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    3.まるでそぼ降る雨のよに    
       
(2)

  

「…? 書店ですか?」

「一三三番通りの、デカいのがあんだろ? あそこ」

「はぁ…」

 一三三番通りが特別に遠い訳ではない。それよりも、ハルヴァイトが珈琲豆を仕入れに行く店の方が遠いくらいだし、ミナミの言う「書店」は大通りに面しているから、迷う事もない。

 場所をリビングに移して、珈琲が切れているから(仕方なく)ミナミの淹れた紅茶を前に、やっぱり、ハルヴァイトは難しい顔で黙り込んでいた。

 ミナミに言わせれば、これは予想通りの反応だった。何せ、複雑な事情が絡み合った結果、ハルヴァイト・ガリューというひとは、とにかく「ミナミに甘い」のだから。

「あのですね…」

 暫く何かを考えてから、ハルヴァイトが口を開く。と、それを待ってました、とばかりにミナミは、わざと面倒そうな顔を作って、溜め息を吐いた。

「先言っといていい?」

「何をです?」

「アンタ、俺が今までどうやって生きて来たか、とか、考えた事ねぇだろ」

「………それは…」

「ねぇよな」

 実は、ミナミが思っているほどハルヴァイトはその事実を無視していなかった。ふたりが出会って、約半年。その半年の間はいいとして、それ以前、ミナミが「心因性の極度接触恐怖症」と診断されてからハルヴァイトに再会するまで、実に四年半もの月日が流れているのだ。

 その四年半、ミナミが100%自力だけで生活していた、などと、ハルヴァイトは思っていない。

 しかし。

 ハルヴァイトはミナミに今まで一度も、四年半の間どうやって暮らしていたのか、と……、訊ねた事はない。

「…ないというか……」

「ねぇって仮定で次言っていい?」

「どうぞ…」

 今まで彼がどんなひとの世話になっていたのか、なぜ、そこから出て来なければならなかったのか、気になる。と言い出せないハルヴァイトは、真顔で小首を傾げたミナミに苦笑いを返した。

「確かに、部屋から出らんねぇ日もあったけどな…。結局「心因性」な訳だし、今日はダメだ、とか思っちゃったら、その日はお終い。だけどそれ以外は、つまり普通に生活出来てた」

「出来てた」という言い回しが気になったのか、ハルヴァイトが微かに眉を寄せる。

「今より我慢してたし…、いろいろ。それでなんとか、かなりギリギリんときもあったけど、なんとかやってた」

 ミナミは何を言いたいのだろう、とハルヴァイトが腕を組んで眉間に皺を刻んだ途端、ダークブルーの瞳で恋人の顔を覗き込んだミナミが、いつものぶっきらぼうさで言い放った。

「つまりさ、アンタ過保護過ぎ」

 思わず、ハルヴァイトが黙り込む。

「つうか、そういうとこミラキ卿そっくり」

「……ドレイクほど酷くはないんじゃないかと…」

「善良な市民に危害加えない分、ミラキ卿の方がマシじゃねぇ?」

「………善良な市民に危害を加えた憶えは…、ないですけど…」

 引きつった笑顔で言い募るハルヴァイトに向って、ミナミは、ちょっと底意地の悪い笑みで切り返した。

「まだ、だろ?」

「う…」

 いつだったかの台詞を思い出し、ハルヴァイトは今度こそ返答に困った。何せ彼は「今後そんな事をしない保証は出来ない」といった内容を、きっぱりとミナミに言っているのだ。まさか今更あれは嘘でした、とも言えないだろう。

