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17.フレイム

   
         
(1)ドアを、叩く(開始)

  

 薄青で升目の描かれた正方形の「紙」を無表情に眺め、ミナミ・アイリーは短く、小さく息を吐いた。

 溜め息というには浅く、吐息と呼ぶには憂鬱。

 もしかしてここにヒュー・スレイサーという武道家が居たのなら彼はそれを、「呼気」と称するだろう。自らを操ろう…律しようと、か…する者の、最初の一呼吸。深過ぎず、浅過ぎず。長過ぎず、短か過ぎない。

 部屋には、青年の他に誰も居なかった。元より衛視が班会議で時たま使うだけのそこは、中途半端に狭い。向かい合わせに置かれた長テーブルが二つと安っぽいパイプ椅子が四客あるだけの、でも床には緋色の絨毯が敷き詰められ、側面は落ち着いた枯葉色の壁紙と人造マホガニーの柱が絶妙なコントラストを描いているという、これまた中途半端な内装だった。

 その、もしかしたらどうにも居心地の悪い、または突っ込み放題ネタ満載な室内で青年は、ひとり、長テーブルの上に散らかった数十枚の「図版」と、最後の白紙を見つめている。

 作業は、108×108に表される図版を数式に変換し、7×7に整列させて再度図版に焼き直してから、圧縮する。たったそれだけだ。

 最初その話を聞いたタマリ・タマリは、それならば最初から756×756、571536マスに「解答」を描けばいいだろうと言った。途中の面倒な作業をすっとばしていきなり正解に辿り着けば、一分でも一秒でも早く「彼」がここに戻れるだろうと。

 しかしミナミは、それではダメなのだと答える。

 方程式は、そのプロセスを無視してはいけない完成された「式」。問題も、解答も、既に書き込まれている。

 ミナミは、言う。

 この式は、図版、数式、構築、圧縮、再構築が「正しく行われなければ」完結しない。

 しん、と耳鳴りを伴う静寂を揺るがさず、ミナミは膝に置いていた手をゆっくりと、殊更ゆっくりと動かして、テーブルに置かれた「筆」を取った。この作業のためだけにわざわざ作って貰ったそれの役目も、あと一文字で終わる。

 パレットに広がる青緑色の塗料を染み込ませ、一呼吸、ミナミは細った先端を静かに正方形の中央に置いた。

 滲む、その色は。

「正しく」配合された、「あの青緑」色は。

 臨界の炎か。焔か。

 時計回りに渦を巻いた筆の軌跡で、焔が燃える。時置かず一筆で描き出された、燃える炎にも似た「解答」が表す言葉を胸の中で反芻し、ようやく、青年の薄い唇に笑みが戻った。

 ふわりと。

 微笑む。

               

 その文字は。

              

           

「焔」という。

                

           

 外郭メンテナンスハッチから「アスタリスク」を辿って進み、例の真白い空間に辿り着くまで、半日以上を要した。しかし、同行のヒュー・スレイサーはそれを、手間取っているとは決して思わなかった。

「左右と奥行きは測れるけど、上下は届かないよ?」

「いい。そっちの照合はウロスさんに機械計測して貰って、後で確かめるから。とにかく、サーンスとハウナスは、測定器使って実測だけして。…それで、スレイサー衛視」

 それまではやや離れた後方に付いていたヒューが、呼ばれて、やたら広い空間中央に佇むブルース・アントラッド・ベリシティに歩み寄る。

「…怖いんで、睨まないで貰えます?」

「人相が悪いのは生まれつきだ」

「いや、人相じゃなく印象です」

 目を細めて周囲を一瞥しつつ突き進んで来たヒューに引き攣った笑みを向け、ブルースは抗議した。というか、それが用事だったら本気で怒るぞ、とでも言いたそうな、でももしかしたらいつもと同じ不機嫌さに、思わずイルシュとジュメールが表情を強張らせる。

「それはどうでもいいんですが」

 じゃぁ言うなよ。と、ヒューはちょっと思った。

「ここの計測に入る前に、お昼にしませんか。多分、今日はこの空間を隈なく調べて、例の記号を探すだけで、これより先には進めないと思いますから」

「…別に構わないが」

 なぜそれを自分に言うのか、とヒューが微かに目を細めると、ブルースは、このささやかな調査班を任された制御系魔導師は答えるように目を細め、ちらりと、左手に見えるドアに視線を送った。

「じゃぁ、サーンス、ハウナス、ケインさんとウロスさんにもそれを伝えて、準備しててくれないか? ぼくらはちょっと、この先の様子見て来るから」

「あ…。うん」

 促されて、左に身体を向け直したブルースに付いてヒューが歩き出すのと同時に、イルシュとジュメールがふたりに背を見せ反対方向へと遠ざかって行く。その先では簡易機材を設置するケイン・マックスウエル砲撃手とウロス・ウイリー事務官が立ち話しながら、…というか、多分ケインが一方的に話しているのだろうが…、コード類を解いていた。

 天井が高い。酷く眩しい。ヒューは眉間に皺を寄せたまま、走り去るふたつの足音とコードの擦れ合う音、それから、目前を行く少年の均等な足音に耳を澄ませた。

「…距離感の悪い場所だな」

 ようやくドアまで進んだところで背後から掛けられた声に、ブルースが立ち止まる。いかにも不思議そうに振り返った赤銅色に仄かな笑みを返しつつ足を止めない銀色が、薄い肩先を躱してドアノブを握った。

