■ 前に戻る   ■ また次回お逢いしましょう。

      
   
    4.5スイート=スイート・ルーム    
       
(ルームナンバー1008)

  

 ミナミが部屋に戻った時ハルヴァイトは、ラウンドした建物の囲む人工庭園が見える窓際のカウチに腰を下ろし、俯いてうたた寝していた。

 頭痛がする、と今さっきまでは青い顔をしていたのだが、どうやらそれも収まったらしく、気分が悪そうには見えない。

 なんとなくその足元に腰を下ろし、低いテーブルの上に置かれたグラスを取って冷たい水を喉に流し込み…、ミナミは思いきり咽た。

「って…なんだよ、こりゃぁ」

「……ウォッカですよ。アルコール度の高い蒸留酒です」

「…………アンタ、いっつもこんなの飲んでんの?」

 涙目でしきりに咳き込んでいたミナミが、声を殺して笑っているハルヴァイトをじろりと睨んだ。

「えぇ、まぁ…」

 そういえば家のストッカーにも、食前酒のワインと、ミナミが飲めるように、と最近買い置かれているライム・コンクの他は、ジンだとかのいわゆるアルコール度の高い蒸留酒ばかりだった、と今更ながら思い出したミナミが、ふと口元に意地の悪い薄笑みを載せた。

「アンタあれだ、ハイブリッド燃料で動いてんだ」

 それに大ウケしつつミナミがテーブルに戻したグラスを取って唇を寄せたハルヴァイトをじっと見上げていたダークブルーの双眸が、一瞬、戸惑うように揺らめく。

 もしかして、眠れないのだろうか? と、心を掠める杞憂。

「飲み過ぎは身体に悪ぃだろ」

「気をつけます」

 はいはい、とやる気なく答えたハルヴァイトの横顔からぷいっと視線を逸らし、ミナミが小さく溜め息を吐いた。

 知っているようで知らない事が多過ぎる。ウォルのおかげでディアボロに「逢う」事は叶ったが、結局、ミナミはハルヴァイトの見た目しか知り得ていないのだ、と思って、少し憂鬱になった。

 あれこれ探りたいのではない。だからといって、どうしたいのか判らないけれど。

「これでも随分マシになったんですけどね、ここ数年は。もっと以前は、精神安定剤か睡眠薬か…もっと体の悪い怪しげな薬を、食事の変わりに飲んでるとまで言われてましたから」

「……それって…」

「電脳魔導師にまともな精神状態の人間なんていませんよ。特にわたしは、発現がかなり遅くて、能力値の上昇率が異常に高かったので、下手をすると四六時中脳内で勝手にプログラムが稼動してましたし」

「今も?」

「いいえ。今は随分落ち着きましたよ。ブロックしてた頃が一番酷かったかな」

「……」

 あっさりと言われたものの、ミナミはハルヴァイトの顔を凝視したまま凝り固まってしまった。

「特別な事ではないですけどね。ドレイクだって大隊長だって、魔導師なら誰でも経験してますし。そこで狂えば「臨界に呑まれた」と哀れまれるだけ。なんとか乗り切れば電脳魔導師隊に編成されて、それなりの地位が約束されるだけ。と、その程度の違いです」

「神経細けりゃ終わり、図太けりゃ出世、って感じ?」

「そんなものですね」

「じゃぁ、アンタは相当神経丈夫だったんだな」

 くすくす笑いながら背中を丸めたミナミを優しげに見下ろす、鉛色の瞳。

「その通りです」

 注がれる視線に気付いて顔を上げ、ふとミナミは笑うのをやめた。

「訊いていい?」

 答える代わりに小首を傾げたハルヴァイトから目を逸らさず、ミナミは立ち上がってカウチの片隅に腰を下ろそうとした。と、それまでかなりだらしなくくつろいでいたハルヴァイトがきちんと座り直し、なんとかふたりはどこも触れ合わない距離を保って、ソファよりやや小さめのカウチに収まる。