 思いがけなくミナミに吹っ掛けられたハルヴァイトが、言い返す題材に詰まる。

 沈黙。

 ミナミは、ゆっくりと冷め始めた紅茶を口に運びつつ…不意に俯いて…。

「ぷ。………なーんて、な」

 吹き出した。

「は?」

 肩を震わせてくすくす笑い始めたミナミを、きょと、と見つめたハルヴァイトが、気の抜けた声を上げる。

 ミナミは、判っていたのだ。

 ファイランで「書店」というのは、つまり「趣味の書籍」を扱っているマニア向けの店であり、通常「本」というのは、「ネット・ブックス」からデータをダウンロードして、所有の書籍型端末で読むものである。ファイランに代表される浮遊都市では、紙というのも貴重な資源である事に他ならないので、そう易々と「書籍」は手に入らない。しかしいつの世もマニア、またはコレクターという人種は脈々と生き残っており、「書店」はそういった人たちの交流の場でもある。

…結果。さして広くない店内に本棚と喫茶スペースがあり、いつでも、知識欲に取りつかれた変人どもで溢れ返っている。というのが、書店。

…更に、結果。ミナミがそんな、狭苦しく暑苦しく、人の溢れ返った場所に耐えられる訳がない。

「一三三番通りの書店…、アンタ行った事ないんだ」

 口元に薄笑みを貼り付けたまま、ミナミがあの観察する者の瞳でハルヴァイトを上目遣いに見上げた。

「用事がないので…。あなたは、あるんですか?」

「………前にそこの倉庫で、本分別するバイトしてた事あんだよ」

 ハルヴァイトは、ソファの背凭れに身体を預けたミナミを凝視したまま、ちょっと驚いた顔をした。四年半も探していて、そんな目と鼻の先にいたのに気付かなかったなんて、という表情を、ミナミが苦笑いで流す。

「二階から四階までは確かに「書店」なんだけど、一階のエントランスに窓口があって、時々、「王立図書館」の臨時閲覧権とか、売ってるんだよな」

「………王立図書館?」

 これまた意外そうな顔で呟いたハルヴァイトに、ミナミは素っ気無く頷いて見せた。

 王立図書館。そこには、現在ファイラン王室の…つまりこの浮遊都市の所有する「書籍」と名の付く殆どの「原盤」が所蔵されている。先にも述べた「ネット・ブックス」というのはこの王立図書館から配布されているデータを買い取り、市民に公開しているに過ぎない。

 当然、図書館にはそれ自体に窓口もある。利用するにはまず市民コードを登録し、専用のダウンロード領域をデータサーバー上に確保して、容量に応じた使用料金を支払う。後は、通知されてくるパスワードと市民コードを使ってサーバーにアクセス、公開されている蔵書から好きなものを選び出し、ダウンロードして読めばいい。

 ちなみにこのアクセス権は、ファイラン市民の実に半数が所有していると統計されている。使用しているか否かはさて置き、市民コードを登録する所までは無料サービスなのだ、ダウンロード領域を確保しない限り使用料金を請求される事はないから、とりあえず登録だけしておく、という市民も少なくない。

 王立図書館の管理責任者は、意外にも王自身だった。莫大な蔵書のジャンルは多岐に渡り、中には、とんでもなく重要な書物もある。そういった書物を解析、市民へ公開か、非公開か、解読研究対象として文献研究所に送るか、はたまた人目に付かないよう隠しおおせるか、些細な事に聞こえるが、娯楽の少ない閉鎖空間で数万単位の人間が暮らすためには、そういう些細な情報も上手く捌かなければ、すぐ都市がダメになってしまい兼ねないのだから。

「王立図書館の閲覧権なら………わたしも持ってますよ?」

「それ…持ってなかったらおかしいだろ…。アンタ、軍人なんだしさ」

 呆れて言ったミナミの顔を見つめたまま、ハルヴァイトは思わず言いそうになった次の台詞を…、飲み込んだ。

 閲覧権…アクセス権には幾つかの階級がある。一般市民が買い取れるのは、一号閲覧権。まぁ、あまり重要機密扱いでない一般図書を見られる普通の権利だと思えばいい。それから、軍属、研究者などには、二号閲覧権というのが配布されている。これはもうちょっと突っ込んだ一部の専門文書にまでアクセス出来る権限で、取得を義務付けられている。

