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    5ハガネ ノ ヒト    
       
(4)

  

 翌日。

 ハルヴァイトとドレイクは、昼過ぎになっても目を覚まさなかった。

「…水ぶっかけるってのはどうかな……」

「名案ですが、それではお部屋が水浸しになってしまわれるものと…」

 ドレイクを迎えに来たリインと話し合った結果、目が覚めるまでこのまま放置、という事になって二階からリビングへ戻ると、ハルヴァイトがソファの上に身を起こしていた。

「…こっちは無事生きてるみてぇ…」

「……………ミナミ、に…リイン?」

 二日酔い、という程でもないのだろう、しきりに瞬きしながらミナミとリインを確認したハルヴァイトが、なぜリインがいるのか、とでも言いたげに首を傾げる。

「…アンタ、昨日の事、どのくらい憶えてる?」

 微かに笑いたそうなミナミの、ダークブルーの瞳。それをぽかんと見つめたまま、ハルヴァイトは…。

「……………………」

 なぜか、難しい顔で口ごもった。

 朝出掛けたのは憶えている。医務院に行ったのも、憶えている。そこで薬を渡されたのも飲んだのも、憶えている…。

(………マズいな…。その後が極端に曖昧だ…)

 その後の記憶が、所々完全に吹っ飛んでいた。

 城に居る間の記憶は断片的。下城時刻になって通用門から出た辺りはかなり途切れ途切れで、帰り道の途中からは、殆ど真っ白。

「? おい…」

 ふと、そのハルヴァイトのただならぬ気配に、ミナミが声を上げた。それに顔を向け、何か答えなければ、と口を開きかけた刹那、二階から何かが砕けるような物音が聞こえ、リインがぎゅっと眉を寄せる。

「…申し訳ありません、ミナミ様、ハルヴァイト様。旦那様をお連れして、お暇した方がよろしいようです」

 断続的な物音に動じた風なく、リインはそれだけ言って丁寧にお辞儀し、二階へ急ぎ足で上がって行く。それに目で頷いてからハルヴァイトは、ソファに座り直してミナミに手招きした。

「……もしかしてわたしとドレイクは昨日、酒でも呑みました?」

「? …アンタ……、憶えてねぇのかよ」

 促されるままハルヴァイトの傍らに腰を下ろしたミナミが、微かに目を見開く。

「下城する辺りから記憶が曖昧なんです。…昨日処方された薬というのが、アルコールと過度の反応を示すものでしたから、意識があれば無理に飲みませんよ…」

 そう溜め息混じりに吐いてから、ハルヴァイトはソファの背凭れに身体を預けた。

「意識がって…どういう事だよ」

 身体ごと自分に向き直って来たミナミの様子に、ハルヴァイトが首を捻る。相変わらずの無表情なのだが、いつもとはどこか違う気がした。

「…………」

 何か言おうとして、でも何をどう言っていいのか判らず、ハルヴァイトが思わず言葉に詰まる。

「…つまりどういう事なのか、俺に説明し…」

 それまでも、確かに二階から奇妙な音はずっと聞こえていた。しかしそこで、ドレイクに何か…ハルヴァイトには判っていた…があり、リインが様子を見に行ったのだから、と頭からそれを追い出していたミナミも飛び上がるような、一際大きい、何かがどこかに激突したらしい物音の直後、ついに、二階が静まり返る。

「つうか、上、何やってんだ…」

 思わず天井を見上げたミナミの細い首筋と、顎。それをいっとき見つめ、小さく笑いを漏らしたハルヴァイトが、俯いて鋼色の髪を掻き上げた。

「大方ドレイクが背中から床に叩きつけられて、昏倒した音じゃないかと」

「…リインさんが? ミラキ卿…、主人じゃねぇの?」

「暴れるドレイクを黙らせるのも、執事頭の役目だそうで」

 苦笑いのハルヴァイトをミナミは、どこか不安げな顔つきで見つめていた。意識がどうとか、暴れるドレイクがこうとか、そればかりはきちんと訊いて置かなければならない事のような気がする。

 よく考えれば、ミナミはハルヴァイトのそういった事情を、あまりよく知らないのだ。

「………アンタさ…」

 吐息のような囁きに、ハルヴァイトは顔を上げてミナミを見た。ダークブルーの双眸と見つめあい、微かに微笑んで、小首を傾げる。

「ハルヴァイト様」

「……」

「何か?」

 ミナミが何か咎めるように眉を寄せた刹那、リビングの入り口までリインが戻って来ていた。それでふいっと目を逸らしたミナミから視線を外して振り返り、幾つになっても姿勢のいい執事頭を目にして、ハルヴァイトが思わず吹き出しそうになる。

