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18.インターミッション デイズ

   
         
(25)インターミッション デイズ-幻惑の花

  

 ブランケットを持ち上げてするりとベッドに滑り込み、そんな自分には無関心な横顔を少しの間見つめる。今日は一体なんの本を読んでいるのか、膝に広げたそれに描かれているのは文字列ではなく、真円に閉じ込められた精緻な紋様だった。

 さすがに「ここまで複雑なものになると理解し辛い」のか、間接照明の作る薄闇に浮かび上がった文字を少し眺めてからすぐに、ミナミはふうと息を吐いて視線を正面に向けた。そのままばたりと仰向けに寝転がった青年の何が可笑しかったのか、本から顔を上げないまでも、ハルヴァイトがくすりと笑う。

 一昨日登城しドクター・ラオの問診を受けたミナミは、とりあえず、日勤だけという条件付きで職場復帰を認められた。

「…意外に早かったな…」

 薄闇に霞む天井の格子を見つめながら溜め息みたいに呟いたミナミの横顔をちらりと見遣ったハルヴァイトが、膝に広げていた本をぱたりと閉じる。

「そうですね」

 ミナミ不調の原因はいわゆる不眠だったから、それがある程度改善されればラオを黙らせられるとは思っていたハルヴァイトにしても、引っ越し当日から青年の状況が劇的に変わるとは予想していなかった。徐々に新しい生活に慣れるのと同時、現状を正しく理解し記憶が進めば自ずと睡眠障害も改善されるだろうというのが悪魔の読んだ進路であって、まさか一日目に、いきなり抱き着いて来てそのまま朝まで目を覚まさないとは思っていなかった。

 良くも悪くも、ここでもまたイレギュラーだとハルヴァイトが思ったかどうかは、不明だが。

 その後、ミナミの睡眠障害は一時一進一退を繰り返す。寝入ってすぐ目を覚まし、それから何度もうたた寝しては跳ね起きる日もあれば、殆ど目を覚まさず朝までぐっすり眠った日もある。

 それがある程度落ち着いたのは、ほんの数日前の事だった。

「明日から仕事かー」

 少し残念そうな色を含んだミナミの声に、ハルヴァイトは薄い笑みを零した。

「退屈してたんじゃなかったんですか?」

「休日って、その間はあんま感想ねぇけど、いざ終わるってなると惜しくなんねぇ?」

 天井に向けられていたダークブルーが旋回し、笑う恋人の横顔に据わる。

「そういう風に考えた試しはないですね」

 間接照明の淡い橙を照り返す、鋼色。

「どうせ、繰り返すものですから」

 事も無げにそう付け足されて、ミナミはちょっと困ってしまった。確かに、言ってしまえばその通りだけれど、その感想はなんだか味気ない。

 とはいえ、ハルヴァイトを咎めるのも筋違いかと思う。

 この人は。

 無意味な繰り返しを繰り返す「世界」を少し離れた所で見ているだけ「だった」。

「…過去形かよ」

 胸に沸いた不愉快な感想に対する突っ込みだけを口にしたミナミに、ハルヴァイトが不思議そうな顔を向けた。

 ミナミは、希望する。明らかにそうだと判らなくていいから、その人の中で「世界」と「自分」が現在進行形で係わっているようにと。

 今は。

「ハル」

 どこかぎこちなく、未だ呼び慣れていない不自然さで名前を囁かれ、ハルヴァイトは薄く微笑んだ。それから、ブランケットの上に投げ出されているミナミの白い手を、優しく握り締める。

「おやすみなさい、ミナミ」

 小さく呟きながら身を屈めたハルヴァイトが、青年の手を離さずに頬を摺り寄せ、薄い唇にキスを落とす。それは一連の儀式のようなものであり、数日前、ほんの思い付きでミナミが眠るまで手を握っていてやろうと言い出したのが発端だった。

 手を握り。

 おやすみのキスをして。

 灯かりを落とす。

 それだけで。

 今日もまた、誰も操作していないのにヘッドボード備え付けの照明がすっと消えて、ミナミは内心苦笑する。スイッチを押すくらいの手間を省くなと突っ込んでやりたいのだが、なぜか言い出せない。

 手を握り。

 おやすみのキスをして。

 灯かりを落とす。

 刹那瞬く、青緑色の淡い光。

 瞼の内にその光を焼き付け、ミナミは記憶を更新する。

 そうして青年は。

          

 あの、恋人を「食った」白い光を振り払い、安心して、眠るのだ。

        

「おやすみ、ハル」

         

         

 長い休暇は終わった。

 そして「事件」は連続する。

 全ての人よ―――。

        

         

 ミナミが仕事の調子を取り戻すために必要としたのは、ほんの数日だった。本来ならばもう少し時間を掛けるべきなのだろうとクラバインは申し訳なさそうに言ったが、青年は無表情に肩を竦めてしょうがないと思った。

「さぼってたツケ来まくりで、ボケてる暇もねぇし…」

 復職後始めてハルヴァイトとは別に一人で登城したミナミに、クラバインはやっぱり申し訳なさそうに何度もすみませんと謝りながら、それでも随分気を遣ってくれているのだろう、午前中には仕上がる…とはいえ、締め切りが昼までという忙しさの…仕事を与えて行った。

