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18.インターミッション デイズ

   
         
(23)幻惑の花-6-2

  

 わたし・は。

      

        

 隣室から始めますか? という全く持って緊張感のないハルヴァイトの問いに、ミナミは呆れてがくりと肩を落とした。

「つうか、リビングから始めるほど酷かったら、最初から俺だって戻って来てねぇって」

「ああ、そうか」

 リビングとベッドルームを隔てるドアに背中を預けて寄り掛かり、手に透明なスピリットを蓄えた背の高いグラスを持ったまま腕組みしていたハルヴァイトが腑抜けた声を出す。それをベッドに座り込んで見ていたミナミは、今までの自分の苦悩はなんだったんだと内心泣きたい気持ちになった。

 シャワーを済ませたミナミは淡いクリーム色のナイトウェアを身に着け、あの…首に走る傷跡を晒して、ベッドに座り込んで…というか、殆どへたり込むような、乙女座りだが…いる。室内の照明は落とされていて薄暗く、ヘッドボードに組み込まれたライトの光が壁に垂直な軌跡を描いているだけで、既にリビングの明かりもない。

 その、殆ど薄闇に塗り潰されたハルヴァイトはといえば、飾り気のない白色のナイトウェアを上下とも着ているという、ガリュー家ではありえなかっただろう…それも酷い話だが…今まさにベッドに入りますよ、という恰好で、部屋の入口に立っている。まずシャワーを浴びて寝間着に着替え、髪を乾かせ。とミナミに命令されていなければ、こんなに完璧な状況にはならなかったかもしれない、というのは、正直人としてどうかと思うが。

 とにかく、ミナミの命令を苦笑で受け取ったハルヴァイトがバスルームから現れるまでの時間に、青年は腹を括ったらしかった。多少緊張気味だが比較的落ち着いた様子でベッドに上がっているのを目にした恋人が内心安堵の吐息を漏らしたのは、一生涯の秘密だ。

 アスカの支度してくれていた飲み物を手にしたハルヴァイトがリビングの灯かりを落としてドアの傍で足を停めたのは、他意のない行動だったのか。悪魔はあくまで飄々と、暗に、ミナミが「来るな」というのならこれ以上は進まないという意志を表す。

 奇跡的にくつろいだ恰好のハルヴァイトを暫し凝視してからミナミは、薄闇にも映える白い手を上げて、自分の座り込んだベッドの空いた空間を指差した。そこまではいいという事なのか、ここに来いというものなのか。どちらにしても、許可された距離はハルヴァイトの予想より遥かに近い。

 いきなりチェックメイトだなと、ミナミが聞いたら憤慨しそうな感想を抱きつつ、ハルヴァイトは淡い笑顔を湛えたままベッドに近付きヘッドボードの上にグラスを置いた。その間、自分から離れないダークブルーに苦笑を漏らすも、寝室らしい柔らかな闇がそれを覆い隠す。

 そこだけやや明るいベッドにハルヴァイトが近付いて来るのを見ていたミナミは、ありきたりの事に気付いて少しだけ目を瞠った。ハルヴァイトの身を包んだ白いナイトウェアの表面に、その下、肌に描かれたあの青緑色の炎が薄っすらと浮かび上がっていた。

 停める言葉もないからか、ハルヴァイトは極自然にベッドの端に腰を下ろし、片足だけを上に載せて半身になったまま、顔だけをミナミに向けて来た。

「ここで打ち止め?」

「風邪引くだろ」

 解いて背に流した鋼色の髪が揺れるのを間近に、囁くような問いにきっぱりと言い返す、ミナミ。

 だから、まだ、大丈夫。

 ここから先は数センチ単位。

 ハルヴァイトはあくまでも穏やかな表情を崩さす、床に残していた爪先をベッドに引き上げた。

「つうか、そこじゃ落ちねぇ?」

「運任せで」

 ハルヴァイトの身体がベッドに上がったのを確かめてから、ミナミは不意に視線を逸らして、ヘッドボードに置いていたグラスを手に取り、ピローを背凭れ代わりにしてそれに寄り掛かった。

「落ちても知らねぇよ、俺」

「では、落ちない努力を」

 神妙な顔で頷いたハルヴァイトが、少しだけ内側に身を寄せる。

 それでもミナミは動かない。

 だから、まだ、大丈夫。

 柔らかく手触りのいいシーツを引き上げて半身を覆うハルヴァイトの横顔を、ミナミは盗み見る。すぐ足元が暖かくなったのと、アスカが用意してくれていたのが軽いアルコールだったのも手伝って、ふわふわとした眠気が青年を包んだ。

