はもう夕暮れ時だろうと思う。

 退屈はしていない。考える事がたくさんあった。それなのに、アリアはベッドに寝転がりぼんやりと天井を眺めてばかりいた。

 何も考えていないのではない。

 思考が記憶に残らないのか。それとも、酷く…混乱しているのか。

 ただ、「アンジェラ」と交信出来ないと感じた瞬間は、背筋の凍る漠然とした不安を感じた。あの日の事を反芻しようとすると、急に身体が震える。寒いのか。怖いのか。とにかく、記憶の全部を食い尽くすような冷たい鉛色の目が、絶えずどこからか自分を監視しているような気になって、アリアは頭からブランケットを被り身体を縮め、その震えをやり過ごした。

 眠るという休息を取ったかどうか、青年はよく憶えていない。ただ、ぼんやりしていただけのような気もするし、その内、無意識に眠り無意識に目覚めていたのかもしれないし。

 ベッドに寝転び、全体が柔らかに発光する天井に両手を翳したアリアが、ふ、と顔に向けていた甲に短く息を吐きつける。

 微かに、表皮を舐める空気の動き。

 ああ。自分はまだ「繋がっている」のだ。と、青年は意識せず口元を緩める。

 そんな、意味のない行動を二度か三度、間隔を置いて繰り返してから、アリアは顔の前に翳していた手をばたりとベッドに落とした。退屈な訳ではない。考え事をしている。

 している、はずだ。

 ゆっくりと瞬きしながら、アリア・クルスは考えていた。

 何かを考えているのだと、ぼんやり考えていた。

          

         

 本当は。何も、考えていなかったけれど。

  

   
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