「アンタが…王下医療院で俺を最初に見た時って、その…サイアクに「酷い」頃、って事になんの?」

「最悪、ではなかったですよ。どちらかといえば、それまで脳に溜まっていた余計な物が全部吐き出されて、やけにすっきりしてたと思います」

「ディアボロが暴れた後だから?」

「…押さえつけられて怒っていたのは、ディアボロでしたからね。でもそのストレスがなくなって、それまで自分が必死になってディアボロを抑えていた事が間違いだったのかもしれないと思って、どうせならもっと早く狂っておけばよかったと…」

 死んでおけばよかった。

「冷静でした。毎日窓の外を眺めて、少しずつ指先から身体が溶けて無くなる幻に憧れて、本当にそうなればいいのに、と何もかも嫌になって…。そんな時に、あなたを見かけたんです」

 問われるまま淡々と話すハルヴァイトがテーブルに置いたグラス。その表面を流れ落ちる雫を見つめたまま、ミナミが微かに目を眇める。

「? なんですか?」

「……なんでもねぇ」

 ミナミは、あの時の自分を救ってくれた医療院の医師に、あそこを逃げ出してから始めて感謝した。少しだけ、だけれど。

「アンタとまともにこんな話しすんの、久しぶりだよな」

 わざと話題を変えたミナミに、ハルヴァイトが「何か飲みますか?」と問いかける。

「燃料じゃねぇのがいい」

「燃えない程度ですね」

「…ウォッカって燃えんのかよ…」

「? 燃えますよ。やってみましょうか?」

 言って微笑んだハルヴァイトの頭上で、荷電粒子が燐光を放ちながら爆裂した。

「やんなって…」

 笑いながらストッカーに向い、スパークリング・ワインらしい小瓶とグラスを持って戻って来たハルヴァイトが、それをテーブルに置いてまた踵を返す。勝手に封を切ってグラスに淡いピンクの液体を注ぐミナミの傍に帰って来た時、ハルヴァイトは、半分しか中身の残っていないウォッカの瓶を手にしていた。

「つうか、いつの間にそんなに減らしたよ…アンタは」

「さぁ」

 もしかして物凄く強いのか、それとも本当に燃料なのか? と訝しそうに眉を寄せたミナミを笑ってから、ハルヴァイトは元の場所に座った。

「……ミナミには、まだたくさん話さなければならない事が残ってます」

「いいよ、急いでねぇし」

「ウォルの事、少しは驚きました?」

「マジびっくりした」

 相変わらず判り難い驚きを苦笑いで表現し、ミナミが背の高いグラスに唇を寄せる。片膝を抱え込み、その上に肘を乗せてグラスを手にしたミナミの横顔を見つめたまま、ハルヴァイトはゆっくり話し始めた。

「ウォルとわたしとドレイクとアリスは、同じ小隊に所属してたんです。わたしたちはまさかウォルが次期国王だなんて知りませんでしたが、幼い頃から王太子に輿入れの決まっていたアリスは当然知ってましたし、口止めされていたんですよ。王室に輿入れする、というので、貴族式の生活に慣れるためアリスは子供の頃からミラキ家に部屋を与えられて生活してたんですが、城に閉じ込められてしまう前にどうしても軍に入って、外の様子を知っておきたい、という本人の希望に家族は難色を示したんですけどね、あの通りなので、ドレイクが…自分が責任を持って面倒を見る、半年でいいから好きなようにやらせてやれ、と言ったらしくて」

 とそこで苦笑いしたハルヴァイトに、ミナミもささやかな笑みを返した。

「そこでも余計な事したって訳か、ミラキ卿は」

「まさか、そのアリスを追って身分を詐称した王太子が編成してくるなんて誰も思ってませんからね。確かに輿入れは決まっていたものの、アリスとウォル本人同士は面識があまりなかったらしく、この機会に親交を深めさせようという狙いもあったようです」

