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    2.冷たい恋人    
       
(15)

  

 リビングには、なんとも重い空気が漂っていた。

 いつもそうであるようにハルヴァイトは窓を背にしたソファに座って、でも、いつもより数倍は不機嫌そうな顔で腕を組み、ミナミを睨んでいる。

「ミナミ」

「……何?」

 かなりトーンダウンした声で呼ばれても、ミナミは動じた風なく胡乱に答えただけで、ハルヴァイトに顔さえ向けようとしない。

「ミル=リー・アイゼンがあの手紙について、謝罪の電信を入れて来ました。あなた…彼女にお会いしたそうですね?」

「…会ったよ…」

 呟いて、諦めて、ようやくミナミがハルヴァイトに顔を向ける。

「会った。アンタの都合も彼女の都合も考えてなかったのは俺が悪ぃと思うけど、俺には…どうしても言っときてぇ事があったんだよ」

「彼女に言いたい事があったのは、わたしの方なのに?」

 ぴしゃりと言い返されて、ミナミは思わず口を閉ざした。

「確かに、わたしの行動は遅かった。それはわたしに責任があります。もっと早く、きちんとお断りすれば良かったと、判っています。でも…」

 そこまで言ってしまって、ハルヴァイトも黙り込んだ。

 ミナミが、ひどく哀しげに眉を寄せたのだ。一瞬だけ…。

 何を話したのか訊かないで欲しいと、ミル=リー・アイゼンは言ったはずだ。…ミナミは、辛い思いをしたのだと。

「……あなたを責めるべきでないとも…、判っています。ただ…どうしていいのか、判らないだけです」

 俯いてソファに沈み、ハルヴァイトが溜め息を吐く。

「判らなかったんです」

 肩より少し長い硬質な髪が、ゆっくりと頬を撫でてハルヴァイトの顔を覆い隠して行く。

「…アンタに相談しようとか、なんでだか…、それは一回も思い浮かばなかったんだよな。ただ……、彼女に会ったら何か、……その…」

 ミナミはハルヴァイトを見つめたまま一度言葉を切り、それから、瞼を閉じて呟いた。

「アンタが機嫌悪そうにしてんのだけは、終わるんじゃねぇかって…」

 言われたハルヴァイトが少し驚いたように顔を上げ、どうしようもなく困惑しているらしいミナミを、思わず見つめてしまう。

「ミナミ…」

「……なんだよ」

 いきなり喧嘩腰で言い返された。しかも、剣呑な視線まで突き刺されて。

「それは、…今のは喜ぶ所ですか?」

「すっとぼけた事言ってんじゃねぇ…」

 そう吐き捨てたミナミは、ソファから立ち上がりハルヴァイトに背を向けるまではなんとか無表情を保っていたが、背を向けて、視界からハルヴァイトの姿が消えるなり、どうしようもない後悔と恥ずかしさで、ついに耳まで真っ赤になった。

 そういう顔をして見せたくないのだ、ミナミは。ハルヴァイトにだけは見られたくないと、強固に思おうとしているのに…。

 いつか必ず、ミナミはハルヴァイトに「失望」されてここを去る。今までがそうだったのだから、きっとそうなる。みんな…そうだった。最初は同情めいた顔でミナミの「病」を理解していると言い、結局、同じ屋根の下で当たり前に生活する綺麗な青年に、欲情するのだ。

 だから、冷たくし続けたい。

 拒絶しなければならない。

 という、脅迫観念。

「…ミナミ……」

 しかし、ハルヴァイトはそれを…許さない。

 静かに呼び止められて、ミナミは背筋を凍らせた。

「キスしていいですか?」

「…よくねぇ……」

「わたしには、それしか許されていないのに?」

 ソファに座ったまま、ハルヴァイトはじっとミナミの背中を見つめている。

「それ以上を望む気持ちもないのに?」

 不透明な鉛色の瞳で、彼は「恋人」に問い掛けた。

「わたしは、側に居るだけであなたを傷つけるんですか?」

 ミナミは振り返り、ソファまで戻った。

 無意識、又は衝動的に身を屈め、ソファの背凭れを掴んでハルヴァイトの唇にくちづけを落とす。瞬間、彼が膝の上で組んでいた手を握り締めたのには気付かず、ミナミは合わせたばかりの唇を微かに浮かせて、閉じていた瞼を持ち上げた。

 鼻先が触れそうで触れない距離。これ以上は近づけない、苛々するような遠さ。

 その、限りなく残酷な間柄を保ったまま、ミナミは囁く。

「……その、アンタの眼が……、もっと近くで見られたらいい、と…、思ったんだよ………」

 ほんの数センチ、という近距離で見つめあったハルヴァイトとミナミ。毅然とした彫像のように身動ぎしないハルヴァイトは、本当に、機械仕掛けに見えた。

 そのひとは、刃で出来ているという。触れたら、傷ついてしまうという。…しかしミナミは、そのひとに…触れない…。

「だから、キスだけならいいって…………。それなら、もっと近くで…、その…………」

「…………では、キスなら…」

 殆ど聞き取れないほど微かな声で問うたハルヴァイトの間近で、薄い金色の睫がゆっくりと閉じられる。

「…アンタなら…………、…恐くなかった…」

「なぜ?」

「………………機械が…動いてるんだと思っ…」

 吐息のような告白のお終いを待たず、ハルヴァイトがミナミにくちづけを押し付ける。

 触れることの許された唇だけに触れ、すぐに離し、ハルヴァイトは微かな笑みでこう、囁いた。

「ミナミ…、わたしはあなたを、傷つけたくない…」

 でも、いつか傷つけたくなってしまうのかもしれない、と続く言葉を飲み込んだハルヴァイトからゆっくり離れながら、ミナミはあの静謐な観察者の瞳で胡乱に彼を見つめた。

「…………俺は…」

2002/06/22(2002/07/30:2005/12/16訂正) sampo

  

   
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