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    4.5スイート=スイート・ルーム    
       
(ルームナンバー1007/スペシャル・ゲスト・ルーム)

  

「なんでお前がここに居るっ!」

 というのが、部屋に飛び込んで来た、ウォラート・ウォルステイン・ファイランW世からいきなり“ウォル”に戻った男の第一声だった。

「なんでって、なんでだろうなぁ」

 既に警備軍のユニフォームを脱いだドレイク・ミラキが、だらしなくソファに座ったまま、勝手に持ち出しテーブルに置いていたバーボンの瓶から目線だけを呆然とするウォルに移して、適当な相づちを打つ。

「第七小隊には、アイリーとマーリィを送って帰れと命令した筈だよ、僕は」

「そのミナミが、今日は疲れたから出来ればここに泊まって行きたいっつったんだから、居残んなきゃしょうがねぇだろ。何せ、陛下直々の命令だしな」

「マーリィは!」

「ステーションのホテル、しかも最上階のスィートにお泊まりだって、大はしゃぎしてたぜ」

 細い眉を吊り上げて喚くウォルに嫌な含み笑いを吐きつけ、ドレイクは大仰に肩を竦めた。

「と、まぁ、俺ぁそいつを報告するよう小隊長から言われて来ただけの部下だけどな。職務も全うしたし、陛下がお忙しければ今すぐ退散しますよ」

 などと言う割には腰を据えたドレイクが、肘掛けに預けた腕で頬杖を突き、にやにやする。

「……忙しいよ…、僕は国王なんだから」

 ドアの前に突っ立ったままマントの合わせを握り締め、俯いてぼそぼそ呟くウォル。それに「へぇ」と素っ気無く言い返したドレイクの何…または全部…が気に入らなかったのか、ウォルはキッと眦をつり上げて、殆ど彼の話を聞いていないようなドレイクを睨んだ。

「僕は忙しいんだ! やっと退屈な晩餐が終わって、意味もなく擦り寄ってくる他の都市代表をようやく躱したのに、今度は夜会に参加しろと言われて…」

「クラバイン」

 煌くような白髪。掻き回して額に落ちかかって来た一房を無雑作に撫で上げ、ドレイク・ミラキという…、まるでこの部屋の主のように堂々とした態度でソファに足を組んだ男は、ドアに背中で張り付いたきり押し黙ったウォルから目を逸らさずに、控えの隣室に待機している衛視長の名を呼んだ。

「何か」

 呼ばれた陛下付きの衛視長も、まるで主人に対するような恭しさでドレイクに答える。それが当たり前でありどこも不自然ではない、というクラバインの一挙一動にウォルは苛立ち、ドレイクはそれが、ファイランという閉鎖都市の全てを欺く重大な秘密の代償として彼に与えられた逃げ出せない地位、なのだと思い知る。

 ファイラン王都民の傅く国王が、唯一傅く男。

 表立たないだけで、現在、王都警備軍最高決定機関第一位は、グラン・ガンでも国王陛下でもなく、この、ドレイク・ミラキだった。

「陛下はどうやら情緒不安定で、気分が優れないようだ。部屋に戻って着替えている最中に目眩を起こしてぶっ倒れた、とでも下心丸出しの中年どもに言っとけ。明日の陛下の予定は?」

「はい、標準時間で午前十時より理事都市会議に出席の予定になっております」

「議事は?」

「簡単な訴訟結果の報告のみと事前資料には記載されておりますが」

「判った。明日の朝、九時になったら「陛下」を呼びに来い」

「承知しました」

 深々と頭を垂れ、淀みない動作で百八十度回り退室して行くクラバイン。それを恨みがましい目つきで見送り、それからもう一度ドレイクを睨み付け、どうしようもなくて、ウォルはマントを止めていた立派な組紐を荒々しく解きながら、着替えを置いた寝室のドアを蹴り開けた。

「お前は!」

 薄暗い寝室を漆黒の瞳で睨み、ウォルが絞り出すように叫ぶ。

「時々、そういう周囲の迷惑を顧みない事を平気でする!」

「今日のウォルほど酷かねぇだろ」

「僕は!」

 外したマントを床に落し、ウォルは天井を仰いだ。

「…ガリューがディアボロをアイリーに見せたくないんだと、そう言ったのはお前だろう? ドレイク…。僕もその意見には大いに賛成だけど、ガリューの対応には不満だったよ」

