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    2.冷たい恋人    
       
(1)

  

 三ヶ月経っても相変わらず、ハルヴァイトの下城風景に変化はなかった。つまり、ミナミは彼の元から出て行かなかったのだ。

  

「言い方はどうあれさ、結局「お前は社会生活不適合者なんだから俺が面倒見てやる」ってのに意地張り通せる程の余裕、俺にはねぇから」

  

 相変わらずの無表情。嬉しいんだか怒ってるんだか判らない口調でぶっきらぼうに吐き捨て、唖然とするハルヴァイトの手から離れてテーブルに置かれた茶器を奪い取りリビングに爪先を向ける、ミナミ。先の言葉のせいなのか、その後ろ姿が急に頼りなく見えて、ハルヴァイトは、彼の痩せた背中を抱き締めるように腕を上げ、上げただけで気配を殺し、息を詰め、そのまま彫像のように動きを停めた。

 ミナミという青年を、誰もこれ以上傷つけてはいけない。

 そのためには、あの頼りない、助けを求めている、恐怖に震えている、華奢な身体に触れてはいけない。

 手を差し伸べてもいけない。

 ただ…じっと耐え続けるだけ。

 許されているのは……………。

  

  

 毎回のごとく、歩道の上で短いキスを交わす。少し離れて瞼を持ち上げ、深海の瞳がじっと自分を見つめている、と感じて、なぜか今日は、ハルヴァイトが先にミナミから目を逸らした。

 微かに、笑う気配。

「…なに今更照れてんの? ばっかじゃねぇ」

「いや、だって…。良く考えたら不思議じゃないですか、これって」

「何が」

「身体に触れるのも手を握るのも一切ダメ。でも、キスはいい。なんて……」

「なんで下城する時にまでこんなド派手なマント着る義務があるのか、そっちの方が数十倍不思議だと思う、俺は」

 とミナミはハルヴァイトの言葉を遮るように言い捨てて、さっさと歩き出してしまった。

「これは、…上司からのささやかな嫌がらせで…」

 マントの合わせを引っ張りつつ、ハルヴァイトが苦笑いする。

「ふうん。まぁ、俺はそれ、結構助かってるけどな」

 少し急ぐとすぐ追い越してまいそうになるミナミの傍らを歩きながら、ハルヴァイトは無言で小首を傾げた。

「アンタがその派手なマントひらつかせて肩で風切ってくれると、前が開けて、さ」

 ほら。と指を差されて正面に向き直り、得心して、ハルヴァイト…王都警備軍電脳魔導師隊第七小隊隊長、「スティール・ブレイド」と畏怖を込めて囁かれる長身の男が、目を細める。

 民衆は慎ましやかで無遠慮だった。誰も彼も、並んで歩くハルヴァイトとミナミをちらちら窺い、慌てて道の脇に退去しくれる。

 特徴的な、派手な緋色のマントに鋼色の髪。数ヶ月前まで…、傍らにミナミの居なかった頃は、自分の容姿も含めて、この視線に晒される全ての要因を三日に一度は呪ったはずなのだけれど、と今はそれを有り難いとさえ思っている自分がなんだか可笑しくて、ハルヴァイトは小さく、吐き出すように笑った。

 通行人たちが、停滞無く歩く二人に道を空け渡す。

 だからミナミは…、それが例えば不可抗力だったとしても、他人と接触することを極端に恐れる青年は、目前に飛び出してくる「人間」たちの存在に怯えることなく、真っ直ぐ歩き続けられるのだ。

「他の約束は守れなくても、これだけは絶対に破りませんと、わたしはあなたに言いましたからね」

 笑いを含んだ囁きに、ふとミナミが顔を上げた。人形のように色が白く、鮮やかな金髪で飾られた小作りな顔は男だと信用するのに多少の時間を要するほど綺麗で、長い睫に飾られているのは、今や資料映像でしかお目に掛かれないような、深海のダークブルー。それが少しだけ不思議そうに、肩を並べたハルヴァイトの瞳を覗き込んでいる。

「もう誰にも、あなたを傷つけるような真似はさせません、って。イヤですね、忘れたんですか?」

「……………相手殺してでも、っても、言ったよな…」

「はい」

「………………それって、一般市民にまで適用したらマズいんじゃねぇの…?」

 少々呆れ気味に言ったものの、ミナミの口元には、いつものような薄笑み、ではなく、少し困っているような、もしかしたらちょっと嬉しいような、そんな複雑な笑いが浮かんでいた。

