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    5ハガネ ノ ヒト    
       
(6)

  

 午後になって天蓋の向こうは薄く曇り始め、気が付けば、分厚いガラスを大粒の雨が叩いていた。夕方よりも重く翳ったファイランにその雨は届かなかったが、ミナミの気持ちは、まるで天蓋の外に放り出されてしまったかのように薄ら寒く、幻の雨粒に全身を晒しているようだった。

 昨日の今日、という言葉がある。

 だから、ミナミは油断していたのかもしれない。

 あり得ない事ではなかったが、まさかこの家にドレイクやアリス、警備軍の部下以外の人間が訊ねて来ると、誰が予想していただろう。

「本当に驚きました。急に店に来てくれなくなって、もしかしたらもう二度とガリューさんには逢えないかと思って、おれ、すっごい寂しかったんですよ」

(…いや、一番驚いたのは俺だって…)

 リビングから聞こえるはしゃいだ声に、ミナミがぼんやりと無言で突っ込む。答えるはずのハルヴァイトも困惑しているのか、それともキッチンに背を向けているからか、ルイエ・ウインスロウの浮ついた独白だけが続く。

「それでなんか…全然仕事に身が入らなくなっちゃって、結局おれ、あの店辞めたんですよ。で、ぷらぷらしてたら知り合いに手伝って貰えないかって言われて、三ヶ月くらい前からあのパブで働き始めたってワケなんです」

 昨晩の少年、ルイエ・ウインスロウが突然ガリュー家を訪ねて来たのは、夕暮れ近く、天蓋の向こうで雨が降り出してすぐだった。ハルヴァイトが食事を終えるのを待って、バスルームの掃除を始めたミナミ。しばらく経っても終わる気配がないのを訝しんだハルヴァイトが小一時間もたっぷり悩み、ようやく意を決してバスルームに顔を出した途端、チャイムが来客を告げたのだ。

 来訪者を見て驚いたのは、ハルヴァイト。全身水浸しでバスルームから顔を覗かせたミナミは、無表情にルイエを観察し、その満面の笑みにげんなりする。

「でも…憶えててくれたなんて嬉しいなぁ。だって昨日は、全然知らないヤツ、みたいな事言ってたじゃないですか」

「……………それは…」

 少年らしい遠慮のない声音に、コンロの前に突っ立っていたミナミが微かに眉を寄せる。

 誰も悪くない。何も悪くない。この家はハルヴァイトの場所であってミナミの場所でなく、だから、誰が訪ねて来てはしゃごうが喚こうが、ミナミには…関係ない。

「勘違いでもしてたんじゃないでしょうか、わたしが」

 苦しい言い訳を苦笑いで吐き出した時だけ、なぜかハルヴァイトの声が鮮明に聞こえて、ミナミはますます眉を寄せた。

 そこでようやく、すっかりお湯が吹いていたのを思い出し、ミナミはコンロのスイッチを切った。鉄製の古くさいポット。始めて見た時はなぜこんな骨董品みたいな物を使っているのかと思ったが、珈琲を煎れるハルヴァイトを見つめているうちに、ミナミはその理由を知った。

 注ぎ口の細くて長いポット。熱い、と笑いながらキッチンミトンを無視して、いつも素手でそれを掴むハルヴァイト。フィルターでドリップする時お湯には注ぎ方のコツがあるのだ、と蘊蓄を語りながら、彼は器用に珈琲を煎れる。

「急に来たら迷惑かもと思ったんですけど、どうしても…やっぱりガリューさんに会って話がしたかったんですよ、おれ。昨日、そっちの人にも来ていいって言われたし、丁度今日は店も休みだし、と思って…」

(来ていいっては言ってねぇし…。…好きにしろつったけど…)

「そっちの人」呼ばわりのミナミには既に突っ込む気力もないのか、黙ってティーサーバーに湯を注いで、茶葉が踊り狂うのを見つめ、ぼんやりとキッチンに佇んでいるだけ。

 こうしていると、思い出す事がある。

 ミナミには「逃げ込む」場所があった。それはハルヴァイトに限らず、今までミナミの面倒を見てくれた誰も知らない、秘密の場所。スラムと一般居住区の際、一五六丁目の古びたアパートメントの一室、立て付けの悪いドアの向こう。

 そこに「逃げ込む」ミナミを迎えてくれるのは、いつでも同じ微笑みを湛えた、紳士がひとり。

 名を呼ばれたら、お茶を煎れる。それだけを繰り返す。いつ出て来てもいい、いつ舞い戻ってもいい。名前さえ訊いた事のない紳士は、決してミナミが出て行った理由も、戻って来た理由も訊ねはしないのだ。

 ただし、彼は言う。

            

『ここは、君が「逃げて」来てもいい場所。しかし、「居て」いい場所ではないよ』

            

 何度あそこに「逃げ込んだ」か、判らない。シュウ・リニエールの時もそうだった。何事もなく平穏に暮らしているようにして、ミナミは時々そこへ舞い戻った。半日か一日いて数回紳士にお茶を出し、やっぱり「帰る」と言って部屋を出る。

 踊る茶葉が落ち着きを取り戻すのと反対に、ルイエのボリュームは上がっていく。

 不意に、その声が途切れた。

 それで一瞬静寂。

 ミナミはティーサーバーに手を伸ばしながら、誰にも聞こえないように囁く…。

「……………一回も戻った事ねぇのって…、…初めてか…」

 誰かと暮らしていて、その場所に逃げ帰った試しがないのは、初めてだった。

「…ミナミ?」

「今、お茶入ったから、これ持ってって…」

 いつの間にかリビングとキッチンを隔てるカウンターの側まで来ていたハルヴァイトに胡乱な瞳を向けたミナミが、薄笑みのまま呟く。それがどこか中身のないもののような気がして小首を傾げたハルヴァイトにふたり分の茶器を示したミナミは、さっさとキッチンから出た。

「? どうかしたんですか?」

 リビングを通らず直接キッチンから廊下に出たミナミを追いかけて、ハルヴァイトが慌てて飛び出して来る。

「…昨日のお礼、食事にでも誘ったら? アンタと話ししたがってるらしいし、俺居たら気ぃ使わせそうだから、ちょっと出掛ける」

「それは…許可出来ません。だいたい…どこへ行くつもりなんです? その…」

 人混みを歩けない、ミナミが。

 ハルヴァイトの肩先を躱わして玄関へ向かいながら、ミナミはついに溜め息を吐いて、俯いた。

「…………ごめん。これだけは本当に…アンタにも……言えねぇ…」

 逃げ込む場所は、あった。

         

   
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