「…その頃アンタは? もう…」

「えぇ。わたしもミラキの系統だというのが判ってましたよ。それで…万一アリスに何かあったら大変だから、というので同時に編成されたんです」

「アリスを擁護するつもりが、陛下まで付いてきた訳?」

「おまけですね、完全に」

「…聞いたら怒りそうだな、ウォル」

 声を上げて笑う訳ではないものの、ミナミは口元に薄っすらと笑みを載せ、長い睫を閉じた。

「そこでわたしたちは始めて顔を合わせ、いつの間にか…」

「先に本気になったのって、ウォルなんだろ?」

 確信的な囁きに、ハルヴァイトがミナミの横顔を窺う。

「そうです。編成されて半年も経たないうちにウォルは休暇日に自宅へ帰らなくなり、ミラキの家に入り浸るようになってしまって、ついに、某所からアリスに緊急連絡が入って、ドレイクとわたしが揃って大隊長に呼び出されるハメになったんですよ」

 苦笑いのハルヴァイトが、ボトルに残っていた透明な液体をグラスに移す。

「それ、いまいち訳判んねぇな」

「ウォルが自分でアリスに、好きな人が出来た、どうすればいい? って…先に相談を持ち掛けてたんです」

 呆れたハルヴァイトの呟き。ミナミは飲み掛けのスパークリング・ワインを吹き出しそうになって、慌ててグラスをテーブルに置いた。

「……そうなんだけど、そうじゃねぇだろ…」

 なんとか薄紅の液体を嚥下したミナミが、笑いを堪えた声で言いつつ溜め息を吐く。

「全くですよ。片や、ウォルを除名して城に帰還させさっさと即位させろと言って来る。なのに本人はよりによって婚約者にそんな相談を持ち掛けるし、ドレイクと別れる気もない。アリスはアリスで、自分に望まれているのは王の子供を産む事であって円満な家庭を築く事じゃないから、別にウォルとドレイクが関係を続けていても気にならない、と言い出すし…」

 なんとなく、頭を抱えて唸るグランとローエンス、もしかしたらクラバインもそこに居たかもしれない、と想像してしまって、ミナミは喉の奥でくすくす笑った。

「そりゃ大変だな」

「……大変ですよ…、その協議の真っ最中、ディアボロの暴走騒ぎを起こした不祥の弟のために、ドレイクは貴族院の半分を敵に回してしまったんですからね」

「………………」

 それで、ミナミが思わずハルヴァイトに顔を向ける。

「わたしは入院中で詳しい事を知らないんですが、結局ドレイクは議事開催中の貴族院議会に乗り込んでわたしの出自を証拠付きで証明し、一部の上層階級が家名保持のためだけに不当なプログラムでディアボロを束縛していたのが暴走の原因、と見事な演説を打ったそうです。それで極秘扱いになっていたわたしとドレイクの関係はある程度公然の秘密になり、非難されてこき下ろされた貴族院の一部が、ミラキ家の不始末がそもそもの原因だとドレイクを糾弾、それを諌めた…というか、黙らせたのが、即位直前で始めて議会に列席した、ウォルだったそうです」

          

「…では、貴様らも身辺には注意するといいよ。叩けば幾らでも埃が出る、というのが貴族の本当の顔だからね。胆に銘じておけ、頭の堅い馬鹿どもめ。子供は親を選べない、なんて生易しい話をするんじゃないよ、僕は。生まれ落ちて名を賜るまで子は親の持ち物かもしれないが、自分の手足で動き出した瞬間から、親と「家名」は子の背中を踏みつけてのさばっているだけの烏合の衆だと思い知れ。僕の発言が不愉快か? では誰か、ドレイク・ミラキとハルヴァイト・ガリュー、今このファイランに生きているふたりに、本当の罪があるというのなら、僕が納得出来るよう説明してくれないかな」

        

