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    5ハガネ ノ ヒト    
       
(7)

  

 それからも、ルイエの話は延々と続いた。

 天蓋の向こうの曇り空がいつしか暗闇になり、雨はまだ分厚いガラスを叩いている。

 ミナミの煎れて行った紅茶は、既に底をついていた。ハルヴァイトのカップには一杯目が半分以上残っていたが、ルイエのカップはとうに空だった。

「紅茶、嫌いなんですか?」

 話し疲れたのか、一息ついたルイエが、ふとハルヴァイトのカップに視線を据えて言い、小首を傾げて微笑む。

「そういえば、お店でもいっつも珈琲でしたよね」

「珈琲の香りが…」

 ミナミが出て行ってから殆ど口を開かなかったハルヴァイトがようやくぽつりと答え、目の前の白磁に指を這わせると、ルイエは嬉しそうに破顔して、えへへ、と恥ずかしそうに肩を寄せた。

「おれ、ガリューさんがカップ持ってる手って、すごいいいなぁ、とか、ずっと思ってたんです。それ…近くで見られて、幸せだな」

 そのルイエの屈託なさに、ハルヴァイトはうんざりした。

 好きとか、嫌いとか、いいとか、幸せとか…。この短時間で何回聴いたのか判らない単語。それにはまるで意味がなく、実感もなく、有り難みの欠片さえもない。

 大安売りのセール品みたいだ、とハルヴァイトは口元に苦い笑みを零す。

「……さっきのひと…、ガリューさんの恋人なんでしょ? 羨ましいですよね。毎日好きな人と一緒に居られて」

 急に拗ねたような口調で小さく呟いたルイエに視線を据え、ハルヴァイトは虚ろに微笑んだ。

「なのに全然優しくなくて、昨日の晩、おれ…ガリューさんがかわいそうになっちゃいました」

「なぜです?」

 即答し、ハルヴァイトは自分の声が不機嫌なのに少し驚く。「かわいそう」などと言われる覚えは、彼になかった。

「だって昨日、酔ったガリューさん玄関先に置いて帰れ、みたいに言われたんですよ、おれ。普通なら部屋に運ぶとか、手伝ってくれてもよさそうっていうか、そうするべきだとおれは思うのに、全然そんな風でもないし。おれなら絶対あんな冷たくなんてしないのに」

 だから? という気分だった。

「冷たくされていると思った事はありません。ミナミにはミナミの事情があって、それで、君の思う「普通」に当てはまれないだけです」

「でも、好きな人にあんな風に言うなんて、傲慢ですよ」

「……………。傲慢なのは、ミナミ以外…、わたしを含めたファイランの国民全部です。もちろん、君もね」

 その言い方があまりにも抑揚なくて、ルイエが背筋を凍らせる。

「みんな救い難い傲慢さで、自分の思う「普通」にミナミを当てはめて、何かを「期待」してばかりいる。わたしもそう。ミナミは誰にも、何も「期待」なんてしないし、いつでも…、自分で全て解決しようと努力しているのに」

 鉛色の瞳で胡乱に中空を見つめたまま、ハルヴァイトは失笑した。

「…でも、そう言うときに助けを求めるのが、恋人じゃないんですか? おれなら…」

 そこで一度言葉を切ったルイエが、固唾を呑んだ。

「おれなら、ガリューさんに助けて欲しいと思う。 好きな人にはなんでも話したいし、判って欲しいし、だって…その……、おれはずっと、ガリューさんの事が好きだったんだから――――――――――――――」

 言って、ルイエは両手を膝の上で握り締め、俯いた。

「昨日は…、すごく大切な恋人、みたいに言ってたから、ここにきてあのひとの顔見たら…すごく綺麗なひとだったから、やっぱ諦めようって思ったけど、全然あのひとはガリューさんの事大切に思ってないみたいだし、そう判ったから、諦められなくて。迷惑だって判って…!」

 必死の形相で言い募るルイエが顔を上げた刹那、ふたりの頭上で真っ白な光が炸裂した。

 バシッ! と甲高い空気の悲鳴に、少年が全身を震わせ怯えた顔で左右を見回す。

「ミナミの事を勝手に決めつけないでください」

 静かに、でも、迷いなく言い切ったハルヴァイトが、ルイエを睨む。

「彼を君がどう思おうと、わたしに冷たくしているように見えようと、わたしは構わない。でも、ミナミは君じゃないんです。ミナミには出来る事が限られている。彼はその中で精一杯…………」

 そこでハルヴァイトは言葉を切った。

 すぐには、言えなかったのだ。

 …それでもミナミは、自分を大切にしてくれているのだ。と…。

 青ざめたまま驚愕の表情で見つめてくるルイエから視線を逃がしたハルヴァイトが、短い溜め息を吐く。

 そう言い出せないのは、自分の責任だと思った。確かにミナミは、いつでもハルヴァイトに何の相談もなしで行動を起こし、彼を振り回す。それに腹を立てた事は一度もなかったが、せめて一言言って欲しかった、と思った事はあった。

 きっとミナミは、あのダークブルーの双眸でハルヴァイト・ガリューさえ観察し尽くしてしまおうとする恋人は、ハルヴァイトが言い出せずにいる数多の不安と秘密を、漠然と感じ取っているのか…。

「臆病なくせにワガママで、ミナミを辛い目に会わせているのは、きっとわたしの方だ」

 消え入るように呟いて、ハルヴァイトは立ち上がった。

「…ミナミを、迎えに行かなければなりません。彼は、ひとりで出歩けないんです。本当はわたしが思うよりずっとしっかりしていて、なんとか今まで生きて来て、こんな風に過保護にするべきではないのでしょうが…、でも、わたしは、ミナミをひとりにしないと約束したので。昨晩は本当にありがとう。申し訳ありませんが、もう帰って貰えませんか」