 陛下と貴族院議員が昼食を挟んだ会議で使う資料を纏めながら、ミナミは考える。

 まずは例の「計画」を開始するために、もう一度セイルを特務室に呼ばなければならない。アドオル・ウインとアリア・クルスの事情聴取、調べに調べて放置していた秘密施設の検証、消えたグロスタン・メドホラ・エラ・ティングの動きを探るための手段を講じ、サーカスから回収して来た機械式関連の情報も分析する必要がある。

 モニターに映し出されたリストを目で追い、端末の抱える莫大なデータの中から関連項目を一瞬で脳内に呼び出して、目印にと振っておいたダグを目の覚めるような速さで入力し無数のウインドウを開く。今度はそのウインドウを議題の順序に倣って前面に表示させ、必要な部分だけを資料として纏めるのが、今日のミナミの仕事だった。

 途中、お茶を運んで来てくれたジリアンはそのミナミの、神懸かり的な手際に目を瞠り、それから、ちょっと弱ったように眉を下げて苦笑した。

「ホント、アイリー次長には敵いませんねぇ」

 自分だってそれなりの情報処理能力を有していると自負するジリアンでも舌を巻く、正確で停滞のない作業。

「それだけが取り得だし、俺」

「そうじゃないですよ」

 謙遜ではなく本気でそう思っているのだろうミナミに向かって、ジリアンは力説した。

「記録を記憶するっていうのは、つまりデータを蓄積するだけの作業じゃないですか? でも、アイリー次長はそのデータを適切に使う事が出来るんですよ。例えば、十の数字を記憶するだけなら誰でも出来ます。でも、その数字を過去に記憶したデータと照合して法則を割り出すとか、数字そのものの表す意味を見つけるとかいうのは、数字を記憶した全部の人が簡単に出来る事じゃないです」

 固めた握り拳を胸まで差し上げて眉間に皺を寄せ熱く語るジリアンを、ミナミが無表情に呆れて見上げる。二ヶ月近く経つうちに部下のキャラ設定変わってねぇ? と内心冷や汗を掻いた。

 だったらどうしよう。部下に対する記憶の更新が必要か?

          

「だから、アイリー次長、気付きましょうよ」

         

 握っていた拳をすっと降ろし、ジリアンはにこやかに言った。

「…気付くって…、何に?」

 ブースを区切る衝立越しにミナミのきょとんとした顔を見つめる、食えない笑み。

「アイリー次長、実は、何が必要で何が必要でない記憶か、判ってるはずですよ」

 ただ、その量が余りにも莫大で、判っているものを選り分けるという作業は余りにも煩雑で、結果的に、区切りのない広い部屋に全てを突っ込んでいる状態なのだと、ジリアンは自信有りげに肩を聳やかした。

 それから少ししてジリアンが室長室を辞すと、一旦手を停めて回転椅子の背凭れに身体を預け、ふうと息を吐く、ミナミ。

「…我ながら怖ぇわ、特務室…」

 それに、ムービースターもだと内心付け足して、青年は…文字列の点滅するモニターにふわりと微笑んで見せた。

 ミナミは、ただ記憶するだけの壊れたレコーダーではない。

 そして。

「…―――さすが、臨界の王、か」

 ソレが本来どんな「生き物」なのか、そもそも生き物ですらないのかは、ミナミにも判らない。しかしあの、取り立てて特筆すべきところもない端正な顔立ちの「冥王」は、既にその「答え」をミナミに要求していたではないか。

 デスクの引き出しから取り出したハーフサイズのブランクロムをリライターに挿し、纏めた資料を羽根ペンのアイコンにドロップすると、ぽんと立ち上がった小さなウインドウの中で忙しく動く、白鳥の羽根を模した筆記具。この、古臭さを醸し出そうとしてチープになり過ぎたライティングソフトの演出が、ミナミは意外に気に入っていた。

 自分の記憶もこんな風に、モニター上で操作出来ればいいのに。

 でも、出来ないから。

「忘れてもいいモンは忘れたフリすりゃいいんだよな…」

 知らされた、臨界の理のように。

 そして、セイルの、ジリアンの言うように、記憶を味方に。

 ロムの書き込み終了を待つ短い間に、陛下私室に行っていたクラバインがほっとした表情で戻って来る。何があったのかと問いたい気持ち半分、おかしな事に巻き込まれたら困るので無視したい気持ち半分で仕事を続行するミナミの無表情を、クラバインが薄く笑う。

 それから暫しして、ミナミはクラバインの示した締め切り時間三十分前に仕事を片付け、わざわざキーボードを押し退けてデスクにばたりと突っ伏した。

「お茶でも差し上げましょうか」

 と、クラバインが笑顔で青年を労った途端、地味な男の背負った王城最深部に繋がるドアが盛大に開け放たれ、ファイラン運航システムに入っていたはずのルニがひょこりと顔を出した。

「アイリー、暇?」

「…非常に残念ですが、暇です」

 だらしなく腕を伸ばしたままうっそりと顔を上げたミナミが答えて…。

 日常と言う「事件」が、また回りだした。

2007/10/19(2008/04/10) goro

  

   
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