「「だから、子も自らの手足で動き始めた瞬間から人としての重責があるというのも、付け足しておく」というのが、ウォルが議会でした最初の演説だったと聞きました」

 今より若く美しい王太子が、並み居る老獪ども相手に堂々と言い放ったのだろう、とミナミにも容易に想像出来る光景。

 そういうひとのはずだった。ただ王に「据わる」のではなく「君臨」する事を…決めたのだから。

「それで事態は急変してしまったんです。大見栄を切った手前ウォルはすぐにも即位しなければならなくなり、そうなれば当然アリスの輿入れも早まる。ドレイクとわたしは少々風当たりが強い。そこで幾つかの細々した問題を片付けている最中に、今度は…ウォルがアリスの輿入れを無かった事にしようと言い出した」

「? なんで?」

 どこをどう通ればそうなるのか判らないミナミが首を傾げると、ハルヴァイトはなぜか小さく頷いた。

「ウォルなりのアリスに対する謝罪だったのではないか、とクラバインは言っています。アリスは女性が子供を産むだけの道具でしかない事に不満を持っていましたが、結局、王室に輿入れする、というのはその最たる例ですからね。でもアリスは子供の頃から一緒に育ったドレイクも、ああ見えて潔いウォルもとても気に入っていましたから、彼女は全てを甘受し、王都民を欺くドレイクとウォルと共犯者でいて、それでいいと」

「…でも、ウォルは納得しなかったんだ…」

「そうです。その頃既にクラバインの家にはマーリィが引き取られていて、アリスは暇さえあればマーリィを連れて出歩いてました。隠蔽されて家の庭さえろくに歩いた事のなかったマーリィは非常によくアリスに懐いてましたよ。それこそ、下手な恋人同士よりも仲良くてね」

「…なんか、順序が違くねぇ? 俺が聞いたのと…」

 確かクラバインがマーリィを引き取って、それでアリスは少女に出会ったと聞いた。と眉を寄せたミナミの顔に視線を据え、ハルヴァイトが…一瞬だけ迷ってからある人物の名を口にする。

「レジーナ・イエイガーという青年が、当時フェロウ家に秘書として住み込んでいたんです。彼は…、衛視でもあり、クラバインの側近で……。そのレジーの兄というのがレルト家の執事をやってまして、不当に扱われているマーリィを憐れだと思ったのでしょうね、レジーを通じてクラバインに彼女を引き取って貰えないか、と言って来たんですよ。丁度、クラバインが衛視に昇格してすぐだったそうです」

「……そのひと…は?」

「すみません。レジーの事は、クラバインのたっての願いであまり話題にしないようになっているんです。ただ、マーリィは彼がとても好きでした。アリスも…」

「…クラバインさんも?」

 ダークブルーの瞳に見つめ返されて、ハルヴァイトが頷く。

「みんな好きでしたよ、とても穏やかな人でしたからね。でも彼は結局、王城エリアから移転させられてしまった。全ては、わたしたちの責任だと思います」

 誰かを傷付けずに自分が幸せになろうと、思うな…。ウォルのメールにあった一行を思い出し、ミナミが微かに表情を曇らせる。

「王室がナヴィ家との婚約関係を解消するのには、何か…王室にとって正当な理由がなければならなかった。まさか当代ミラキ卿と王が恋仲で、一途な王がアリスを振った、とは言えませんからね。自分は王室に入ってもいいと言い張るアリスと、ミラキの家を潰しても構わないから一生独り身でいるというドレイクを黙らせるのにウォルが用意したのが、つまり、マーリィに一目惚れしたアリスが、王を相手に女性の存在の曖昧さを訴え、さっさとウォルを見限ってマーリィという恋人を得フェロウ家に転がり込む、という筋書きで、それでショックを受けたウォルが偏屈な人嫌いになり、公衆の面前に現われなくなって、その後新しい婚約者も取らない、という…」

