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17.フレイム

   
         
(38)天使(結末-6)

  

 細かな仕事をある程度片付けて、今日はこれまで、と一つ溜め息を吐いたミナミが端末の火を落としたのは、既に深夜に近い時間だった。

 隣の衛視室にはまだいつもより多くの衛視が出入りしていて、クラバインも事後処理に奔走しているようだったが、騒ぎの張本人を含む電脳班は少し前に解散、下城前にアリスとドレイクだけがミナミの元を訪れてしきりに今日は家へ帰るのかと訊き、しかし青年は、曖昧な答えを返しただけで彼らに答えようとはしなかった。

 しん、と静まり返った室長室のブース内に納まったまま、ミナミは無表情に中空を見つめる。今日という一日を思い出すでもなく脳裡に描いた青年は、思わず、苦笑の形に薄い唇を歪めた。

 記号。

 全ては、一連の図版。

 ハルヴァイトが消えた「瞬間」から現われる「瞬間」までの光景は、意味不明の記号が作る斑紋と似ていた。確固たる形状を保っているのに、内容が理解出来ない。それらを本当の意味で「理解」しようとするならば、一つ一つの事象を詳細に思い描く事で「翻訳」し、総体的流れという経緯を加味して結果に辿り着かねばなるまい。

 ミナミは、キーボードを押し退けたデスクに頬杖を衝き、ブラックアウトしたモニターを胡乱に見つめた。もしいまケーブルを自分の脳に突き刺して再生ボタンを押したなら、青年の経験した様々な事柄が、目前の画面内で寸分違わず再演されるだろう。

 しかし、とも、思う。

 同じようでありながら、それは結局ただの記録映像に過ぎない。ミナミの見たもの、聞いたものではあるが、ニュアンス? 空気? 緊張や焦燥、そう、それには気持ちが絡んでいないのだ。

 何も映っていないモニターを指先でつつき、ふと青年が薄く微笑む。

 全てを記憶=記録出来る事のデメリットにばかり気を取られる必要は、どこにもない。だからといって何がどうメリットなのかミナミにはまだ判らなかったが、最低限、ハルヴァイト自身が臨界にあっても現実面の時間経過を計るための、目印にはなった。

 ミナミは、自分を後ろ向きに生きて来たとは思っていない。傍がどう見ているかは知らないが、青年自身は、あの地獄のような小部屋を抜け出してからこちら精一杯前向きに、世界というものに関わろうと必死になっていたと思っている。

 しかし、言い訳していたのも、確かか。

 モニターに触れていた指先を握り込んで頬に戻し、ミナミは笑みを消した。ようやく、帰ろうかという気持ちが少し沸く。

 出生段階で間違っていた。自分を否定するつもりはないが、ただでさえ不自然な閉鎖都市の只中、もっと極端に不自然な状況で生まれたのは、間違いない。それから何年も軟禁されていて、複数の男たちと無理矢理関係を持たされて…。「だから」ミナミは人が………頭ではもうあの小部屋に閉じ込められている訳でもないし、周囲に何かを強制されている訳でもないと判っていながら…怖かった。