 ウォルの衣装は、衛視団よりも豪華な生地の黒い長上着に、銀糸の飾りが着いていた。先王はもっと華美な衣装で幅を利かせていたらしいが、それより数倍は中身の美しい(と評判の)現国王には、黒と、銀と、ささやかな縫い取りの赤だけで十分だった。

「ディアボロの何をアイリーに見せたくないのか、僕には理解出来ない。どんなに否定しても拒否しても、結局あれはガリューの命令でだけ動くガリューの一部なのに。臆病に自分のイヤな部分を見せないで居ようとするのはお前たちの勝手で、でも、アイリーはちゃんと僕の招待を受けて今日ここまでやって来た」

「だったら最初から最後まで責任持って、衛視団でも駅まで迎えにやりゃぁよかったろう」

「結果的には、お前が勝手にそうしたじゃないか!」

「俺ぁ衛視団を展覧室に残して、魔導師隊を駅に向かわせろつったんだよ」

「どっちでも一緒だ!」

「…一緒じゃねぇ」

 と、この部分は大方クラバインの差し金なのだろうから言い争うのは不毛だと思ったが、今日のドレイクは少々…よりも相当疲れていて、少なからず…というかかなり気が立っていたので、思わず言い返してしまった。

「俺にゃぁ衛視団への命令権はねぇよ」

「………………じゃぁ、誰かが勝手にやったんだ…」

 不意に肩を落してぽそりと呟いたウォルが、足下に落したマントを拾う。

「いつもそう。気がつけば、いろんな事が勝手に決まって、勝手に僕の命令のふりをして、勝手に都市は増殖し続ける…。僕は「今」を維持するのだけで精一杯なのに、問題は毎日増えて行くばかりだ」

 やっちまった…。とドレイクが正気に戻って反省した時には、ウォルの痩せた背中が暗い寝室に消えて、ばたり、とドアは堅く閉ざされた。

   

   

 クラバインでなくリインを呼び、伝言を頼んで、数分後。

「…………つうかホントにミラキ卿てさ、何もしねぇで大人しく城か屋敷に閉じこもって、余生を過ごすべきじゃねぇ?」

 呆れたセリフと共に登場したミナミが、すっかり濡れて頬に張り付いた金髪をタオルで掻き回しながら、苦笑いのドレイクに肩を竦めて見せる。

「全くだ。あと一回何かしでかしちまったら、本気でそれ考えるさ…」

「じゃぁ、元気でな、ミラキ卿。二度と会えないと思うと、少し残念かも」

「……あっさり別れを告げるなよ、俺に…」

 いつものように無表情なままで恐ろしい事を言うミナミにわざと作った剣呑な顔を向けて、ドレイクはソファに寝転がった。

「なんつうかよ、さすがの俺も疲労困憊だ。本当なら気遣ってやるべきなのに、それも判らねぇ有様で、結局…」

「ウォルが拗ねてんだ」

 タオルを頭に載せ、横たわったドレイクではなくぴったり閉じられた寝室のドアをダークブルーの瞳で見つめたまま、ミナミが感慨なさげに呟く。

「その程度ならマシな方だろうよ」

 ウォルは…、国王という、浮遊都市を安全に航行させる事だけを第一に考えなければならないそのひとは、制約だらけで自由になれない。それを判ってやるのもドレイクの…、そのひとが唯一求めた男の務めであるかもしれないが、人間、判っているのと出来るのは別なのだ。少しの時間、愛を囁くべき限られた時間に、お互いがすれ違っても文句は…言えないのだろうか?