「かなり都合いい話だな」

「でも、誰でも飛びついてくれる、王室のスキャンダルでしょう?」

「……納得」

 民衆とは、無遠慮な善意の第三者。嘘を本当に変えてしまえる、あり余るパワーを持っているものだ。

「でもそんじゃ、ミラキ家断絶しねぇ?」

「…そこで、わたしです」

「あ…」

 だからか。と納得したミナミの脳裏に閃いた光景は、ミル=リー・アイゼンの件でドレイクと出掛けた時に彼が見せた、困ったような苦笑い。

「だから、ガリュー・ミラキが新興されるって話があったり、ミラキ家根絶してぇヤツがいたりするのか…」

 テーブルに置かれたグラスに手を伸ばし、ミナミは無意識にその表面を指でなぞった。

 ひんやりしていて…つるつるしている、濡れたガラスの、表面…。

「その辺りの情報操作は、全てクラバインが上手くやっているらしいです。行く行くはわたしに電脳魔導師隊を預け、ドレイクは魔導師階級を返上してミラキ家を魔導師の登録から外し、自分は特務室に昇格、陛下の側近として城に居室を与えられる予定だとか」

「………いいんじゃねぇ? 普段回りに迷惑掛けまくってんだから、そういう時だけでも誰かの役に立てよ、アンタ…も」

「断ったんですよ、わたし」

「…………………」

「三年ほど前なんです、その計画が持ち上がったのは。他の事ならなんでもしますが、ガリュー・ミラキを立ち上げる協力だけはしない、ときっぱり」

 指先だけを置いたグラスから目を逸らさないミナミの横顔を真剣な表情で見つめ、ハルヴァイトが言う。

「わたしに必要だったのは、たったひとり、医療院でわたしを救ってくれたひとだけだったので」

「……その状況でよくそんな事言えたな、アンタ。みんな何か…大事なモン犠牲にしてんだろ、その時、もう。なのにアンタだけがき……」

 ゆっくりと首を巡らせ、翳った瞳でハルヴァイトを睨んだミナミが、言いかけた言葉を寸での所で飲み込む。

 ハルヴァイトだけが傷付かないで幸せになろうなんて、ムシが良すぎる。と、ミナミには言えなかった。

 そのひとは…………。

 もっとずっと以前から、もっとずっと長い間、傷付いて来たはずだ。ミナミの知らない場所で。ずっと…。

 不意に黙り込んでしまった青年が何を言いかけたのか判っているのか、ハルヴァイトは微かに口の端を歪めて「そうですね」と短く言い置き、ミナミのほの白い綺麗な顔から目を逸らした。

(そもそも、このひとは…幸せになんてなれねぇんだっけ…)

 端正な横顔に刻まれた薄笑み。それをじっとあの観察者の瞳で見つめたまま、ミナミは力なく心の内で囁く。

(…………俺じゃ、だめなんだから…)

