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    3.まるでそぼ降る雨のよに    
       
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 何かあったりなかったり。

 それでも時間というのは無情にも、非情にも、もしかしたら情け深くも、誰にも同じに過ぎて行くものなのだ、などと哲学的に捉えつつ、ミナミ・アイリーはキッチンのテーブルに片肘を突いて、深い溜め息を吐き出した。

 派手に毛先の跳ね上がった見事な金髪と、いつも少し物憂げなダークブルーの双眸に彩られた、誰でもが「綺麗」と手放しで称する青年。心因性の極度接触恐怖症、というややこしい「病」を抱えたミナミを実質的に「養って」くれているのは、ファイラン浮遊都市王都警備軍電脳魔導師隊第七小隊隊長の、ハルヴァイト・ガリューという男…。

「…………なんだよなぁ…」

 光沢のある鋼色の髪は肩まで。透明度ゼロの鉛色の瞳は硬質な印象。顔の造りが整い過ぎているくらいの、とびきりの二枚目。

 ふたりの関係を的確に表現するならば、一般に認識されている「恋人」というのは間違っているのかもしれない。確かに、公衆の面前で、軽く、ではあるがくちづけを交わす程度の仲、とは言えるが、そこに至るまでが不明瞭で、継続されている理由は複雑だ。

 恋愛関係にあれば「恋人」か? 答えは? では恋愛関係とは何? 一緒に暮らして生活を共にし、喜びや苦難を分かち合う者同士を言うのか? それに、甘い愛の囁きとくちづけと狂乱の肉体関係などあったら、完璧?

 では、どれにも当てはまらない他人同士は、なんと呼べばいい?

「…はぁ………」

 という事を考えているかどうかはさて置き、ミナミは珍しく、悩んでいた。

 元々、あまり表情に変化のある方ではないし、例えば何か内情的な変化があったとしても、なぜか、ミナミはそれをハルヴァイトに知られるのを嫌がった。嫌がる、という明白な意思を持っているかどうかそれもよく判らないが、とにかくミナミは、ハルヴァイトの前ではいつも同じように素っ気無く、適当に冷たく振る舞っているのだ。

 だからこういう風に、眉間に皺を寄せて溜め息を吐いている、などは、非常に珍しい。

「まいったな…」

「………………あの…」

「…何?」

 ぺしゃ、とキッチンのテーブルに突っ伏したまま、ミナミはリビング方向から遠慮がちに掛けられた声に、いかにも素っ気無く答えた。が、顔を上げる気配はない。

「何か、お困りなんですか?」

「…ちょっとな…」

「うーん。では、こうしたらどうです?」

 なんとなくこの提案内容が予想出来、でも一応聞いてやろう、などと柄にもなく当たり前の事を考えてしまったミナミは、うっそりと顔を上げ、キッチンとリビングを隔てるカウンターの支柱に凭れかかって腕を組んでいる…恋人…を睨んだ。

 なんでもない、どうでもいいような薄手の黒いセーターに、チャコールグレーのふつーのスラックスに、裸足…。これが本当にファイランで一番か二番に恐れられている電脳魔導師なのか? と疑いたくなるほど穏やかな笑みを口元に載せたまま、ハルヴァイトは小首を傾げた。

「わたしに相談してみたり、とか」

「出来りゃとっくにしてんだろ。アンタほんっと、時々びっくりするぐらい鈍いよな」

 と普通なら言うところ、ミナミは胡乱にハルヴァイトの顔を見つめただけで、何も言い返さなかった。

 俄かに、ハルヴァイトが青ざめる。

「具合でも悪いんですか、もしかして!」

「…、俺の健康は突っ込みに比例してるってのか、おい…」

「………違います…か?」

 本気で心配そうに覗き込んでくる鉛色の瞳から視線を逸らし、ミナミは「違うだろ…多分」と、かなり自分でも自信のない返答をした。

「じゃぁ、………ドレイクかアリスにでも来てもらいましょう」

 再度溜め息を吐いてぷいっと顔を背けたミナミに、ハルヴァイトは少し迷ってからそう言ってみた。

 ミナミは、ハルヴァイトには意図的に冷たくしている。あまり本当の事も話したがらない。ファイラン浮遊都市では非常に人口比率の少ない「女性」、ミル=リー・アイゼンが、ハルヴァイトの子供を産みたい、といった内容の手紙をよこした騒動の時分などは、ミナミが彼女に直接会い話し合った上で諦めて貰ったらしいのだが、ハルヴァイト自身はそれを全く知らなかった程だ。

 嫌われている訳ではないだろう、とドレイクは笑ってハルヴァイトに言った。アリスもそれには大いに賛成した。

 阻害されていると思った事はない。ただ…、こんな時、ミナミが何か考え込んでいる時に、一番役に立たないのは自分だと、痛感したのは事実だ。

 答えないミナミから視線を外し、ハルヴァイトはキッチンからリビングに戻ろうとした。

「いや…、いいよ。………アンタに話すのが一番適当だと思うし…。それに、こんな事ミラキ卿かアリスに言ったら、笑い飛ばされるか怒られるか、どっちかしかねぇって…」

 その程度の悩みの割にはミナミの顔つきが深刻そうなのに、ハルヴァイトが首を傾げる。

「目先の問題として、とりあえず…、珈琲豆を切らした」

「……………それは…」

 あまりにもくそ真面目なミナミの言い方に、しかし、ハルヴァイトは笑えなかった。

「困りましたね」

「…アンタがな」

 ハルヴァイト・ガリューというひとは、口に入るものに対してとやかく文句をいうタイプではない。下手をすれば、とりあえず死なない程度に栄養を補給して置ければいいとさえ思っているかもしれないし、まず、自力で料理の出来るようなひとでもない。がしかし、なぜか、面倒臭がりで生活能力皆無軍人(とはミナミがよくハルヴァイトに言うのだが)なのにも関わらず、珈琲だけは豆から挽いて丁寧にドリップし、時間をかけて淹れるところから楽しむのだ。

 ミナミも、実はこの珈琲をいたく気に入っていた。

 キッチンの椅子にちょこんと座り、他愛もない話をしながらコーヒーを淹れるハルヴァイトの手元を見て、なんとなく時間を過ごすのが、好きだった。

 とはいえ…。

「でも、買いに行けば済むでしょう? 普段もわたしが自分で買いに行くんですから、今更そんな…、あなたが難しい顔で悩むほどの事ではないと思いますけど」

「だから、目下の問題つったろ」

 溜め息。それが別にハルヴァイトに対してで無い事を、彼は知っている。

「……俺、一緒に行ったらだめかな…」

「……………………」

 ダイニングテーブルの端っこをぎゅっと掴んでハルヴァイトを見上げてくるミナミの、微かに不安げなダークブルーの瞳。それから目を離さず、許されるなら抱き着いてしまいたい衝動をどうしてくれようかと内心はらはらしつつ、ハルヴァイトは気合で微笑んだ。

「だめだなんてそんな事…、絶対にありませんよ」

 その笑顔に、ミナミが背筋を凍らせる。

(………やべぇ…。本気で喜んでるよ…)

 そして、続きを言い出すためにミナミはまた数分間悩み通してから、決死の覚悟で、口を開いた。

「ついでに、寄りてぇトコが…あんだけど……」

  

   
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