「ハルヴァイト様は…………問題ないのでございましょうか?」

 主語の省かれたセリフが気になったのか、ミナミが目だけをリインに向けた。

「……つうか、リインさん…、平然としてるけどそれってやり過ぎなんじゃねぇ?」

「? 旦那様でしたら、ご心配なく。慣れておりますので」

「どっちが何に慣れてんだよ…」

 意外にも冷静に突っ込んで来たミナミに、リインは見事な笑顔で「わたくしが旦那様を背負うのに、です」と言い放った。

 気を失っているらしいドレイクを、肩に担いだまま…。

「ハルヴァイト様…」

 それでミナミとの会話に終止符を打ち、リインは再度ハルヴァイトに顔を向けた。

「…わたしは大丈夫ですよ。ちゃんと…普通に見えてますから」

 どこかしら呆れた笑みを浮かべてリインに答えたハルヴァイトが、ソファから立ち上がる。

「それでは、ミナミ様。何かございましたら、遠慮なくわたくしをお呼び下さい。…万一のために、ハルヴァイト様とよくお話になりますよう、差し出がましい事とは存じますが、このリインがお勧めいたします」

「…万一って…何?」

 問いかけたミナミに向かって、リインは頷いてこう答えた。

「臨界は、命と神経をすり減らす地獄のような、データの大海ですので」

 そう言われても、ミナミにはさっぱり意味が判らなかった。

           

         

 いつもの無表情、とは少し違う顔つきで「何?」と、ハルヴァイトに問いかけながらも、ミナミはリインの消えたリビングの入り口を凝視していた。

 ドレイクに何があったのか、リインは何を言っていたのか、考えても判らない事を考えながら、ハルヴァイトに答えを求める。

「……だから…………………」

 でもハルヴァイトは答えない。ドレイクに何があったのか、リインが何を言っていたのか、答えはあったが…言おうとしない。

 ミナミの視線がゆっくりと旋回して、傍らのハルヴァイトを見据える。それから短く息を吸い込み、もう一度何かを問いかけようとして、彼は急にそれをやめた。

 思い出した。少し困ったように俯いたハルヴァイトの顔を見つめているうちに、アンの言った、ミナミには「言いたくなかったのではないか」という言葉を。デリラも同意した言葉を。「心配を掛けたくなかったのだろう」と、必死に言い募った少年魔導師の顔と…。

         

 …まったく、役に立たねぇの…

         

 痩せた、背の高い少年。屈託のない笑顔。「好き」という単語。

「………やっぱいいや。…俺には……、関係ねぇ…んだろうし」

 不意にそう関心なく呟いたミナミが、立ち上がった。その横顔は余りにも無表情過ぎて、ハルヴァイトにさえ、刹那で彼に何があったのか判らない。

「でさ、腹減ってるなら何か作るけど、どうする?」

「………お願いしていいですか? わたしは、シャワーを浴びて来ますので」

 ミナミは、彼に続いて立ち上がったハルヴァイトを一度も振り返らなかった。ただ、キッチンに向かいながら素っ気なく、言い放っただけ。

「…アンくんとデリさん、それから、ルイエ・ウインスロウってパブのコが、アンタ運んで来てくれた。後できちんとお礼…」

「? ルイエ・ウインスロウ? …………一〇四丁目の、バルのウエイターですよね? 彼。それがどうして…」

 少し驚いたようなハルヴァイトの呟きに、ミナミは一瞬全身を硬直させた。

「…アンタ、憶えてんの?」

「? ええ。随分そこのバルには通いましたし、彼とは何度か話しもしましたから…。それが、何か?」

 そのハルヴァイトに問いかけたい衝動を無理矢理押さえ込み、ミナミは平然と答える。

「いいや。知ってるなら、今度会ったらお礼言っとけよ、って………それだけ」

 しきりに不思議そうにしながらバスルームへ向かうハルヴァイトを背中で見送り、それから、溜め息一回でなんとか気を取り直し食事の支度を始めたミナミは、しかし、ハルヴァイトが戻って来るまでの短い時間に、なぜか、三度も指を…切った。

  

   
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