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    8.noise    
       
(2)

  

 呆気ない。

「つうか、ばからしい」

 俺の悩みはなんだったんだ? というのが、その瞬間のミナミの抱いた感想だった。

 ミナミが王下特務室勤務の衛視になって、すでに二ヶ月。雑務をこなしながら陛下との「契約」を履行するのはなかなか骨の折れる作業だったが、それでも無駄に時間が過ぎる訳もなく、ミナミはついに、最初の「結果」に行き当たったのだ。

 しかも、今。

 呆気なく。

「…死亡者リスト作りてぇ訳じゃねんだけど? 俺…」

 この、目の前に突き付けられた事実について物凄く冷静な自分を薄気味悪い、と思いつつ、ミナミはかなり疲れた気分で特殊ブロックを施されたディスクをディスケットに押し込んだ。

「俺を犯した連中は、全部で五十八人。ここまではよし」

 問題なし。

「そのうち、ヘイルハム・ロッソーは二ヶ月前に爆死。ここまでもよし」

 これこそミナミの悩みの発端だが、すでに起こってしまった事をどうこう言っても仕方がないので、それも、問題なし。

「……………で? 気紛れで、王城エリア、過去五年間の死亡者から「条件」に合ったヤツを検索して、ヒットした中から「死亡原因」を「事件」に限定、暇潰しに身元証明写真を閲覧して…、五人も「知った顔」があるってのは、どういう冗談だよ」

 シャレにはならなそうだよな。とひとりごち、とりあえず…今更なんの感慨も抱けない無表情な写真群を一枚ずつ眺めながら、ディスクに焼き付けて行く。

「……あ。すっげーヤベー。急に帰りたくなった…。職務放棄つうの? これ」

 顔も名前もどうでもいいが、見たら忘れない、という厄介な記憶力が、ミナミの神経を逆撫でする。

 ヘイルハム・ロッソー。爆死。

 ウィン・グイ。暴漢に襲われ、刺殺。

 ジェイソン・バルー。自宅に押し込んだ強盗に襲われ、刺殺。

 カズサ・アミー。違法改造のフローター暴走事故に巻き込まれ、死亡。

 ナイアス・オルフォード。暴漢に襲われ、金品を奪われた後、絞殺。

 ガウス・エコール。自宅で毒殺。

 無表情な写真を見ているうちに、なんだか鳩尾のあたりがごわごわして来た。気持ちが悪くて、吐きそうになって、でもミナミは身動(じろ)ぎもせず、モニターに並んだ六人の顔をじっと凝視している。

 ミナミの記憶は、完璧だった。

 今までの五年間で忘れた事のない五十八人の、顔。そのうち六つが今目の前にあり、それは、まさしくミナミの記憶通りの顔だったのだ。

 焼き付けの終了したディスクに三重のブロックを施し、吐き出されて来たそれをデスクの引き出しに放り込んで、施錠する。

「室長か…陛下…。って、今日は…………どっちもミラキ卿の屋敷に行ったんだっけ。じゃぁ、この…報告は………早くても深夜か」

 言いつつミナミはブースから出て、室長室と衛視室を繋ぐドアに向かって歩きながら制服に回されている緋色のベルトを外し、膝まである長上着から袖を抜いて放り出し、ネクタイを緩め…それも丸めて足下に投げ捨てた。

「…すっげーヤな事に、今、あのひとの心境が…よく判んだけど…俺」

 何もしたくない。

 ただ、気持ちが悪い。

「つうか、王下特務室って場所考えたら、俺の方が非常識か」

 無表情に呟いてからミナミは、停滞なくドアを開け放った。

「…………………! ? アイリー次長! ど…どうか…なさった…んで…すか?」

「なんでもねぇ。吐きそうなだけ」

 ドアに一番近いデスクに着いていたレイスという警護班衛視が、室長室から青い顔で出て来たミナミを見るなり、ぎょっと目を剥いてあわあわと問い掛ける。それで、その向かいで何かの資料に視線を落していたヒュー・スレイサーがはっと顔を上げ、上げるなり、こちらも青くなって叫んだ。

「それがなんでもないヤツのする事か! ミナミ!」

「だから、なんでもねぇけど吐きそうなんだって」

 ミナミは睨んで来るヒューにぼそぼそ答えながら震える手でシャツを掴んでスラックスから裾を引き出し、喉元のボタンを幾つか外し、一直線に衝立てで区切ってあるスペースに向かうと、壁際に置かれているクーラーボックスからミネラルウォーターの一番大きなボトルを掴み出して、やっと、追いかけて来たヒューに顔を向ける。

