■ 前へ戻る   ■ 次へ進む

      
   
    6ドラマティカ    
       
(2)

  

 深夜にハルヴァイトが極秘緊急召集で出掛けてから、五日目。いつ帰ってくるのか、第一どこで何をしているのかさえ判らない彼を待つ間に、ミナミは「待つ」事に少し以前と違う感想を抱き始めていた。

 最初に思い出したのは、ウォルとドレイク。それから、マーリィ。みんなどこかで、こんな風にお終いの見えない「待つ」を平然と受け止めているのか、と思うと、それに退屈して来た…実は耐えられなくなりそうな…自分が、ひどくワガママに思えて仕方がない。

 ミナミはいつも、ハルヴァイトが「戻る」と言う日まで彼を待てば良かった。多少遅れたり、大まかな目安として三・四日後、などと言われた事はあるが、ここまで完全に、いつハルヴァイトが家に戻って来るのか判らない、というのは、本当に始めてだったのだ。

 だから、さらさらと体表を舐める嫌な予感…みたいなもの、から逃げ出そうと、いつもハルヴァイトの座っている、か、寝転んでいるソファに蹲り、じっと中空を睨んで息を潜める。

 張り詰めた空気を観察する、ダークブルーの瞳。

 既に五日目も暮れようという時刻、遥か頭上の天蓋から注ぎ室内まで射し込むのは、ひどく血のように赤い、毒々しく鈍い光だった。

 正視に耐えない。

 ミナミはぎゅっと瞼を閉じ、今日もここでこのまま眠ってしまおうと思った。

 刹那、装飾品としてのマントルピースに置かれている通信端末が、耳障りな電子音を吐きながら文字の点滅を繰り返す。それに愕いて跳ね起き、ミナミは半ば転がるようにソファから飛び降りた。

 こんな妙な時間、妙なタイミングで電信を入れて来るひとに、心当たりはひとりしかいない。

 まさにミナミらしくなく、マントルピースに飛びついて着信番号を確かめもせず回線をオープンに入れる。と、映し出されたのは、ミナミの「待つ」ひとでは…なかった。

「ミナミ…」

「……あ…。えっと、どうかした? ミラキ卿……」

 浅黒い肌に、煌くような白髪。しかし、いつもは飄々とした笑いを浮かべているはずのドレイク・ミラキが、なぜか今日は、ひどく緊張したような、怖いくらい真剣な顔つきでモニターの中からミナミを睨んでいる。

「すぐ、出かける支度して待ってろ。あと少しで、そっちにクラバインが行く…」

「? クラバインさんが…なんでだよ」

「すまねぇ、俺にも理由はさっぱりだ。本当なら…俺がお前に付いててやるべきなんだろうが…、こっちも行動制限で迂闊に動きが取れねぇ」

「? 待ってって…。一体何がどうしたつう…」

「…………ハルが、国王命令で衛視団に連行された。容疑は…殺人らしい」

「…………」

 ミナミは、取り乱さなかった。嘘だ、と叫ぶようなマネもしなかった。ただ急に全身から力が抜けて世界中がぐるぐる回り出し、耳の後ろで自分の鼓動がひどく煩く唸っているのを、やけに冷静に聞いていた…。

「ミナミ!」

 ドレイクに名前を呼ばれた瞬間、ミナミはびくりと肩を震わせて、急に膝から崩れその場に座り込んだ。

「おい、ミナミっ!」

 がなるドレイクの声に顔を顰めたものの、ミナミは大きく息を吐いて、なんとかマントルピースを支えに立ち上がった。なんでもない、と言えるほどまともな声で答える自信は、さすがに、なかったのか、一瞬で唇まで白くなるほど青ざめた青年が、どこか弱々しいダークブルーの瞳で、モニターの向こうに佇むドレイクに頷いて見せる。

「……詳しい事はクラバインに訊いてくれ…。警備軍の一般警備部でなく王下特務衛視団が出張って来ちまったら、さすがの俺にも手が出せねぇ。………ミナミ…?」

「あの…。うん、聞いてる」

 ミナミは、早口で話し続けるドレイクの顔から視線を逸らした。かたかた震える手でしきりに髪を掻き上げ、紙のように色の失せた唇を引き結んで、何か、虚ろに何かを考えているように見える。