 なんだか急に落ち着かない気分になって来たミナミは、グラスに半分ほど残る琥珀の液体を二口ほど飲んでから、それをヘッドボードに預けた。色だけは一人前だが実は甘いカクテルを舐めるように減らす青年を、こちらは色だけが詐欺で中身は発火燃料並みに凶悪なストレートのスピリットを平然と減らしていたハルヴァイトが、少し笑った。

「横になっても構いませんよ」

「んー」

 確かに、肩の辺りがそこはかとなく寒い。半ば緩んだ声でおかしな答えを返したミナミが、もそもそとシーツに沈んで柔らかいピローに金髪を埋める。

 それでも、青年が緊張しているのは一目瞭然だった。傍らのハルヴァイトから逸れないダークブルーは、先から極端に瞬きを減らしている。

 でも、まだ、大丈夫。

 ハルヴァイトはミナミが見ているのを「確かめて」から、軽く、青年とは自身の身体を挟んだ反対方向の右手をゆっくりと、殊更ゆっくりと、慎重に胸まで差し上げた。

 まだ、大丈夫。

 瞬間、室内に淡い青緑色の光がぱっと散った。

 天井に向けられた長い指の先端からやや上空に、直径が三十センチほどの陣が水平に描き出され、弱々しく瞬くように発光する。ヘッドボードからの間接照明とも違う不可解な光は、清潔なリネンと暗闇一色の天井に、はっきりと何らかの模様を焼き付けた。

 滲んだ、青緑。

 室内に満ちる、霧のような青緑。

 ミナミは、微笑むハルヴァイトとその光を、じっと見ていた。

 本体を挟んで上下に投影された陣影の描く紋様を刹那で読み解き、ミナミはすぐに納得する。

「やっぱ寝ねぇのな、あっさりは」

「明日もお休みですので」

 それはつまり明日もミナミの体調は改善しないという確信か。言われて、強固に抗議するでもないが不満そうにふんと鼻を鳴らした青年を、ハルヴァイトがくすりと笑った。

 他愛のない会話の間に陣から捻り出されて来る、本一冊。それをハルヴァイトが危なげなく受け取ってすぐ、中空に留まっていた青緑の斑紋は弾けて霧散した。

 転送陣から現れた本を広げたハルヴァイトの横顔を眠たげな表情で見つつ、ミナミは浅く息を吐く。眠い。でも、まだ、眠ってはいけない。

         

 わたし・は。

         

「…そういやぁさ」

「なんですか?」

 自分でも笑ってしまうようなふにゃふにゃの声で囁いたミナミに、本から視線を外さないままハルヴァイトが答える。

「陣影って、触れねぇの?」

「魔導師の足元に描き出される一次や二次の陣は、ダメですね」

 会話。

 ハルヴァイトとミナミの間には今だ、小さな子供ならば余裕を持って眠れるだろう隙間が取られている。

「それ以外は、いいんだ」

「今のような、中空に浮くものの中には臨界面で稼動している陣の光が洩れているだけの場合もありますから、そういったものは触っても問題ないでしょう」

 ならば触れないものもあるのかと問いたい気持ちと眠気を戦わせつつ、ミナミは無意識に瞼を閉じた。

 突如身体が重たくなり、文字通りベッドに沈む。眠い。でも、まだ、眠っては、いけない。

 ミナミは極端に回転の鈍くなった頭で眠気に抵抗しながら、徐々に、静かに、生温い安息に…。

           

 落ちる。

          

 大丈夫。

           

 耳を擽る規則正しい寝息を確認して広げていた本を閉じたハルヴァイトは、ミナミを起こさないように注意しながらそれを床に下ろした。予想外の近さが素直に嬉しい反面、これ以上は近付くよりも遠ざけられる可能性の方が高いだろうと苦笑を漏らす。

 ヘッドボードの灯かりを落とさず、ハルヴァイトはそのまま背後に寄り掛かって目を閉じた。眠るというよりも思考速度を極端に落として脳を休ませる傍ら、神経を毛羽立たせてミナミの変化を読み取ろうとする。

 ミナミの眠りは、保って十五分。

 一度目で「記憶を前進させるための糸口」が掴めれば以降は徐々に長くなり、その糸口が掴めないうちは、短時間の眠りと覚醒を断続的に繰り返す。

 根気勝負だな。

 嘆息もなく平坦な思考で紡いだ文字列を「気持ち」に返したハルヴァイトが考える事を止めて暫し、唐突に瞼を上げた悪魔はヘッドボードから背を剥がして身を起こすと、不透明な鉛色の双眸を傍らで眠る恋人にすうと流した。