 怖いのだから、しょうがない、と無意識に言い訳していた。

 デスクの表面を肘で突き放し、ミナミは椅子の背凭れに身体を預けた。なんとなく、すげぇな、と思った。

 最後の最後で、あの悪魔の目的は果たされたのか。

 ミナミは、記憶を「記憶」として理解する。

 過去は過去。現在は現在。一秒先の未来は不確実。百万通りある選択肢。しかし全ては帯状に連なる、人ひとり分の歴史。記憶。

 ものの見方を変えればいい。世界の在り様を観察し、消化する時、青年はまた記憶するだろう。

 全てを。

 天使もまた、激変する。

 記憶を、理解し味方につけるのだ。

 モニターに据わっていた深海のダークブルーが、水平に振り上げられる。

 空気の重さを感じた。

 刹那、やや乱暴なノックの音とほぼ同時に衛視室に繋がるドアが開いた。

「つうか、ノックの意味ねぇし」

「…なんだ、ミナミ、まだ居たのか」

 誰も居ないと踏んでいたのに惰性でノックしたらしいヒューが、すかさず突っ込まれて、端正な面に苦笑を浮かべる。

「帰っていいのかどうか、ちょっと悩んでるトコ」

 だらしなく椅子に座り込んだまま無表情に言い返して来たミナミに肩を竦めて見せてから、ヒューは後ろ手にドアを閉ざした。

「ここ(室長室)の留守番するようクラバインから連絡が来た」

 勝手にクラバインのデスクに着いたヒューが、長い足を組みつつミナミに視線を向け、にやにやと笑う。

「何? 俺に帰れって?」

「ああ、帰れ帰れ」

 無事? ハルヴァイトも戻った今、ミナミが私室に寝泊りする意味はない。というよりも、ようやく恋人が戻ったのだから早く帰宅せよというクラバインの気遣いは少し嬉しかったが、ヒューの薄笑いが不愉快だったのでちょっと駄々を捏ねてみようかなどと青年は思い、しかし、銀色を困らせる有効な我侭が思い浮かばなかったのですぐに諦める。

「でも、明日はちゃんと登城しろよ」

「半休とか欲しい」

「ダメです、次長。サボらないように」

 涼しい顔で言うなりそっぽを向いたヒューの横顔を恨みがましい無表情で睨んでから、ミナミは仕方なく椅子から腰を浮かせた。

「……、なんかさ」

 カーテンを引き忘れた大窓に、自分の蒼白い顔が映っているのを目にしたミナミが呟く。

「全部、な? 俺としちゃ、なんか、全部がさ、テーブルの上に綺麗に並んでた色んなモンが引っくり返って、ついでにそのテーブルまでどっか行っちゃったような、そんな気分なんだけどさ」

 暗い窓ガラスに映る自分を睨んだままの青年に視線を流し、ヒューが薄く笑う。

「どんな例えだ、それは」

「でも、俺にゃ判んねぇんだけどさ、ヒュー」

「―――なんだ」

「俺と、みんなの、何が変わった?」

 問われて、銀色は迷わず答えた。

「変わるべきところは変わった。だがな、ミナミ…、所詮この世から見たら俺たちの変化なんて、その程度だ」

 青年のダークブルーが旋回した先の、銀色。

「俺たちは、変わったと言って貰うために変わったんじゃない。いつか変わらなければならなかいからという義務だけで変わったんでもない。

 結局、変わる必要があると自分で思ったから、その準備を終えただけだ」

 きっかけ。

「…慌てる必要は何もない。帰れよ、ミナミ。ガリューが待ってる」

 長上着のポケットに両手を突っ込んで足を組みクラバインの座席を占拠するヒューを一瞬見つめ、それからミナミは、わざとのようにふんと鼻を鳴らして言ってやった。

「他人(ひと)にばっか、偉そうに言ってんじゃねぇっつの」

 ついでに、じゃーな、と付け足してから足早に室長室を出て行ったミナミの背中を見送ってから、ヒューは俯いて肩を震わせた。

「何を今更、家に帰るのにあんなに緊張してるんだ、あいつは…」

       

      

 人気のない通り。

 等間隔に佇む街灯の投げかける白い光。

 ひっそりと寝静まった町並み。

 ぱちぱちと明滅する切れかけのネオンが描くパブの看板。

 閉ざされた組木のドアから漏れる酔客の笑声。

 カーテン越しの灯り。

 見慣れた鉄の門扉。

 どこか眠たげな空気を漂わせた門番の笑顔。

 天蓋の向こうの星空。

 煉瓦造りの建物。

 通りを睨む悪魔のレリーフ。

 立ち止まり。

 手を伸ばす。

 ドアを。

 開け。

 閉ざし。

 リビングから漏れる柔らかな光。

 廊下に脱ぎ散らかされた。

       

 緋色のマント。

     

     

 微か耳に届いた金属音が玄関の開閉を知らせると、ハルヴァイトは閉じていた瞼を面倒そうに持ち上げた。さすがの彼も、現実的な時間にして約十日…実際の感覚としては酷く曖昧で、十日より長い気もしたし一瞬のような気もするのだが…休みなく臨界に接触し続けていたようなものだったから、度を越した疲労のせいか何をするのも億劫で、しかし、リビングのソファに寝転がってみても一向に眠気は訪れないという、限界の更に上を行く状況に思わず苦笑を漏らしてしまった。