「お前の方にはクラバインがひとりで向ったそうだがよ、俺は制限付きで衛視団の監視下に置かれるんだとさ。どうやら、ハルの親近者である俺は、屋敷に軟禁されるらしい」

「…なんで、ミラキ卿は、それ知ってんの」

「自分でハルヴァイトを拘束しろつった陛下が、直々に教えて来やがったからだ」

 内側に溜め込んで漏れ出さない怒りになのか、普段では考えられないほど酷薄に言い放ったドレイクに顔を向け、ミナミが何度も首を横に振る。

「そういう…言い方やめろよ、ミラキ卿…。陛下は……陛下だから、何か理由が…」

「それがろくな理由じゃなかったら、俺ぁあいつを死んでも許さねぇぞ」

 そのミナミから視線を逸らさずに言い切ったドレイクの、黒っぽい灰色の瞳。底光りするそれに揺るがない決心を見て、ミナミは…やっぱり首を横に振った。

 拘束されたハルヴァイト。軟禁されるドレイク。誰とも接触を拒んでおきながら、ウォルがドレイクにそれを告げて来たのには必ず理由がある、と思いはしたが、今のミナミには冷静にそれを考えるほどの余裕はない。

「……ミナミ、お前は、どうなんだ?」

 静謐に問いかけられて、しかし、ミナミはもう一度力なく首を横に振っただけだった。

           

          

 ドレイクとの通信を切ってからも、ミナミはぼんやりとマントルピースの前に突っ立っていた。出掛ける支度をしておけ、と言われたのをようやく思い出し、弛緩した身体を引きずってキッチンに向かい、冷たい水を探し求めクーラーボックスを開ける。

 震える手を伸ばし、ボトルを取ってなんとか喉を潤した所で、ミナミはそれを床に落した。

 足下に転がり、大分残った透明な液体が床に水溜まりを作るのを胡乱に見つめる。じわじわと広がって行く、正体の知れない水溜まり。その先端が裸足の爪先に触れて、本当にそれは冷たくて、ミナミは一瞬肩を震わせた。

 頭が冴えていく。そうでなければならない。意味は伝わらなければ意味がなく、しかしそれは理解し行動しようとする事で意味を持つ。

 滲んだダークブルーの瞳で床に広がっていく水溜まりを見つめていたミナミが、急に踵を返しキッチンから飛び出した。二階の自室に駆け込もうとして一瞬迷い、階段のてっぺんで足を停めた彼は、一呼吸の間右手にあるハルヴァイトの部屋を息を殺して凝視し、爪先をそこへ向けた。

 ミナミがハルヴァイトの家に転がり込んで、約十ヶ月。彼は、本人が篭っている時でさえ勝手に開けた事のないそのドアを、躊躇なく押し開けた。

 室内の乱雑さに、驚きはない。きれいに片付いていたら、もっと驚いたかもしれないが。広さは二階面積の、約三分の一。堆く積み上げられた本の山と、開け放たれたクロゼット、ブランケットが乱暴にはだけられただけの、大きなベッド。本に紛れて床に置きっぱなしの据え置き端末にはコードがなく、どう使われているのかミナミには見当もつかなかった。

 それだけ、後は何もない。そして、それがそのひとの全て。知識と、身体に刻まれた刻印を覆い隠すもの、束の間の眠りに落ちる事。それだけ。

 ミナミは無言でドアを閉め、今度こそ隣りの自室に戻った。ハルヴァイトの部屋より狭く、ベッドとクロゼットとテレビが置かれているだけで、こちらも余分な物はひとつもない。

 それがミナミの全て。いつここを出ても、何も残らない。

……本当に、居るだけ。

 ミナミはぴったり閉じられたクロゼットの扉を目いっぱい開け放ち、手当たり次第に中の物を床にぶちまけ始めた。まるで取り憑かれたように片っ端から衣服を散らかし、ハンガーを放り出し、それでも気が済まなくてベッドに飛びつき、ブランケットとシーツをひっぺがして部屋いっぱいに広げる。

 殆ど汗だくで散々暴れ、それからドアを蹴り開けて再度ハルヴァイトの部屋に飛び込み、室内を見回す。

 胸の鼓動。やけに早く、今にもオーバーヒートしそう。それを無理矢理飲み下し、ミナミは、手近な場所に積まれている本の山のてっぺんから、一冊…赤い表紙に黒い紋様の踊る、タイトルさえ判らない一冊に、手を伸ばした。

 なぜ、それだったのか。手の届く所にあったから? ミナミはそれを自問し、否定する。

 その本は、微かだが気配を発しているように思えた。まるでミナミの手に渡りたがっているように、思える。

 だから彼はそれを持ち上げ、後退してハルヴァイトの部屋から逃げ出し、荒れた自室の床、シーツの上にそれをそっと置いて、身に付けていたシャツを脱ぎその本に被せた。

 もしも誰かがそれを見たら、ミナミが狂ってしまったのではないか、と危惧したかもしれない。

 一連の奇行を済ませると、ミナミは室内を見回し、新しい衣服を一式掴んで二階のシャールームにふらふらと入った。

 冷たい水に、憧れる。

 冷やさなくてはいけない。

 何を?

「…身体…じゃねぇ。頭? 違う…」

 こころ。気持ち。そういう、不透明なもの。

 ミナミは、ミナミの「意味」を…ようやく理解しようとし始めた…。

          

   
 ■ 前へ戻る   ■ 次へ進む