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    6ドラマティカ    
       
(1)

  

 浅い眠り。

 夢と現を行ったり来たりする。繰り返す。

 思い出す夢は現実。現在の生活。現は記憶。遠くない過去…。

 時折やってくる熱っぽい不調。乾いたベッドの中でうなされて何度も寝返りを打ち、それが、身体の中と外に染みついた欲情なのだと思い知った瞬間に、ミナミは現の悪夢から鋼色の夢に帰ってくる。

 重い瞼をうっそりと持ち上げて、薄闇に浮かび上がった自分の指先を見つめ、温度の高い溜め息を、一つ。

 今日は…、ひどく調子が悪い。

 寝汗で濡れた髪を苛々と掻き上げながら身を起こし、カラカラに乾き切った喉をどうにかしたくて、足音を忍ばせ部屋を抜け出す。階下に通じる階段は丁度ミナミの使っている客室正面にあり、だから彼は、左手奥、廊下の突き当たりでひっそりと静まり返っている部屋に居るのだろう家人に気付かれる事なく、影のように階段を滑り降りてキッチンに向った。

 暗いキッチン。ダイニングテーブルにクーラーボックスから取り出したミネラルウォーターのボトルを置き、スツールを引き寄せて重い身体を預ける。

 熱い。

 かなり焦点の怪しくなって来たダークブルーの双眸を中空に彷徨わせながら、ミナミは息を殺して身を硬くした。何もしたくない。誰にも会いたくない。でも、全身が熱くて、どうにかしないと気が狂ってしまいそうだと…噛み締めた奥歯の間で悲鳴を上げ、震える手でボトルを掴む。

 冷めたいシャワーに誘惑されそうになる。

 でもそれでは、二階に居るこの家の主が、ミナミの不調に気付いてしまう。

 だから彼は何度も手を滑らせて苛付きながらもようやくキャップを捻り開け、透明な液体を一口喉に流し込んでから、それをそのまま、唇から離した。

 水音。首筋を這う冷たい感触。ボトルからだらだらと溢れ出る液体は体温に侵食される前にはだけたシャツに染み込み、外気に晒されて冷え、ミナミの…自分でもどうしていいのか判らない「記憶=欲情」であるものを、放熱してくれる。

 爪先まで伝い降りた液体がささやかな水溜りを床に穿つ頃、ミナミはボトルを頭の上まで持ち上げて、俯いた。ばしゃばしゃと止めど無く吐き出される透明な冷水はあちこち毛先の跳ね上がった素晴らしい金色の髪を濡らし、隙間を通って、ねっとりとうなじを舐めながら、背中を滑り降りて行く。

 熱い…。

 どうしようもなく。

 放熱されて、なのか、熱っぽいからなのか、ミナミは全身を小刻みに震わせている。閉じられた長い睫の先にしがみ付いていた水滴が、ぽとり、とあまりにもゆっくりそこを離れ、膝の上に投げ出した手の甲を叩くと、ミナミはようやく瞼を持ち上げた。

 皓々と冴えたダークブルーの双眸が、ファイランという狂った閉鎖空間を観察している。

 脳も身体も、内側でいろんな薄汚いモノがぐちゃぐちゃに混じりあって正体がなくなりそうなのに、ただあの、観察者の瞳だけがやけに冷え切っていて、全てを見透かそうとしているかのようだった。

 熱い。

 ミナミの脳裏で、冷えたシャワーの誘惑が膨れ上がって行く。

 どうしよう。

 彼は迷った。

 迷ったから、深夜にこんな状況になったのを知られたくないひとの姿を思い出してしまい、ついに…、シャワーに置き換えられていた本物の誘惑が鎌首を擡げる。

 熱い。

 その時ミナミが本当に望んでいたのは、冷たい水、ではなかった。凍えた青銅色の炎。全身に刻まれた異時空の紋章。それを蓄えた、鋼色の髪と鉛色の瞳の、スティール。

 笑わないそのひとの容貌は、整い過ぎで冷たい。

 たった一度だけ触れたそのひとの「一部」は、滑らかで、冷たかった。

 だから……。

 熱い。いつまで、続くのか。

 ミナミは空になったボトルを足元に転がし、ダイニングテーブルに突っ伏して、熱っぽい溜め息を吐いた。

「…………熱い…」

 赤く熟れた唇で囁き、次の言葉を飲み込む。

 呼んでは、いけない。

 ここに来て、もう十ヶ月近くなる。でもミナミはそのひとの名前を数えるほどしか口にした事がなかった。最初にそのひとが名乗ったのを確かめるように囁いた一度、以前一緒に暮らしていた青年に告げた一度、それから、……悪魔。

 呼んではいけない。

 失望から逃れたいのなら。

 なのに…。

「ミナミ」

 胡乱に考えを巡らせていたからか、ミナミは、いつの間にかキッチンの入り口までハルヴァイトが来ていたのに気付いていなかった。きっとミナミを愕かせないためなのだろう、静かに名前を呼ばれ、それにはっとして顔を上げた青年のただならぬ様子に、しかし、恋人は何も問い掛けなかった。

「…て…アンタ、なんでそんな暑苦しいカッコしてんだよ、こんな夜中に…」

 だから、ではないが、ダイニングテーブルから身を引き剥がしたミナミが、薄暗い室内に立つハルヴァイトの姿を見て首を傾げる。その声音は多少力無いように思えたが、平素と同じように突っ込んで来たので、ようやく、ハルヴァイトは室内灯を点けた。

 佇むハルヴァイトの瞳が、一瞬ミナミから逸れる。

 床に転がされたボトル。濡れた全身。爪先を浸したままの水溜り…。

 それらを無言で見回す鉛色の瞳があまりにも冷静で、ミナミの方が戸惑ってしまう。ハルヴァイトと来たら、やたら心配性を発揮してあれこれ世話を焼く時もあれば、逆にミナミが身構えた時ほど、こういう…、関心があるのかないのか判らない冷たい表情を晒し何も訊いて来ない。

 それをミナミは、静かに受け止め、肯定する。

…ミナミだから…か。

 ハルヴァイト・ガリューという鋼鉄(スティール)の「見ている世界」を知ってしまった「恋人」である青年だからこそ、その冷えた鉛色の瞳が時に、なんの感情も抱けない無機質な数字の羅列が踊るのを見つめ、「世界」に疲れ果ててしまうと、判って…しまった。

「緊急召集命令が下ったので、今から登城します」

 別に何かをミナミに問いただそうと言う気がないのか、ハルヴァイトは手に持っていた緋色のマントを翻して肩に掛けながら、そう淡々と言い放った。それに慌てたミナミがスツールから立ち上がろうとするのを、ハルヴァイトが軽く微笑んで制す。

「いいですよ、構いません。極秘召集なので内容が定かでないですから、いつ戻って来られるか判りません。…風邪には、気をつけてくださいね」

 最後は白手袋。言いながらそれを嵌め、マントと上着の裾を捌いて姿勢を正したハルヴァイトは、やっとミナミに笑顔を見せた。

「では、行ってきます」

 髪、衣服、爪先まで濡れたままでは、装備を整えたハルヴァイトに近寄れない。だからミナミはダイニング・テーブルの片隅をぎゅっと掴み、視界の中で旋廻し暗い廊下に消えていく背中を見送った。

「……いってらっしゃい…………」

 呟いて、自分の声が妙に遠く、ミナミはもう一度溜め息を吐いた。

  

   
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