「…室長室の留守番頼んでいい?」

「ミナミ…、何があった?」

「…………………ダメ…。…マジ吐きそう…」

 言ってミナミは、逃げるように特務室を飛び出した。

         

        

 手順は簡単だったし、約五年ぶりとは言え、慣れてもいた。

 まず、水を飲む。

 飲んだら吐く。徹底的に。

 それを気が済むまで繰り返す。

 内蔵が引っくり返りそうになっても、鳩尾のごわごわとか、胃の辺りのねばついた感触とか、そういうものが判らなくなるまで繰り返す。

 散々吐いて、気が済む、というより「本当に吐きたいもの」がないのだと気付いて、ミナミはボトルの底に少しだけ残ったミネラルウォーターで口を漱ぎ、流しで顔を洗った。

 でもまだ、気持ちが悪い。

 ミナミは無表情に鏡の中の自分を睨み、洗面台に置いた両手をぎゅっと握り締めた。

「………………………だから。いくら吐いても…あんなモン出ねぇっての」

 吐きたい。

 吐き出したい。最後の一滴まで。

 あの………、

 生暖かくて、

 どろついていて、

「生き物」臭くて、

 白く…濁った…。

 あーーーーーーーーーーーー……………。

「…すっげーマズくねぇ? 俺…」

 一瞬物凄く恐ろしい事を思い浮べてしまって、ミナミは鏡の中で青い顔をしている自分からぷいっと目を逸らした。

       

   ハキタイ。

   デモ、ハキタイモノガヒトツモナイ。

   ダッタラ、ノミコンデカラハケバイイノデハ?

        

「つうか、家だったら…かなり修羅場見るな…」

 トイレを出ながら、三日くらい家に帰るのはやめようと思った。冷静に思えるけれど実はかなり混乱しているのか、今家に帰されたら、何を…しでかすか判らない。

 廊下で何人かの衛視、こちらは近衛兵団だったが、とすれ違った。みな一様にぎょっと目を剥き、そのまま惚け、廊下の片隅を大股で歩き過ぎて行くミナミを目で追いかける。

 脆く崩れ去りそうな危うい雰囲気を纏い、だらしなく引き出されたシャツの胸元をくつろげて、胡乱なダークブルーの双眸を炯々と暗く光らせた、ミナミ。それはまるで…近付く者すべての独占欲を掻き立てて、冷たく麗々とした無表情に燃えるような欲情を浮かべ自らの足下に傅かせたくなる嗜虐心と、ただ純粋にその全身を隅々まで貪り尽くしたくなる欲望と、本質にあってしかし誰の目にも触れさせたくないと人ならば必死に抵抗する剥き出しの残虐性だとか、そういう…獣みたいな部分を、無言で「曝け出せ」と責め立てているように…見えた。

 抵抗出来ない、欲求。

 それを満たし、諌めてくれるのは、それを引きずり出し、お前も不様な獣だよと言う、その………………。

「天使」。

 バタン! と特務室のドアを開け放ったミナミを、一瞬衛視たちが凝視する。その、なんとも言えない視線に晒されながら、ミナミは無言で室長室まで突き進み、普段から考えれば幾分荒っぽくドアを開けて、室内に逃げ込んだ。

 後ろ手に、ドアを閉じる。

「…………はぁ…」

 で、うなだれて溜め息を、ひとつ。

「おい、ミナミ。お前、一体何があったんだ?」

「あのさ」

 留守を言いつけられていたヒューは、窓際のソファに座ったまま、ドアに張り付いたミナミを唖然と見ていた。

…正直、目を逸らしたかったが、それは出来ない相談だった。逸らせないのだ。ただ佇んでいるミナミから。白いシャツから覗く乳白色の肌とか、やけに底光りするダークブルーの瞳とか、それがあまりにも…何か…………身体の中心を締め上げるような危うさを漂わせていて、逃げられない…。

 ミナミはブースの囲い、せいぜい一メートル五十程の白い衝立てを並べたそれに掛けられているネクタイやら長上着やらに手を伸ばしながら、ちょっと考えるように首を傾げた。

「データのエラーチェックしてて、文字が高速で流れんのずっと見てたら、酔った」

「酔ったって…、それだけか?」

「うん。それだけ」

「それにしては顔色が悪いな。…室長に言って、家に帰ったらどうだ?