 先と変わらず眠り続けるミナミの蒼白い頬。

 徐々に弱々しくなり、ついには途絶える呼吸音。

 微か、苦しげにひそめられた眉。

 ふと、ゆっくりと、恐る恐る持ち上がる長い睫。

 何も認識していない、見ていないダークブルーを覗き込むように軽く背を丸めたハルヴァイトが、呟く。

            

 ミナミ。

            

 吐息のような声だった。間近にあるのに酷く遠からようやく聞こえて来ているかのような錯覚を起こす。

 聞こえているかいないか、現状を認識出来ているかいないか定かでない、ぴくりとも動かないミナミの様子に、ハルヴァイトは顔を顰めた。こちらから身体に触れるのは危険だと判断し―――

            

          

 白い、光。

 全てを焼き尽くし、全てを塗り潰し、全てを飲み込んで昇華する、光。

 いつも、目を逸らしていた。

「その続き」を知ってしまうのが怖かった。

 否。

 わたし・は。

 その続きを知っている。

 消える、白い光。

 取り残された、緋色のマント。

 わたし・は。

          

「目を閉じてその結末を拒否しなければ「ならない」」

           

 しかし、御方は仰られた。

            

 そうしなくては「ならない理由は」ない。

            

 恐怖に震える。

 世界の崩壊する音が聞こえる。

               

 ***

          

 不明瞭なそれは短く遠い、わたしを包む風景ごと瓦解する轟音。

 それなのに、わたし・は、目を閉じるタイミングを逃してしまった。

 御方は。

 否。

 わたしの幸せを願うばかりに自らの幸せを犠牲にした最愛の友は、哀しいばかりに美しい微笑と銀鈴を振るごとき軽やかな声でわたしに魔法をかけた。

             

 そうしなくては「ならない理由は」ない。

           

 だから、わたし・は。

 その友に報い、世界の崩壊を受け容れようと思う。

 思った。

 だから、わたし・は。

            

 白い、光。

 全てを焼き尽くし、全てを塗り潰し、全てを飲み込んで昇華する、光。

           

 見ていた。

 驚くほど冷静だった。

 世界が終わり。

 全てが終わり。

 誰一人安寧に辿り着けないまま。

 誰一人しあわせになれないまま。

               

 誰も、しあわせに、出来ないまま。

           

 閉じ(スクラム)。

            

 収束する白い光の只中に、あの青緑色に燃える炎を目にするまでは。

 そう思っていた。

              

 わたし・は。

           

         

 ゆっくりと身を起こすのと、同時。

 ブランケットを撥ね退けて動いたミナミの華奢な手がハルヴァイトの腕をしっかりと掴み、彼は反射的にそれを振り払おうとしてしまった。

 しかし、刹那で思い留まる。ハルヴァイトは後に、これを人生最大の「得策」だったと回想する事になるだろう。

 目は開いているがあきらかに無意識と見て取れる状態のミナミに引っ張り寄せられ、ハルヴァイトは目を白黒させた。果たしてもう一度声を掛けるべきか好きにさせるべきか悩んでいる間にもずるずると引き寄せられ、思わずミナミの上に倒れそうになって、ベッドに肘を突く。

「………」

 殆ど青年に覆い被さるような恰好で、ハルヴァイトは硬直する。

 正直、うろたえた。

 無表情に瞬きもしないミナミの仄白い顔が、間近にある。

           

 このミナミの反応は、完全に、ハルヴァイトの予想を裏切っていた。

           

 なぜかハルヴァイトはそれで、どうにかしてこの状況から抜け出さなくてはと考えた。いや、相当混乱していたから、そんな訳の判らない思考が生まれたのか。

 単純な話。恋人にベッドの中で引き寄せられて速攻逃げ出す手段考え始めるなんてどこの浮気者だよ、くらいの突っ込みは、正常な意識ならミナミだってしただろう。

 とにかくハルヴァイトは、皮膚にまで爪の先を食い込ませているミナミの手を軽く、本当に控え目に腕を振って引き剥がした。

 果たして、青年の手がはたりとシーツに落ち。

 悪魔は安堵の吐息を漏らして、且つ眩暈を堪えつつ眉間に皺を寄せ、そっとミナミの上から退けようとする。

 それを遮ったのも、結局、ミナミなのだが。

           

         

 わたし・は。

            

 最早昇華を受け容れて怖れるものもなく、白い光に食い潰されそうな弱々しい青緑に手を伸ばした。

 崩れかけの指先で触れたそれは生温かく様々な「手」の記憶をわたしに呼び起こしたが、なぜか不快さはない。欲に塗れ、べとべとに汚れた数多の「手」でない事に安堵しつつも、そんな事は始めから判っていたと冷静な思考が気持ちに返り。

