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    6ドラマティカ    
       
(11)

  

 道々、ふたりはヘイルハム・ロッソーの話題には触れなかった。ただし、ハルヴァイトが拘束され、ドレイクが軟禁され、その関係でクラバインに(ウォルではなく)ミナミが呼び出され簡単な事情聴取を受けた事と、ハルヴァイト拘束の指示を出したウォルが最終的に幾つかの質問をして来た、という事だけは話した。

 それで納得したのでもないのだろうが、ミナミが始めに「話したくない」と言ったからなのか、ハルヴァイトは必要以上に突っ込んだ質問をする事もなく、明日会ったらドレイクに謝っておきましょう、とだけ、微笑んで答えた。

「…三日間の謹慎…一応…って陛下が言ってた。その前にあれだけ働いたんだから、休養だと思ってゆっくりしろってさ。アンタが拘束されたのは機密扱いで、クラバインさんと、アンタを連行した衛視しか知らないから、警備軍の方には調査目的とはいえ違法なハッキングを一般端末から行ったのが理由、って報告されてるって。そうクラバインさんが言ってた」

「普通の休暇扱いというのには出来なかったんでしょうか」

 苦笑いを零すハルヴァイトの横顔を見上げ、ミナミも微かに笑う。

「疑われるような事言ってたアンタが悪ぃんだって…」

「何をどう疑われたのか判らないのでは、ちょっと納得行きませんね」

 肩を竦めた、恋人。冷たい印象さえ受ける端正な横顔に浮かぶ、朗らかな笑み。後何回こうして肩を並べて歩くのか、と思ってしまって、ミナミは無理にハルヴァイトから視線を逸らした。

 そこに当たり前にある時は何も感じない。でも、手放す時期を知ってしまうと、急に惜しくなる。

 気付くのが、いつでも遅い。

 大通りから住宅街に入り、すぐ。そこに佇むレンガ色の壁とささやかな植え込み、飾りなだけで動かせないノッカーの付いたチョコレート色のドアが、なんだか妙に懐かしかった。

 ハルヴァイトがドアを開け、玄関に入る。後ろから着いて入ったミナミがドアを閉め、緋色のマントを外したハルヴァイトが、ふと思い出したように、恋人を振り返った。

 背中でドアに張りついていたミナミの表情が、一瞬強張る。ハルヴァイトから逸らさないダークブルーの瞳がどこか戸惑うように揺れ、ついに最初の嘘を吐かなければならなくなった青年が、長い睫を閉じる。

「…………おかえり」

 言ってしまって、ミナミは気付く。

 お終いは見えた。

 それなのに、どうしようもなくそのひとが好きだと思う。

 青緑色の炎を纏ったひと。臨界の「悪魔」と同じひと。彼は鋼鉄の悪魔だったから、あの日、道端に座り込んで通りを虚ろに眺めていたミナミは、瞬き一回の時も掛けずに、鉛色の冷たい瞳に、魅入られた…。

 だから黙って着いて来た。

 だから、怖くなかった。

 だから、理由が欲しかった。

 だから…許せたのはくちづけ。

 瞼の向こうに微かな影が差し、ミナミが反射的にそれから顔を背けようとする。しかし、刹那の戸惑いで逃がし損ねたミナミの唇に、情け容赦の欠片もない残酷なくちづけは落とされる。

 嘘。だから、求めたのは、くちづけ。

「ただいま」

 掠め取るようないつものキス。それが唇から離れて、瞼を持ち上げ、ミナミは俯いた。

 ドアに背中を預けたまま少しの間じっと身動ぎもせず、それを訝しんだハルヴァイトがもう一度振り返るなり、ミナミはどうしようもなく何もかもが嫌になって、ずるずるとその場に座り込んでしまった。

「…ミナミ?」

 慌てて傍まで戻って来たハルヴァイトが、膝を抱えて背中を丸めたミナミの正面に膝を付く。しかしどこにも触れない律儀さに微か失笑を漏らしたミナミは、自分の腕に額を押しつけ、ハルヴァイトの視界から消えてしまおうとした。