「…帰りてぇけど…、実はすっげー帰りたくねぇ」

「は?」

 何を言っているのか、というヒューの視線から逃れるように顔を背け、ミナミは相変わらずぶっきらぼうに答えた。

「あのひとと、出掛けにケンカして来たし」

 いや、ほんとは嘘だけど。と内心突っ込みつつ、ミナミがシャツのボタンを掛け終えて裾をスラックスに突っ込み、ネクタイを首に回した刹那、背後のドアがノックされ、応える前に、いきなり開け放たれたではないか。

「……………あーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。

 失礼」

「って待て! 今何か俺の名誉に傷が付くような凄まじい想像をしなかったか!」

「いいや。スレイサー衛視の存命に関わるファイラン終末伝説並に絶望的な想像くらいならしたが」

 何の前触れもなく入室して来たのは、余程慌てていたのか、緋色のマントも身に付けていないグラン・ガンで、彼はドアを開け、着衣の乱れた(?)ミナミとソファにくつろぐヒューを交互に二度見渡して、丁寧にお辞儀をし退室しようとしたのだ。

 それに思い切り不安な想像をされたと慌てたヒューが弾けるように立ち上がり、しかしミナミは…多分この些細な騒ぎの中心人物であるはずの青年は、平然とネクタイを締め、黒い上着に腕を通しつつ苦笑いしただけだったが。

「スレイサー衛視…、頼むからこれ以上はガリューの神経を逆撫でしないで欲しい」

「いつ俺が好き好んでそんな真似をした!」

「判った。わたしも男だ。この事はファイランを護るために絶対口外しないと約束しよう」

「約束する前に俺の話を聞けっ!」

 細い通路をグランの前になってソファまで進むミナミ。その後ろを歩きながら、電脳魔導師隊大隊長は、くそ真面目な顔で頷きつつ、ヒューを…からかっている。

 これが他の…普通に暮らせる誰かとヒューなら、グランの想像もあながち嘘とは言えないかも知れないが、相手はミナミなのだ。天地が引っくり返ってもミナミがヒューの指先に触れる事さえ出来ないのだと信じて疑わないのだから、最初の一言目からグランは大ふざけなのだが…。

 ヒューにしてれば、シャレにならない事この上ない。

「……つうか、ガン卿…。今にも倒れそうな青い顔してよくそんな冗談言えるよな。今ちょっと感心した」

 ベルトを巻き終えて乱れた前髪を掻き回し、ミナミが一応の身支度を整えると、グランがこれまた難しい顔で大仰に頷く。

「つけいる隙は見つけたら逃すな、というのがガン家の家訓で」

「すっげー迷惑な家訓だな…それ」

 次長ブースを囲む衝立てに背中を付けて寄りかかったミナミが、じっと…青い顔のグランを見つめる。

 あの、観察者の瞳で。

「ちなみにわたしはこれっぽっちもミナミくんとスレイサー衛視の関係を疑っていないので、ご心配なく」

「別に心配してねぇし」

「俺は心臓が止まりそうだったぞ…、まったく」

「よかったな、スレイサー衛視。ここで入って来たのがわたしでなくガリューだったら、下手をするともう君の心臓は止まっていただろう」

 ありえる。

「で? ミナミ君…ではなく、アイリー次長。室長か陛下にお目通り願いたいのだが」

 普段通りの堅い声が、いつもより緊張気味なのに小首を傾げつつ、ミナミはちらりとヒューを盗み見た。

「どちらも「不在」」

 それに、グランが勘良く「うむ」と頷く。

「困ったな。せめて室長にだけでも至急連絡を取りたいのだが、どうにかなるかな? アイリー次長」

「…………ならねぇ事もねぇけど…」

 今厄介事を持ち込むと、確実、陛下に嫌味を言われる。と思いつつ、ミナミが背中で衝立てを突き放す。

「その前に、ミナミくん。ガリューの「安否」を確認する事をお勧めする」

「? 安否?」

 なんで? と言いたげにグランを見つめるミナミに、彼は再度重々しく頷いて見せた。

「先ほどローエンスが執務室で倒れた。当然、ミラキも無事ではないだろう。

 ………………どこかで、noiseが発生している…」

  

   
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