 だから、わたし・は。

           

 その焔がこの世で唯一わたしを溶かし得る高熱なのだと知っているから。

 もう、そうしなくては「ならない理由は」ないと知っているから。

           

 引き寄せて。

 抱き締めて。

 白い光に溶けるように。

          

 わたし・は。

           

         

 半ば夢見るようなダークブルーがゆっくりと旋回し、離れかけたハルヴァイトの鉛色にひたりと据わる。本当に意識がないのか、実はすっかり目が覚めているのか判らない無表情に、悪魔は頬を強張らせた。

 もしここでミナミが唐突に意識を取り戻したらと思うと、ぞっとする。

 もう、取り返しの付かない事になってしまうかもしれない。

 ハルヴァイトは息を詰め、どうすべきか「迷ってしまった」。

 その刹那にミナミは、折角解けた縛鎖を抜けようとしていたハルヴァイトの、結局中途半端に青年の上に屈んだままの首に痩せた腕をぱさりと預けて。

 ぎゅ。

 と、抱き着いて来たではないか。

 というか、最早思考停止で行動不能に陥ったハルヴァイトを引き寄せて闇色に塗れた頭部を胸に抱き、ついに堪え切れずぐったりとミナミに覆い被さった恋人…忘れてはならない、彼らは立派な恋人同士だ…をくっつけたまま、太平楽にも瞼を閉じて、またもやすっかり寝入ってしまったのだ。

 さて、それで。

 図らずも巨大な抱き枕よろしくミナミに抱え込まれたハルヴァイトは、ちょっとやそっとでは修復出来そうもない縦皺を眉間に刻み、どう取り扱っていいのか判らない両腕をベッドに投げ出して、わざと盛大に嘆息してみた。もう、なんというか、抵抗? とかそういうものが無駄だというのだけは判るこの状況をしかし、素直に喜べない自分の冷静さを天晴れだと思う。

 翌朝の惨劇を思うと頭痛がする。

 引っ叩かれるかベッドから蹴り出される程度なら許容範囲で、悲鳴を上げて逃げ出されたらさすがに二日は落ち込みそうだ。何せ、今回のこれについてはハルヴァイトに一切責任はない。

 いや、元来ハルヴァイトが「消えて」見せなければ、こんな騒ぎは起こらなかったのだろうが…。

 ハルヴァイト、最早まな板の上の鯉か。目を覚ましたミナミがどういう行動に出ようともその結果は神妙に受け止めなければならないという、もしかして陛下の呪いかもしれない。

 それにしても、とハルヴァイトは、観念したのか単にしあわせな気持ちなのか、修復不能と思われた眉間の皺をさっさとどこかへ吹き飛ばして、眠るミナミに抱きかかえられたまま瞼を閉じた。

「まさかここまで見事に、一度でミナミが「記憶」の出口を見つけてくれるとは思わなかったな…」

 さすがにこちらもミナミに付き合って寝たり寝なかったりを繰り返していたからか、青年の規則正しい呼吸音につられてうとうとしながら、ハルヴァイトが口の中で小さく呟く。明日の朝、もしかしたら事態は別方向に急展開するかもしれないが、今は、ミナミの睡眠障害がこれで劇的に改善したと喜んでいいだろう。

 実は、ここに陛下の何気ない一言が絡んでいるとは、一生、ミナミもハルヴァイトも、陛下も知らないのだけれど。

 夜が更けて。

 朝になるまで。

 今日は青年が怖い夢に振り回されないようにと、悪魔は、自分を抱き締めた細い指の感触に薄笑みを零した。

           

          

 しかして翌朝。

 ミラキ家の掟として朝食は全員揃って食堂で、と前日リインに固く言い含められていたにも係わらず、ミナミもハルヴァイトも姿を見せなかった。

 それについて、朝の挨拶に離れを訪れたアスカはなぜか当惑気味に、こう、リインとドレイクに報告する。

            

「お二人とも目を覚ましておいでのようでしたが、ミナミさんが…」

          

 今バスルームに篭城していて、いや、別に何か問題がある訳でもあった訳でもなくて、ただちょっと驚いているだけなので、半日ほど放っておいて貰えればきっと落ち着くと思いますから、呼ぶまで誰もこちらにはよこさないように。と、どう見ても顎の辺りを殴られた風のハルヴァイトに、物凄く機嫌よくにこにこしながら追い返されたのだ、と。

 そして、その日の朝二人に何があったのかは、永久に秘密にされる事となる。

  

   
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