「……だから、やっぱ俺はダメなんだよ…」

「? 何か…あったんですか? ミナミ…」

「なんにもねぇ…。ただ、忘れようとか、見ないふりしようとか、…そういう風に、自分が傷つかないでいんの…、もう、無理なんだよ」

 どこまでが本当でどこからが嘘なのか定かでない。でも全部嘘なのだ、と…自分を信じたミナミが、顔を上げる。

「無理なんだよ! どんなに俺がなんにも感じないって思ったって、結局、あいつらはどっかでのうのうと生きてんだから!」

「……」

 睨まれたハルヴァイトが、言いかけた何かを飲み込む。

「アンタの殺人容疑。殺されたのは、ヘイルハム・ロッソー。終身刑を言い渡されてたヤツだったって…。俺は、そんなヤツ知らなくて…、でも、本当は…もっと……」

 何もかも、取り繕った上辺に隠された本質、嗜虐性だとか、そういった全部のもの。

「イヤんなるくらい…知ってるヤツだった…」

「ミナミ…」

 ハルヴァイトが、玄関のコンクリートに突いてた手を動かす。それに全身を硬直させたミナミの怯えた様子に、彼は身じろぎするのを、やめた。

「…あの部屋に二番目にやって来た男だった…。それから、何度も何度もやって来た。判んだろ? 俺は…何十回も何百回も犯されたんだ…」

 本当は誰よりも正体の知れない、内情を表に出さない鉛色の瞳が、ミナミを見つめている。そのひとは、鋼。刃で出来ているという。

「最後は…あの日。いつもと外の様子が違ってた…。悲鳴が…聞こえたんだ。何度も何度も聞こえたのに、すぐ静かになった…。おかしいと思ったし…怖かった。それからすぐに、あいつが…血まみれで…にやにやしながら部屋に入って来た」

 瞬きもせずハルヴァイトの顔を見上げたまま、ミナミはまるで記録を再生するインフォメーションみたいに淡々と話し続けた。

「手についた血を自分のシャツになすりつけながら、ずっと楽しみにしてたって俺に言った…。俺は怖くて…血の匂いとかそういうのが凄く怖くて、空けっぱなしのドアから外に逃げようとしたんだ。…その時俺は生まれて始めて…顔を……殴られた…」

 思い出す。否。記録を呼び出す。

 室内に侵入してきた血まみれの男に怯えたミナミが、傍らを霞めて逃げ出そうとした刹那、男はミナミの髪を掴んで引き戻し、悲鳴を上げた少年の頬を平手で打った。今の今まで、どんなに虜辱し尽くされようとも身体に傷を付けられた事のなかった少年はそれに愕き、成すがまま床に叩きつけられる。

「倒れた途端あいつが懐から刃物を取り出して…、…血でべったり汚れたでっかいナイフみたいの…、俺の目の前でちらつかせながらずっとにやにやしてて、俺はもう動けなくなって…」

 怯える綺麗な顔をしばし見下ろしてから、男は不意に苛々と髪を掻き毟る。そこで何やら口汚く誰かを罵り、萎縮して手足を縮めた少年の全身を何度か蹴飛ばして転がし、床に蹲った少年のシャツを乱暴に掴んで引き起こした。

「…ひっくり返された拍子に、シャツのボタンが千切れた…」

 そこから覗いたのは、上質な絹よりも滑らかな乳白色の肌。少し赤い痣が浮いているそれから目が離せなくなって、男はナイフを床に落とし、恐る恐る少年のシャツに手を掛ける。

「服を脱がされた…。破いて。あいつがナイフを落としたから、俺は逃げようとした。あいつ突き飛ばして、悲鳴を上げながら床這い回って…」

 這いずる少年の背中にのしかかった男は、げたげた笑いながら少年の首を後ろから締め上げた。少年は男の腕に爪を立てて抵抗したが、太い指先は容赦なくぎりぎりと喉に食い込み、そのうち意識が朦朧とし始める。

「死ぬんだと思ったけど…怖くなかった。開けっぱなしのドアが見えてて、最初は手を伸ばせば届きそうだったのに、だんだん遠くなって、暗くなって…。だから…あの外には出られねぇんだって…」

 突然、男が少年の頭を床に押さえつけ、呼吸の楽になった事で途切れかけていた意識を取り戻した少年が、また悲鳴を上げ絨毯に爪を立てる。背後から聞こえてきた忙しない衣擦れ、というよりも、荒々しく衣服をはだける音に、藻掻く少年は「死」とは別な見知った恐怖に全身を萎縮させ、今度は、上げかけた悲鳴を無理矢理飲み込んだ。

「いきなり指突っ込まれて、引っ掻き回されて、俺…訳が判らなくて、それでも我慢した。ホントに痛いだけで嫌だったけど、それさえ我慢すればもう怖い事なんてねぇんだって…判ってたから」