 言い放ったハルヴァイトが、ルイエの腕を掴んで立たせる。

「…………痛っ! あ…あの…!」

「すいません。わたしは……………救いようもなく自分勝手で嫉妬深い男です、君が思っているよりも。だから、ミナミがわたしの知らない場所に行くというのを、黙って見逃す訳にはいかない」

 一方的に言いながらルイエをひきずって玄関まで突き進み、ハルヴァイトは少年をたたきに放り出した。

「…ごめ……。怒ったならあやまります! あの…! それでもおれ!」

 よろめいてドアに背中でぶつかり、それでも何か諦め切れなかったのか、必死の形相で食い下がるように、ルイエはハルヴァイトの腕に縋り付こうとした。

「君の言葉が理解出来ない。

 羅列されるだけのデータに感情は含まれない。

 言葉という記号を紡ぐ外殻は推定七百六十億電素で構成され、逐次更新と破棄を繰り返している。その内側には不確定要素割合が多分に含まれた、いわゆる「生体関数」が常時超光速処理されており、崩壊と構築速度は計測不能であり、例え電脳魔導師であろうともそれに接触する事は出来ない」

 ハルヴァイトの抑揚のない声がぶつぶつと呟き、ルイエは伸ばし掛けた手を引っ込めた。

「自我を有する疑似脳を臨界に構築、保管しようとする場合、電脳魔導師は一時的に現実の肉体から意識を切り離し臨界に接触して自らの脳構造を複製する。その時臨界に溢れるデータについて未熟な知識しか持ち合わせていなければ、その肉体から切り離された意識は莫大なデータに取り込まれ、初期化された状態で強制返還されてしまう」

 意味不明の言葉を繰り返しながら、ハルヴァイトは眉を寄せてこめかみを指で押さえた。

 知らず、口元に薄笑みが浮かぶ。

(………暴走…してるのか)

 視界。何か恐ろしいもので見るような目つきでがたがた震え出したルイエの顔が、ちかちかと明滅して徐々に半透明に透けて行く。本来なら、昼過ぎに目覚めた時に起こってもおかしくなかった一時的な「意識の分離暴走」状態がなぜ今頃になって始まったのか、と不審に思う余裕もなく、ハルヴァイトは顔の前に手を翳しそれに視線を据えた。

「その初期化状態を一般的に「臨界に呑まれる」と称し、臨界に呑まれた魔導師は防電室に監禁されて余生を過ごす事になるが、既に自我の消失している魔導師はそれを恐れる事もなく、ただ、解放する場を失った莫大なデータが自らを含む全ての物を的確且つ迅速に表示し続けるのを狂った脳で受け入れる事しか出来ないものとされている」

 小刻みに震える指先が明滅し、歪んでとろけ、ごく細かい数字の集合体に見えて来る。

(かなり酷い状態? 目が覚めた直後のドレイクもそうだった…。ストレス? とにかく、さっさとこのコは…………逃げ出してくれないものかな)

 指先からルイエに視線を戻し、数歩後退してなんとか「出て行け」と手で少年を追い払おうとするが、すでに「数値化」されて崩壊し始めた(ように見える)腕がどこにあるのか判らず、ハルヴァイトはますます困って眉根を寄せた。

「しかし中には、臨界における未確認信号と適合する事により臨界面に意識そのものを取り残し、現実の肉体に接触するという特異状況に陥る場合がある。それを「マスターシステム化」と呼び、現在臨界マスターシステムの一部に組み込まれた魔導師は全エリアで七名、うち二名はシステム・ブレーン内に駐屯し、臨界の統括管理を行っている」

(末期だ…)

 と、思わずハルヴァイトが溜め息を吐いた刹那、ルイエの寄りかかったドアが盛大に蹴り開けられ、少年は玄関の上がりがまちに全身で突っ込んだ。

「ハルはこんな所で悠長に何をやってるのよ! ほんっとにバカなんだから! 君それでもミナミの恋人でいるつもりな訳っ!」

 そう叫びながら、怒り心頭、といった形相でづかづか踏み込んで来た赤い髪の美女、アリスは、怯えるルイエには目もくれず、廊下の真ん中に突っ立っているハルヴァイトの正面まで来るなり、右手を振り上げ思い切り彼の頬をひっぱたいた。

 気分がいい程澄んだ、ぱぁん! という音に、顔を上げたルイエ少年が唖然とする。

 それでも気が済まないのか、アリスは柳眉を吊り上げてハルヴァイトを睨んでいる。

 そしてひっぱたかれたハルヴァイトは、ゆっくりと…………なぜか、その場に膝から崩れ落ちてしまった。

「…って、嘘! そんな、か弱いあたしをバカにしてるんじゃないでしょうね!」

 アリスは慌てて倒れたハルヴァイトを抱き起こしながら、傍らで凍り付いているルイエに困った顔を向けた。

         

       

 マスター・ブレーンからの強制通信緊急切断。一時接触不良により最高毎秒四〇〇億電速に達しデータ齟齬(そご)発生。現在は受信側に応答なく、復旧作業に支障なし。

 バックアップデータと照合の上、通常マスター・システム内の「意識」に損傷なし。臨界、正常に通信を開始。

 アカウント・ネーム「ディアボロ」、正常に、復帰。

         

   
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