「あなたに多少なりとも危害が及ぶような事になるならば、その原因となった人物が一般市民を気取るなんて許しませんよ、わたしが」

 で、ハルヴァイトは華やかな笑みをミナミに返した。

「…………。アンタ、案外見境いねぇの? もしかして…」

「時々ドレイクにそう言われますが、今のところ市民が急に消えるような事態を起こした事はないです」

「つうか、一生起こさないように注意しろよ…」

「事と次第によっては、今後起こり得るかもしれないですけどね」

 ちょっと待て。とミナミは、足を停めた。

 二人が同じ家で暮らし始めた…つまり、契約として「恋人」関係を始めてから今日までの約三ヶ月のうち、ハルヴァイトは実に三分の二を登城している。だから実質二人が顔を合わせて生活したのは、ほんの一ヶ月に満たないのだ。まぁ、それはいいとしよう。ハルヴァイトは、実はそれ以前からミナミの事を知っていたのだし、四年半もその行方を探していたのだ、このくらいの決心がなければ、下手をすると普通に道さえ歩けないミナミに、普通の生活を約束する、なんて大それた事は言えないだろう。だから、それも…、なんとなく不安だが、いいとしよう。

 だからといって、一般市民を護るべき王都警備軍所属で、権威も実力もある上から数えた方が早いハルヴァイトが、たかがミナミごときのために護るべき市民さえ容赦しない、などと笑顔で言っていいのか?

 ……………多分、よくないだろう?

「どうかしましたか?」

 立ち止まり、じっとハルヴァイトを見つめているダークブルーの瞳が、なぜか当惑に揺らめく。

「いっこ訊いといてもいいかな…」

 その、ミナミの珍しくおどおどした言い方が可笑しかったのか、ハルヴァイトはくすくす笑いながら緋色のマントを翻し、彼に身体ごと向き直った。

 これに、周囲の空気が凍りつく。何せ、ハルヴァイト・ガリューというのは確か、「機械仕掛け」かもしれないという風評が出るほど、表情の動きが乏しいひとのはずだったのだ。まさか往来のど真ん中でこうも可笑しげな笑顔を振り撒けるなどと、一瞬前まで誰も予想していなかったに違いない。

 だから、不幸にも辺りにいた軍関係者は、殆ど半狂乱で後退った。

 悪夢だ! という叫びまで聞こえてきそうな勢いで。

 そして幸運にもそういう周囲の状況に全く無関心なミナミは、溜め息ともなんとも言い難い複雑な吐息とともに、質問、というより、独り言じみた呟きをを漏らす。

「そんじゃまるで、遠まわしな告白じゃねぇかよ。しかもアンタみたいな大人が、寄りによって…」

「そうですよ」

「!」

 先の発言を呆気なく肯定されて、何か続けかけていたミナミは思わず舌を噛み、今度こそ本当に、数人の軍人が悲鳴を上げながら逃げ去って行く。

「でもわたし、最初にちゃんと言いましたよね? ミナミ。わたしの「恋人」になってくださいって。あなた、なんで今更そんな判りきった事を質問する気になったんです?」

 思いきり噛んだ舌が痛かったのか、ミナミは俯いて口元に手を当てたまま、ふるふる首を横に振った。なんとなく彼にも、この話題を公衆の面前でやってはいけないという事が、ようやく判ってきたのだ。

「悪ぃ、今の今まで気付いてなかった…。つうか…………本気だったのかよ…」

「嫌ですね。最初から…本気でしたよ」

 婉然と微笑むハルヴァイトの脇を大股で通り過ぎながら、ミナミは、笑っていいのか呆れていいのか、はたまたちょっと怒ってやるべきか少し迷ったが、肉体関係を強要されるかもしれない恐怖だけは感じなかった。

「……そういう、結構重要っぽい事はさ、次からもうちょっと…、判りやすくはっきり言ってくれねぇ?」

 とりあえず、噛んでしまった舌の痛みに耐えつつそう、当たり障りのない抗議をするのだけが、精一杯だったけれど。

  

   
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