 所詮。と…思った。

「……ウォルって、どんな王様?」

 いつものように口を閉ざし、ミナミが何か言い出すのを待っているハルヴァイトに、青年が短く問いかける。

「暴君ですよ。今日みたいな突拍子もない事を時々しでかして、ドレイクを振り回す。…とばっちりを受ける方は堪ったものじゃないです」

 笑いを噛み殺して呟いたハルヴァイトが、鉛色の瞳を巡らせてミナミを見つめた。

 手を伸ばせば届く距離まで近付いたのに、最後の最後でその手が届かない、恋人。それをハルヴァイトはもどかしいと思わず、ミナミは…。

「わたしもミナミに、ひとつ訊いてもいいですか?」

「何?」

 どう思っているのか、知りたい。

「どうして、ディアボロに触りたいなんて言い出したんです?」

「………」

 言われた途端、ミナミは氷の溶けてしまったグラスを手に取り、中身を飲み干した。

「恐くなかったから」

 少し拗ねたように言い切って、ミナミはカウチから腰を浮かせた。

「……アンタと…似てたし」

「わたし?」

 そう言えば、フィールドでも同じような事を言っていた、とようやく思い出したハルヴァイトが、ミナミにつられて立ち上がる。

「後は別に理由なんてねぇよ。ただ、触りたかっただけ。…触れそうだったし」

 ステーションの常夜灯をきらめかせる窓を背にして佇んだミナミが、何か複雑な表情でハルヴァイトをじっと凝視した。

「………アンタ…」

 薄い唇が囁く。言いあぐねているのか、ミナミはまたも迷うようにそれを閉ざし、長い睫をも、ゆっくりと閉ざした。

 恋人の全身に刻まれた、臨界に燃える青銅色の炎。それがハルヴァイトを燃やし尽くそうとしている、不安。なぜそんなに明白な「不安」だったのか判らないまま、ミナミは、臨界からやって来た使徒たるディアボロに、何を訴えたかったのか。そして頬に触れたミナミに、ディアボロは何を…答えたのか。

「寝相悪ぃ?」

「は?」

 いきなり、ぱち、と瞼を持ち上げたミナミが、いつもの無表情でぶっきらぼうに言い放つ。それをきょとんと見下ろしていたハルヴァイトが何かを思い出してゆっくり寝室のドアに視線を流すと、ミナミが苦笑いで肩を竦める。

「ここって、スィートだろ。だから、アンタが二人寝ても余裕ありそうなダブルベッドが一個しかねぇんだよな。…いや、ホントにアンタが二人も寝たら、実は狭いのかもしんねぇけど」

「寝相…、悪くはないですが、わたしはここのソファでいいですよ」

「疲れてんだろ?」

「寝ないよりはマシでしょう?」

「ばーか。今日くらい、俺の努力を買って「はいそうですか」っつえよ」

 寝室のドアからミナミに顔を向け直したハルヴァイトが、急に、小さく吹き出した。

「ミナミ…」

「…余計な事言ったら、今すぐ部屋追い出すからな…」

 そう呟いたミナミは、耳まで赤くなって俯いている。

 ある程度は決死の覚悟、でもあった。でもそれを迷わなかったミナミの…本人曰く努力…に敬意を表し、ハルヴァイトは艶やかに微笑んで、困ったように視線を足下でさ迷わせている恋人の正面に立ち、ミナミ、ともう一度彼の名を囁いた。

 呼ばれたミナミが、おどおどと顔を上げる。

 先にスパークリング・ワインで冷えた唇に短いキスを落したハルヴァイトが、小さな声で吐息のように呟く。

「では、遠慮なく?」

「……動くなよ、ぜってー…」

 小首を傾げて見せたハルヴァイトに、いきなり、まるで喧嘩でもしているような声で言い放つミナミ。

「…ぜってー動くなよ」

 念入りだな。と内心訝しんだハルヴァイトの唇に、ちょっと背伸びしたミナミが唇で触れる。それはいつものようにささやかで、お互いの体温を感じる暇もなく、すぐに離れて……。離れて……。

 離れなかった。

 ほんのりと果実酒特有の香りがする。触れ合った部分で微かに熱を感じる。体温の存在を知られてしまったら、きっとミナミはまた悲鳴を上げて逃げ出すのだと思っていたハルヴァイトは、思わず閉じていた瞼を上げて、本当にこれ以上ないほど間近でミナミの白い肌とくすんだ金色の睫を見つめた。

 とても、綺麗だと思った。

 唇がゆっくり離れて、短い吐息と一緒に視線を逸らされても、ハルヴァイトは動かない。

「……恥ずかしいから、いつまでもぼけっとしてんじゃねぇ…」

 吐き捨てて、ミナミは寝室に爪先を向けハルヴァイトを躱して行ってしまう。

 それを見送る訳でも追いかける素振りを見せる訳でもなく、さも困った風に洗いざらしていた鋼色の髪を掻き上げてからハルヴァイトは、ゆっくり口元に笑みを刻んだ。

「恥ずかしいから…ね」

2002/07/18(2002/10/22) sampo

  

   
 ■ 前に戻る   ■ また次回お逢いしましょう。