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    8.noise    
       
(1)

  

 ベッドの中でごそりと身動(みじろ)ぎ、それで何か思い出して、つまり、眠りから覚めた。

 とても久しぶりに夢も見ないで眠った気がする。そんなもの、見る暇もなかったのか。

 生欠伸を噛み殺しながらうっそりと上半身を持ち上げると、肩まで引き上げていたブランケットがするりと素肌を滑り降りた。その乾いた感触が、昨日の晩、ふざけた恋人が指先で唇をなぞったのと似ていて、少し、恥ずかしくなる。

 その恋人は、まだ傍らで眠りこけていた。いつもなら一緒に目を覚ます筈なのに今日はどうしたものか、と微か唇をほころばせ、不意に、憂鬱になった。

 現在(いま)幸福(しあわせ)か? と問われたら、八割幸福(しあわせ)で一割罪悪、残りの一割が後悔だと答えるだろう。

 眠る恋人…そう呼んでいいのかどうか判らないが…のきらついた髪を指先で掻き回しながら、自分の思う八割の幸福(しあわせ)に踏みにじられて行くのだろう、あの青年を想う。

 天使のように綺麗で、なのに静謐な観察者の瞳を持った、不思議な青年。

 アンバランス。

 ひとりだけ哀しい思いをさせるつもりはない、と言いながら、どこかで逃げ道を探している自分も、アンバランス。

「…………………」

 数ヶ月ぶりに城を抜け出す機会を作って、ようやくここに「戻って」来て、少し驚いた顔で迎えてくれた恋人の皮肉な笑顔を見続けるうち、一割しかないと信じて止まない後悔が、徐々に幸福(しあわせ)を…食いつぶして行く。

「どちらにしても、零になったら終わりだよね…。アイリー」

 甘やかな吐息と共にそう吐き出した彼…ウォルは、真白い肩に流れた黒髪を物憂げにかき上げてから、傍らで眠っているドレイクに視線を戻した。

「いつまで経っても子供みたいなヤツだな…本当に」

 ドレイクは、頭まですっぽりとブランケットを被って丸くなっていた。ブランケットの端を摘まんで軽く持ち上げてみたが、幾つも置かれたピローの隙間に埋まってしまっている顔は見えない。

 時折しか逢えない恋人は、横柄に現われるウォルをわざとのような驚いた笑顔、少しのアルコールと他愛ない話、それから、鷹揚な抱擁、繰り返すくちづけ、柔らかなベッドで惜しげもなく浴びせかける囁きで出迎え、ウォルから甘い吐息と抑え切れない情欲を奪い取って、また、笑顔で送り出してくれる。

 不満だらけだった。

 ミナミを知るまでは。

 気が向いたら顔を見たかったし、そうしたらくちづけを惜しまないし、どんなに泣かされようと掻き乱されようと、情念で汗ばんだ肌に爪を立て、二度とどこにも行きたくないのだと我侭を言いたかった。

      

「お前がただの人間で、僕がただの人間だったら、それも可能だったのに」

       

 何度もウォルはそう言ってドレイクを困らせたが、しかし、ミナミ・アイリーという青年がドレイクの大事な弟の元に居着いてから、限りなく美しいと評判の「国王陛下」は、それを言わなくなった。

 一皮剥(む)けば「ただの人間」である筈のハルヴァイトとミナミは、余程ウォルとドレイクより近く、同じ屋根の下に住んではいたが、掠めるような、行き過ぎるような、そんなくちづけだけしか交わさないのだから。

 欲情を掻き立てるくちづけを、交わさない。

 まるで所有権を主張するように肌に落す赤い刻印を、交わさない。

 いいも悪いもなく、お互いを独占しているのだと信じるために着衣を脱ぎ捨て、秘密を晒し、身体の内部(なか)と外部(そと)を、探らない。

 許せるのは、素っ気無いくちづけだけ。

 そういう風にも生きて行けるのだ、と見せ付けられた気がした。見習えそうにはなかったが。

………………また少し、罪悪割合が上がる。

 それさえ取り上げようとしている自分が、イヤに、なる。

 ウォルは俯いて深い溜め息を吐き、わざとドレイクの上にごとりと…倒れた。

「…というかさ、今日はしぶといな、ドレイク。お前、いつまで…」

 寝ているつもりだ? と言い咎めようとして、ウォルは肩でドレイクを仰向けにひっくり返した。

「?」

 そこで…、浅黒い肌に刻まれた、見覚えのある臨界占有率表示(プライマリ・テスト・パターン)を視界に収めたところで、ようやく、ウォルはドレイクの様子がおかしいのに気付く。

 ドレイクの臨界占有率表示(プライマリ・テスト・パターン)は、左右の腕、上腕に三本ずつ合わせて六本と、前面、鳩尾の真上に二十センチ程のものが一本、合計七本なのだが、それが…………………奇妙に鳴動して見えたのだ。

 まるで全てが心臓と直結しているかのように、ドク。ドク。ドク…。と繰り返し蠢くのを驚嘆の表情でいっとき見下ろし、慌てて掌をドレイクの頬に当てる、ウォル。

「……………………リイン!」

 それからいきなり悲鳴を上げたウォルだったが、リインは瞬き一回の間も置かずドアをノックし、扉を開けて深々と頭を下げた。

「おはようございます、旦那様…」

「挨拶なんかどうでもいいっ! すぐ…、防電室を開けろ!」

 あくまで動じた風ない執事を怒鳴り付けながらウォルは、額にべったりと汗をこびりつかせて意識を失っているドレイクを胸に掻き抱き、細くて形のいい眉をぎゅっと吊り上げて、唸るように言い放った。

「クラバインに緊急連絡。今すぐ全ての電脳魔導師の…安否を確認させろ。

 これは………………noiseだ!」

  

   
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