 それから、王室関係者、貴族院に登録した政治家、電脳魔導師は、三号閲覧権の取得権利がある。こちらは、もっと重要機密を含むデータを閲覧出来る権利だった。

 そして問題の、ハルヴァイトだが…。

 彼が所有している王立図書館の閲覧権は、特令付き無制限持ち出し許可、という。

 まず、ハルヴァイトの部屋を、…ミナミも入った事のないあの場所を思い出して欲しい。そこには、浮遊都市警護の要である電脳魔導師だけが使い、読み解く事の出来る「魔導書」「禁書」の類がごろごろしていたではないか。しかも無雑作に、床に積み上げられて。

 詳細は、なんだか馬鹿らしいので省く。ただひとつ言える事は、王立図書館で埃を被り、今後解読出来る電脳魔導師など出ないかもしれない、と言われた、実に数千冊の「魔導書」「禁書」…というプログラムと構築理論、臨界の情報をぎっしりつめたデータベース(書籍)の半分以上は、タイトルさえも判らないのだ。…ハルヴァイト以外の人間には…。

 電脳魔導師は、書物を「読まない」。解析陣というプログラムで書籍の形をとったそれにアクセスし、内容を理解する。となると当然、能力に過ぎた書物は接触者を拒否してくる。

 過去最強と言われた数代前の電脳魔導師隊大隊長は、所蔵されていたうち約半数の書籍を解読し、翻訳し、後世に残した。ハルヴァイトはそして、残った書籍の半分以上を読めると…言われている。

 それについて、本人は何も言わず、ただ笑っているだけなのだが…。

「でな…、って、俺の話聞いてんの?」

 黙り込んだハルヴァイトの顔を覗き込み、ミナミが首を傾げた。

「あ…。はい、聞いてますよ」

「その、臨時閲覧権を買いてぇんだけど」

「…それは構いませんが、住所もここに移して住民登録したんですから、ちゃんとした閲覧権を買えばいいんじゃないですか? ミナミは未成年ですが、わたしの証明さえあれば…」

「保護者欄にアンタの名前、ってのは、ぞっとすんだろ…」

 と言ってわざとらしく溜め息を吐いて見せたミナミを、ハルヴァイトが笑う。

「わたしがダメなら、ドレイクでもいいですよ。ミラキ卿なら誰も文句は言いませんしね」

「残念だけど、ミラキ卿でもアンタでも、保護者欄に名前あったって買えねぇよ」

「? なぜです?」

 それを忘れているのか、と思って一瞬顔を顰め、ミナミははっと気がついた。

「……知らないのか、アンタ…でも」

 半ば呆然とした呟きに、ハルヴァイトが不思議そうな顔で「何をですか?」と問い掛けると、ミナミは、短い溜め息を吐いて、俯いた。

 毛先の跳ね上がった金髪が、微かに震える。

「俺、犯罪被害者…だけど」

「…………………」

「市民コードの取得拒否されてんだ。確か今も申請中で、連絡先も一応ここに…勝手で悪ぃんだけど…させて貰った。けど、まるで反応ねぇし、多分、今後もダメじゃねぇか」

 長い睫を伏せ、それから微かに口元を引き上げて瞼を上げ、ミナミは改めてハルヴァイトを見つめた。

「出生証明が取れてねぇんだよ、俺。遺伝子情報が空白で、検査受けて異状なけりゃ出生証明なしでも交付してくれるって通達あったけど、それ…まず無理だし」

 検査。誰にも触れられずに、遺伝子情報取得検査を受けるのは、無理。

 ミナミ・アイリーという、突然ファイランに現われてしまった、幽霊…。

「まぁ、王立図書館の閲覧権取得以外で、困った事ねぇけどな」

 多分それは、ミナミがハルヴァイトに対して言えた、精一杯の強がり…だったのかもしれない

  

   
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