 身についた防衛本能だった。急に大人しくなった少年をどう取ったのか、男は勝手に昂ぶった股間の物を少年の身体に捻じ込み、身体全体で叩きつけ、唸り声を上げて…。

「……床に転がってたナイフを、拾った」

 がくがくと激しく震える視界の片隅に煌く刃を見た時、少年は自分に何が起きようとしているのか理解していなかった。ただ歯を食いしばって痛みに耐え、正気を保つのに必死だった。

「あいつは、笑ってた。最後にいい思いが出来て、行くのは天国だろうって…」

 内臓を突き上げてくる異物。こみ上げてくる吐き気を堪える少年の頬に冷たい刃を押し当て、男は顔を上げろと命令した。これは新しい遊びなのだ、とうっすら頭を擡げる恐怖から目を逸らした少年が何とか額を床から離し仰け反るように顔を上げると、それで微妙に締めつける力が変わったのか、男は片腕で少年の腰を掻き抱き、限界まで膨れ上がった性器と全身を痙攣させて、少年の体内に粘ついた液体を吐き出した。

「それと一緒に、喉にナイフが当てられて、俺は…ついに悲鳴を……」

 少年の声は、真っ赤な実体を持って口からではなく喉元から直接吹き上がった。

 全身を萎縮させ、それから痙攣させて肩から床に崩れ落ちた少年の体内に残っていた男の物が、俄かに勢いを取り戻す。

 声でなく掠れた呼吸音と血の泡を吐く少年の背中に喉元から掬い取った鮮血を擦り付けながら男は狂ったように笑い続け、血にまみれ死にかけている少年を、犯し続けた。

「………俺の記憶はそこで終わってる。次に目が覚めたのは、アンタが俺を見たって言う…医療院」

 その告白。意識を失う直前までを、ミナミは鮮明に記憶していた事になる。

 犯されて、殺されかけて、しかし少年は…今目の前にいる青年は、いつでも静謐な観察者だったのか…。

「その…男が……死んだ。そんなの…どうでもいいよ。誰かが殺した。俺はその誰かに感謝もしねぇし、怨みもしねぇ…」

 しかし…。

「今日までそいつが生きてたって事を、俺は思い出したんだよ……」

 それまで一言も喋らずミナミの言葉を受け止めていたハルヴァイトが、短い溜め息を吐く。

「…それで、偶然傍にいたわたしが疑われた訳ですか…」

 吐息のような囁き、それから…微かに歪んだ口元。ミナミはじっとそれを見つめ、無言で頷いた。

「―――今の話を知っていれば、やっていても不思議ではないでしょうね」

 ぶっきらぼうにそう吐き捨てたハルヴァイトが、自分の膝に手を突き立ち上がる。それがあまりにも普段と変わらないのにミナミが不審そうな顔をすると、なぜか彼は、本当に可笑しげに…笑い出した。

「聴けば腹立たしいと思う。もしも今その男が目の前に現れてあなたをまた傷つけようとするならば、殺す事も厭わない。ですが、残念ながらわたしは…スラムのごろつきではなくなってしまった…。気に入らなければ殴れば済む。そうでないなら居ないものとして考える。そういう乱暴で簡単な方法だけでは、やって行けなくなってしまった。それに…」

 ハルヴァイトが、そこで一度言葉を切る。

「わたしが殺していいのは、…今日殺された男じゃない」

 不意に、消えた笑い。

 ミナミから逸らされた、不透明な瞳。

 中空に向けられた鉛色の双眸は虚ろに遠く、まるで…。

 まるで。

 世界に無関心。

 …………………数字の羅列を、見るように。

「……誰…だよ。それ…」

 膝を抱えたまま震える声で問いかけたミナミに、ハルヴァイトは顔さえ向けてくれなかった。

「教えません、誰にも。例えあなたにも」

「誰だよ!」

「教えません」

 完全に感情の死んだ瞳を微かに眇めて薄暗く嗤ったハルヴァイトは冷たく言い捨て、ミナミに背を向けた。

 固定された世界を、そこだけ、拒否するように。

「…俺はアンタに……人殺しになって欲しくないっ!」

 反射的に叫んだミナミは弾けるように立ち上がり…………。

         

          

「それ」だけは嫌だった。させてはいけないと思った。我が侭だけれど。

 せめて、愛して欲しいと思った…。

 ミナミの愛したこの閉鎖空間を、数字とアルファベットの塊で片付けて欲しくなかった。

 酷く、我が侭だけれど。

          

   
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