 衣擦れの音と、階段を駆け上がって行ったのだろう柔らかい足音が連続するのを遠くに聞きながら、ハルヴァイトは顔の前に翳していた腕を下ろそうかどうか迷った。

 正直、無茶をした自覚はあったし、関係した魔導師たちに無理をさせたとも思う。今回の一件が全て「絶対に必要」だったのかと問われたら…。

 絶対ではなかっただろう。

 ただ、我慢ならなかっただけだ。

 自分の手の出せない場所でのうのうと、様々な事象を仕掛けて来ようとしているグロスタンを、現実という舞台に強引且つ早急に引き上げたかった。

 翳した腕越しにぼんやりと天井を見つめ、ハルヴァイトは短く息を吐いた。

「そういう煩雑な事柄」にかまけている暇は、多分、余りない。冥王=プルートゥにさえ都市ファイランの悪魔と言わしめた彼の真の目的は、全てあの恋人のしあわせにある。

 単純な話、グロスタンは―――。

「邪魔なんだよ」

 棘も剣も含まない冷淡な声でぼそりと呟き、ハルヴァイトはもう一度溜め息を吐いた。もしかしてこれが知れたらあの恋人はきっと、マジそれだけかよ! とかなんとか突っ込んでくれるだろう。

 大義名分。大前提。都市を救いましょう「悪」は捻じ伏せましょう平和は約束しましょう平穏はちょっとどうだか判りませんが。

 なんて実は、都合良さそうだからという理由で後から書き足した、注釈みたいなものだ。

 徹底的に傍迷惑な真相を考えつつうつらうつらしていたハルヴァイトの意識がまた、ふ、と浮上する。今度は面倒などと悩む事もなく、額に載せていた腕を下ろして上空を見上げれば。

 不透明な鉛色に映る、深海のダークブルー。

 淡い橙色で控え目に室内を炙る間接照明を受けた金髪に縁取られるさかしまの無表情を、ともすれば冷たいくらいの表情でハルヴァイトは見つめる。

 他には何もいらなかった。

 再会に歓喜する涙も。

 ぶつけるように与えられた抱擁も。

 薄い唇から滑り出した、あの一言も。

 本当は。

        

「あなたが「世界」の内に溶け込んで存在しているという奇跡のような当然を構成する一秒一秒を」

     

 鋭利な刃物で余分なものを全て殺ぎ落としたかのような、全く感情の窺い知れない平坦な声でハルヴァイトが呟く。

 何もいらない。

 ただ「一秒」を。

 瞬間を。

 耳鳴りのような静寂に支配された室内。ミナミは睨むようにハルヴァイトを見下ろしたまま、詰めていた息をゆっくり吐いた。

 溜め息のように。

 安堵するように。

「そんじゃ結局全部だろ…。一秒が「世界」を構築する上での最小単位だって、臨界も言ってたし」

 人の感じられる絶対時間の、最初のひとメモリ。

 やや上体を傾けてハルヴァイトを覗き込んでいたミナミが、疲れたように囁きながら身を起こす。不貞腐れた無表情を崩さず虚空に投げられたダークブルーを見上げて、暫し、ようやくハルヴァイトは笑った。

「では、全て」

 何もいらない。

 ただ「全て」を。

 積み上げられた瞬間を。

        

「いつか、な」

       

 ぽつりと呟いたミナミが、ふいとハルヴァイトから顔を背ける。部屋の四方に散らかる暗がり。仄かなオレンジに淡く浮かんだ青年の蒼白い顔に、僅か、朱が差した。

「ミナミ、ミナミ」

 それがなんだか可笑しくて、ハルヴァイトは身体の上に投げ出していた腕を上空に伸ばし、くすくす笑いながらふざけて青年の名前を繰り返した。

「―――――、何…」

 ひとり上機嫌になった恋人に不満を抱いたミナミが視線だけを動かし、先より一層冷たい無表情でソファに寝転ぶハルヴァイトを睨んでぶっきらぼうに言い返す。あれだけ周囲に迷惑をかけまくったくせに反省する素振りも見せない悪魔に、意味不明の苛立ちが募った。さっき展望室で浴びせたのと一字一句同じ小言を言ってやろうかどうか、真剣に悩むほど。

 青年には、それが出来るのだから。

「キスしていいですか?」

「そんな恰好じゃぜってー無理」

 ソファに仰向けに寝転び、笑いながらミナミに手招きしつつそんな寝言を平然と言ったハルヴァイトに、青年が思い切り突っ込む。何せ、キスしていいかという質問ではなく、ここに来てキスしてくれと言われた方が納得出来る状況なのだ。