「それで、なんで俺が呼ばれたのかさっぱ判んねぇ」

 短い溜め息、の割にはすたすたと寝室に向いながら、ミナミが吐き出す。

「とりあえず、お礼くらいは言っとくべき?」

「? 礼? なんの?」

 本当にミナミの言った意味が判らなかったのか、ドレイクはしきりに首を傾げながらソファの背凭れを頼りに起き上がった。

「………ディアボロ。俺さ…」

 ノックもせずに勝手に寝室のドアを開けようというのか、ミナミが無造作にノブを掴んで一瞬立ち止まる。

「見たかったんだよな。ディアボロがどんなで、あのひとが……自分を嫌いだつったあのひとが、どんな顔してそのディアボロを動かしてんのか、見てみたかったんだ」

 意外だった。

「で? 実際に見て、どう思った?」

 黒に近い灰色の瞳からひどく複雑な感情を混ぜ込んだ視線が背中に注がれていると知って、なぜかミナミは微かに俯き、淡い紅色の唇に笑みを浮かべた。

「ミラキ卿にもあのひとにも教えねぇ」

 意味深な呟きをドレイクの足元に転がして、ミナミが寝室に入りドアを後ろ手に閉ざす。

「ドレイクとガリューには内緒? じゃぁ、僕には教えてくれるのかい? アイリー」

 国王らしい豪華な衣装から飾り気のない室内着に着替えてベッドに座っていたウォルが、首だけをミナミに向けて溜め息みたいに問いかける。とミナミは、それに相変わらずの無表情を向けたものの、すぐに…柔らかくふわりと微笑んで小首を傾げた。

「……………お前、いつもそういう顔してたら本当に綺麗なのにね」

「出し惜しみしてんじゃねぇけどな」

 言って肩を竦め、ミナミはベッドの端、ウォルから少し離れた場所にちょこんと腰を下ろした。

「まず、陛下の決断に感謝してます。ありがとう」

 で、ウォルの方に顔も向けずぺこりと頭を下げる。

「なんとなく、バカにされてる気がするのは、気のせいかな」

「気のせいだろ」

 足を組んでその上に頬杖を付き、ミナミの横顔を斜めに見ながら口元に笑みを零したウォルがからかうように言うと、ミナミは無表情に即答した。

「ディアボロに「悪魔」なんて名前つけたの、誰?」

 濡れて毛先の寝てしまった金髪を見ながら、ウォルは少し笑いたい気分になった。いつもは派手に跳ねあがっているそれが小さな頭を縁取っている様が、なんだか幼く見えたのだ。

「ガリューじゃないよ。誰だったかな…。最初にディアボロを見た人だと思うけど」

「センスねぇと思わねぇ?」

「微妙だね。悪魔と言われればそうかもしれないと思うけど、何かもっと違う名前で呼ばれたら、それも納得出来そうではあるかな」

「……あれは、ハルヴァイト・ガリューだ」

「………」

 ベッドサイドに置かれたスタンドの灯りひとつ、という薄暗い室内のどこかをじっと見つめるダークブルーの瞳が、妖しげに底光りする。それは観察者の瞳。浮遊都市という狂った閉鎖空間の全てを見透かす、逃れられない、抉り出そうとする、貪欲な輝きを内包している。

「…、俺は好き」

 傍らのウォルでさえ聞き取るのが難しいほど小さく囁いてからミナミは、漆黒の双眸を見開いた男をさも可笑しげな表情で窺った。

「って、判った。だから……、陛下に生涯忠誠を誓ってもいい。例えば、俺がどっか行っちゃっても」

「どこに行く気」

「判んねぇよ。でも、ずっとあのひとの傍にいるなんて夢は、見てねぇ」

「どうしてそれを、僕に言う」

「陛下じゃなくて“ウォル”なら、きっと…、今俺の思ってる事、判ってくれんじゃねぇかと思っただけ」

 ミナミは、少しも表情を揺るがさずにすらすらとそんな事を言う。

 誰でも、自分の「本当」を誰かに話して聞かせるのは照れくさいはずだし、まず、ミナミ・アイリーという青年は、最初に話すべきだろうハルヴァイト・ガリューには、絶対に本心を見せたがらない。なのになぜ、そんな…もしかしたら重大な告白を他の誰でもないウォルにしたのか、告白された本人は大いに戸惑い、告白したはずのミナミは、口元に意味不明の笑いを載せているばかり。

「アイリー…、お前、何がそんなに…不安なの?」

「全部」

 呟くように答えて、ミナミはもう一度ウォル…陛下…に、今日はありがとう、と言い置いて立ちあがった。

「俺、部屋戻るけど、いい?」

「……あぁ。そういえば、ガリューはどうした?」

「さっきまで頭痛がひでぇって唸ってた。今ごろ気ぃ失ってるかもな」

 素っ気無く答えて肩を竦め、ミナミはさっさと寝室を出て行く。それを見送るために自分もリビングに出、一度も振り返らず退室してしまった青年の華奢な背中に掛ける言葉が思い浮かばずに黙り込んだウォルの横顔を、ドレイクは無言で見つめていた。