「材質のせいなのか、構造のせいなのか、残響? 反響か、それが酷い」

 警戒するでもなくあっさりとそれを押し開けたヒューのあまりにも無防備な行動に、少年が煉瓦色の細眉を顰めた。

「こっちはまぁ、マシな方だな。途中の廊下ほど…」

 極端に下降していない。

 と、ヒューは、佇むブルースを光の中に残して細長い廊下に数歩踏み込み、漏らした。

「判るんですか?」

「音だよ。戻って来る音が、感覚的に細いというか、弱いというか、そんな感じだな」

 いや、もう、あんた何者だよ。と今日は頭の後ろで括られた銀髪を見上げ、ブルースは思った。

「それで? 俺に何か用があるんじゃないのか?」

 これまた無造作に一番手前のドアを引き開けたヒューが、軽く中を覗き込んですぐ、冷たいサファイヤ色を旋回させ立ち尽くすブルースを見る。白と淡い灰色で描かれた細長い廊下の一点に落ちた異次元のごとく漆黒の輪郭を際立たせ、男は、戸惑う少年をただ見ている。

 開け放したドアをそのままに、ブルースは小さく息を吐いて通路へと進んだ。なんだか、もやもやと考え事をしたり遠慮したりするのが急にばかばかしくなる。ミナミも怖いがこの銀色も相当怖い、というか、正直、誰も彼も何もかもが、単純に怖いのではなく、恐怖だ。

「調書をお読みになりましたか?」

「ここの?」

「はい」

「読んだよ」

 どうでもいい事みたいに素っ気無い答えに、こちらはやや緊張気味の表情で頷いた少年が、乾いた喉を上下させる。

「じゃぁ、細かい説明はいりませんね。

 率直に言いますが、今調べているあの空間の調査が終わって一旦城に戻ったら…」

「連れて来て好きなだけ調べさせればいい。お前が思うより、あのふたりは大丈夫だ」

「…は?」

「? という話じゃないのか?」

 意表を衝かれてきょとんと目を瞠ったブルースを、ヒューが小さく笑う。継ぎ目の無い壁に背中を預け、いかにも頑丈そうなベルトで締め上げた肘まである黒手袋に包まれた腕を組んだ銀色は、まるで何もかもお見通しだとでもいうような顔をしている。

「……」

「少し前なら、俺も君に同意したかもしれないがな。確かに、ここにあるのはサーンスにとってもハウナスにとっても「嫌な思い出」だけだろう。何年も閉じ込められていた「暗がり」に、あのふたりを対面させたくない気持ちは判らないでもない。ただし、その決断はどちらかが「行きたくない」と言ってからでも、遅くないんじゃないのか」

 というかまだ何も言ってないって。とブルースは、一瞬の自己忘失から立ち直り、無言で突っ込んだ。

「君が、最初に逃げるな」

 正面に据えられたままのサファイヤを眇め、ヒューが呟く。その一言に、ブルースはぴくりと肩を震わせた。

「ふたりは戦う事を選択した。ゴッヘル卿とタマリを欠いてもここへ来るかと問われて、それでも来るとふたりは答えた。

 なぜだと思う」

 当惑の少年が視線を泳がせ、ヒューはここでもまた笑う。

「半分は自分を守るため。もう半分は、君の力になるためだと、俺は思うがな」

 サーカスから消えた二人の魔導師の捜索と、城に収監しているアリア・クルスの監視。それから、前回と前々回サーカスやこの違法施設で採取した様々なデータを詳細に調べ、更には、ハルヴァイトの残した臨界式ディスクの起動図版を作成し、解析する。聞けばたったこれだけだが、二十四時間体制で絶え間なくそれを継続するためには、特務室の全衛視と警備部隊、出向扱いで電脳班の直下に置かれている電脳魔導師隊第七小隊が総出で掛かっても、人手は全く足りていない。

 だからこの、もしかしたら最も未知の危険が潜んでいる可能性の高い場所に送られたのが、スーシェとタマリを除く第七小隊五名と、護衛のヒュー・スレイサーだけなのだ。

 施設の詳細な計測だけならばこの人数で大丈夫だと、特務室に呼び出された時ブルースは答えた。

 少年が、任務と事態の性質上増援を望めないと思ったのは確かだ。これ以上、この未曾有の危機と非常事態が外部に漏れるのは、好ましくない。何せ、彼のハルヴァイト・ガリューがよりによって「臨界」に在るなどと、どうして声高に言えようか。しかし、ブルースがそれより先に思い当たったのは、他でもない、イルシュとジュメールが隠匿されていたこの施設を、誰にも見られたくないという…、酷く利己的な理由だった。

「都合の悪い事から逃げようとする君を、別に非難するつもりはない。もちろん俺なら別の方法を考える。だが、君は俺じゃない。そしてこの件に関しては初回から施設の存在を知り、探索に参加している君に全てを任せるとミナミは言った。だから俺は君の決定に異を唱えないが、「どうする」と問われれば、俺の意見を言うまでだ」

 だから別にはいそうですかと黙って聞いてくれる必要はない、とでもいうように、ヒューは壁に寄り掛かり腕を組んだまま、ブルースでない正面に視線を置いて、言い足す。

「守ろうとする者の意志よりも強固な意志が、守られる側にも存在する。時にそれは、守ろうとする者の意図を大きく裏切り、逆に、袋小路に追い詰められた守ろうとする者を助ける」

 溜め息に似たそれがなんだか妙に切実で、ブルースはヒューの冷たい横顔を見上げた。

「…あなたがそれを言っても、信用出来そうにありませんけど」

 言い返されて、は、と吐き出すように笑った漆黒が、金属質な銀色をさらりと揺らして俯く。

「光栄だと言っておくか?」

「別に、何も言ってくださらなくて結構です」

 なんとなく、言い出す前から何もかも見抜かれていたのだという不愉快さに煉瓦色の眉を寄せて、ヒューから目を逸らし背を向けたブルースは、最後の、独り言みたいな彼の言葉を聞き逃した。

「…俺は、裏切らせてばかりなんだがな」

  

   
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