 言い返されて、ハルヴァイトがまた笑う。

 欲しいものがある。いつか、全てを。

 くすくす笑うハルヴァイトの顔をいっとき不愉快そうな無表情で眺めていたミナミの視線が微かに上へ逸れ、虚空に伸ばされた指先を捉える。

 蒼白い指先。

 自然に折れ曲がり、何も掴んでいない、指先。

 ミナミに向けられるでもなく、漂うだけの。

 その、手は。

「………―――」

 なんとなくというよりも、じんわり胸に滲んだ衝動に動かされるようにして、ミナミは無言のまま腕を動かした。

 問い掛けもなく答えもなく、青年の細い指の先端がハルヴァイトの指の先端に触れる。

 言葉。記号。なんだろうか、そういうものは必要ない気がした。触れてもいいかと問う「文字列」を音声に換え、回答を待つ行為。いちいち、細々としたものを省くならばそれは、誰しもが誰かに対して行なっているのだが、それを意識している人間は少ないだろう。

 例えば、子供は親に対して愛されていいかとは問わず、親は子供に愛しているとは答えない。しかしそこには事実、双方を思いやる気持ちが存在しているはずだ。

 例えば、友人は友人に対して友情を抱いていいかとは問わず、友人は友人に友情を抱いているとは答えない。しかしそこには事実、双方向に友情が存在しているはずだ。

 例えば、恋人は恋人に対して―――。

 触れてもいいか。キスしていいか。愛していいか。愛されていいのか。愛しているのか。愛なのか。

 問わず、答えず、ただ、そうしたいと思うから、お互いの気持ちがそれぞれの髪の先から爪先まで染み込んでいると、判っているから。

 判ったから。

「…やっぱあんたさ、俺にゃ優しくねぇよ」

 ぽとりと床に落ちたミナミの呟きに、ハルヴァイトは笑うのをやめて不思議そうな顔をした。触れ合ったままの指先を引き寄せるでもなく、ゆっくりと組み合わされ繋がった手を握り返すでもなく、されるがまま放置して、まるで意識もしない。

「だから、俺は…さ」

 決定権は青年にある。悪魔は、ただ少し離れた位置に寄り添って、見せるだけだ。

 見たものを絶対に忘れないミナミ・アイリーに、「愛している」と、「見せる」だけ。

「…さっき、答えときゃ良かったな。失敗したかも」

「? 何をですか?」

「…つうか、あんたが忘れんなよ…」

 果たして本気なのか忘れたフリをしているだけなのか、後者だったら恐ろしいまでの名演技で首を捻ったハルヴァイトの顔に視線を戻し、ミナミは短く嘆息した。

「なんでもねぇ。

――ホントはさ、俺はもう随分前からそれに気付いてて、でも、色々さ、自分に言い訳しながら見て見ぬフリしてただけなんだし」

 激変を。

 きっかけを。

 変わる準備が終わったのだから。

 まず、始めは。

 ミナミはハルヴァイトの寝転ぶソファの正面に移動すると、繋いでいた手を解いた。

 融合していた「世界」。薄汚い欲情塗れの「世界」。それが細胞分裂するように細かく分離して、分離して、分離して、分離して、正しく「世界」を形作った時、ミナミは「記憶」したはずだ。

 ハルヴァイト・ガリューを。

 ミナミ・アイリーとハルヴァイト・ガリューに関わる全ての人を。

 判っていたから。

       

 その人だけが全てになるのを、怖れた。

       

 間接照明に照らされたミナミの仄白い顔がゆっくりと俯き、薄い唇に淡い笑みが浮かぶ。

「いっこだけ、聞いといてくんねぇ?」

 薄紅色の柔らかい木綿に包まれた細い腕を伸ばして身を屈めながら、青年は囁いた。

「なんですか?」

 予想された近々未来を受け入れるように、ハルヴァイトが肘を軽く折り曲げた腕を上げる。

「もしも、さ、あんたがまた、今回みてぇに、俺に何も言わないで消えたりしたら――」

 床に膝を落としたミナミは、なんの躊躇もなくハルヴァイトの胸に倒れ込んだ。

 たった十日余りで軽くなってしまった青年の身体をしっかりと両腕で囲った都市ファイランの悪魔は、頬に掠る金糸に唇を寄せて薄い肩に手を置き…。

          

「俺は、あんたを「消した」世界を怨むし、呪うし、憎むし、壊す前に、壊れるんだなって…そう、思う」

       

 平坦な、何の感情も含まれない告解を受けて唇の端を吊り上げ、人知れず。

        

        

 嗤った。

     

       

2007/02/13(2007/02/21) goro

  

   
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