「……………ドレイク」

 戸惑うように呼びかけられたドレイクが、首を傾げる。

「アイリーがディアボロに「触った」って、本当なの?」

「あぁ、ホント。第七小隊の連中も、エスト卿も、マーリィも見てたぜ」

「…そう」

 囁くように呟いて、ウォルは、そっと赤い唇に笑みを載せた。

 華やかな。

 美しい。

 ―――脆い笑みを。

「全部が無駄だったら僕は拗ねたままドレイクをリビングに残す覚悟が出来たけど、そうじゃなかったみたいだから、…今日はお前の暴言を許してやる。アイリーに感謝しろ、ドレイク」

 そう言うとウォルは、きりっと踵を返しドレイクの腕の中に身体を投げ出してきた。

 きっと、ミナミが本当に「触りたかった」のはハルヴァイトだったのではないかとウォルは思った。脆い青年の抱えた内情を理解してくれているのだろう人たちに囲まれて、だから余計に不安を覚えるミナミが、腕を伸ばし、その指先で触れたかったのは待つことに飽きない恋人で、でも、彼はそれが出来るほどまだ自分の心を整理し切れておらず、だから、ミナミは…。

 不安なのだという。いつかファイランという狂った場所を、それでも、護り通すために誰かを傷付け、自分も傷つき、傍にいて欲しいと切望するひとこそ遠ざけなければならない苛立ちと不安で、時折心が卑屈になるウォルと同じに。

 夢は見ないという。悲しい事だと思う反面、焚きつけられた気もする。

 良いだけの王ではいられない。

 でもせめて、近しい人にはささやかな夢を見て欲しいとも、思う。

 迷っていた事があった。ウォルには。

 それを実行に移せば、最低限…ミナミ・アイリーは傷付くだろうし、もしかしたら、ドレイクもハルヴァイトもウォルを許さないかもしれない。

 でも、ミナミはウォルを怨まないだろう。そう願いたい。と黒い瞳を潤ませて、閉鎖された空間を呪いながらも国王という職務を全うしなければならないファイランW世は、思う。

「誰も傷付けずに自分が幸せになろうなんて幻想を、僕は抱いてない」

 囁いて寂しげに微笑んだウォルの頬に手の甲で触れ、ドレイクは小さく首を横に振った。

「だから、僕が傷付かずに誰かが幸せになれるとも、思ってない」

 いつか全て終わるのか、全てが穏やかに継続されるのか、それは、判らない。

 ウォルは自分の頬に置かれたドレイクの手を握り締め、長い睫を閉じて、微かに微笑んだ。

「…キス、しよう、ドレイク」

「……キスだけか?」

 腕を這わせていた背凭れを押し退け、肩でウォルの痩せた身体をソファに押し付けながら、ドレイクがわざとのように耳元で囁く。

「俺ぁ、ハルほど物分り良くねぇんだけどな…」

 吐息の絡んだ声と唇が耳朶を掠り、ウォルは少しくすぐったそうに身を捩った。

「同感だ。僕はアイリーほど………決定的に傷ついてないしね」

 笑いを含んだ答えには瞼に落とす短いキスだけを返し、ウォルの伸ばした掌が頬を包んだのには、ゆったりした笑みと、回した腕で、国王という重責に耐えるか弱い身体を抱き締める事で答える。

 ウォルは、胡乱に天井を見上げたままドレイクの頬から掌を滑らせて腕を伸ばし、彼の、煌めくような白髪を胸に掻き抱いた。

「それともお前が、僕を決定的に傷付けておくかい?」

 気のない問い掛け。

 どこかに、本気を含んでいるのか…。

 ウォルの腕を掴んでソファに押し付けたドレイクが身を起こし、睫の先が触れ合うほどの距離まで迫って、漆黒の瞳を覗き込む。

「……………それでもおまえが、俺しかねぇって言うんならいくらでも」

 囁きは、吐息に紛れて、透明。

「素直だな…………。珍しい」

「ミナミに感謝しろつったのは、おまえだろ?」

 言ってふたりは最後の囁きを身体の奥底に押し込み、ゆっくり唇を重ねた。

 限りある時間を、引き延ばすように。

  

   
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