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    8.noise    
       
(7)

  

 それから事態が大きく変動するまでの間にハルヴァイトは七度も解析陣を張り、徐々に真円そのものが歪んでくるに連れ、彼の周囲では断続的な荷電粒子の暴発が起こった。

 当初は時折ふざけた口調でデリラと言い合ったりミナミをからかったりしていたハルヴァイトも、五度目の陣を消した直後から急に口数が少なくなり、六度目の陣を消した後には眩暈を起こして倒れかけ、七度目の陣を張る直前には、立ち入り禁止の白線を引く警備兵を道端に座ったまま虚ろに見つめ、口元に置いた左の人差し指を折り曲げて、その間接部分を…噛んでいた。

 頭痛。眼の奥が痛い。痛いという感覚も判らないほど、苦しい。

 事件が起こったのはまだ朝といって差し支えない時間だったが、それから対策本部を設置したり魔導師の安否を確認したりしてからようやく出掛け、今は既に天蓋の向こうでぎらつく太陽が頭のてっぺんを通り過ぎようか、という時刻になっている。

 と、ついに、気配はあるがひと気(王都民、という意味だが)のない通りを忙しく動き回る警備兵を目で追っていたハルヴァイトが、べったり脂汗を滲ませた頭を立てた膝の上に載せ、がくがく震える両手で鋼色の髪を抱え込んでしまった。

「………おい…」

「…なんですか?」

「………だいじょ……」

 膝を突き合わせるほど近くまで寄ったミナミが、ハルヴァイトの正面にしゃがみ込んで、少し…戸惑うように囁きかけると、問われたハルヴァイトはうっそりと顔を上げ、完全に虹彩の滲んだ鉛色の瞳で、目の前の恋人を…胡乱に見つめる。

「…頭痛…。経験あります? 物凄い頭痛なんですが…」

「頭痛の経験はある。でも、その…アンタの言う「物凄い」の基準が、判んねぇ」

 支度出来ました。と遠くから声を掛けてきた警備兵を振り返り、ミナミは思わず、罪のない彼を睨んでしまった。

 だからもう、やめさせたいのだ、ミナミは。言って聞くようなハルヴァイトでないと判っていても、いい加減にして貰いたくてしょうがない。

 青い、を通り越して真っ白になった顔と、冷や汗と、ぶるぶる震える指先と。今このファイランを「noise」から救えるのはハルヴァイトだけ、と判っていても、ミナミにだって我慢の限界はある。

「脳に振動を与えたら、吐きそうになるんですよ…。それがね、自分の鼓動でさえその…邪魔な「振動」に思えて、停まってくれないかとさえ…思います」

「じゃぁ…」

 もうやめよう。と、ミナミは言いかけた。

「………………あなたのそういう「表情(かお)」は…もしかしたら、始めて見たのかも…」

 自分の膝を抱え、じっと上目遣いでハルヴァイトを見つめる、ミナミ。きっといつもと同じ無表情でいるつもりなのだろうが、それは、完全に失敗していた。

 眉をひそめ、薄い唇をきゅっと噛み、まるで…拗ねた子供のような顔で背中を丸めて、自分の腕を掴んだ指先が白くなるほど力を込めている。

「大丈夫ですよ…。えーと…とりあえず、大丈夫。今、あまり楽しい気分じゃないんで、それをちょっと戻したいんですけど、構いません?」

 言いながら薄っすらと笑み、ハルヴァイトは、背中を預けていたブロック塀を頼りに立ち上がった。

「…何? それ…」

「楽しくないんですよ、どうしてなのか…。いや、理由は判ってるんですが、楽しくない…。これは「誰か」の感情であってわたしの「感情」でなく、その…同調具合がなんとも不愉快なので、ちょっと…悪さをしてやろうと思いまして」

 つられて立ちあがったミナミが、不思議そうな顔でハルヴァイトを見上げる。

「愉しくない。ねぇ、ミナミ? 元々「楽しい」なんて感情をついこの間まで知らなかった人間がですよ、「何もかも楽しくない。むしゃくしゃしてる。自由になりたい」なんて、思えると考えますか? あなたは」

 問われた意味がはっきりと判らず、ミナミは微かに不安そうな顔でハルヴァイトを凝視し続けた。もしかして何か混乱しているのだろうか、とそういうありきたりの事も思い浮かべたが、このひとの脳は特注で、でもどこか欠陥品で、だから、俺の考える予想なんてアテにならない。とすぐに思ったのか、彼は小さく首を横に振り、「判んねぇ」と答えた。

「そういう曖昧なものは、数値化出来ないんです。数値化出来なければ、わたしには「読み込め」ませんよ。だからこれは……「誰か」の感情です」

「……………………あ…」

 ミナミは、一度閉じた瞼を持ち上げて口元に笑みを載せたハルヴァイトを見つめたまま、その場に硬直した。

 急に、怖くなった。

 目の前の「恋人」が、ハルヴァイトでなくなったような気がした。

 だからといって、何になったのかは判らなかったけれど。

「キスしていいですか?」

「い…やだ…」

 ミナミがからからの喉でなんとか押し出した言葉を、ハルヴァイトは簡単すぎる否定で一蹴する。

「では、強奪という事で」

 笑わない恋人が、立ち尽くすミナミの薄い唇からくちづけを奪う。そのキスはいつもより冷え切っていてすこし痛く、少し、怖かった。

 呆然とするミナミを置き去りに、ハルヴァイトは軽く手を挙げてデリラを呼んだ。それで、なぜか表情を硬く強張らせていたデリラが即座に近付いてくると、ハルヴァイトは短い溜め息を吐いてデリラの肩に掴まり、小さく、彼の耳元で囁いた。

「わたしにあるチャンスは一回きり。失敗すれば「流される」可能性も高い。その時は、迷わず…」

「大将、最後に悪あがきしてもいいですかね?」

「? どうぞ」

 白線の手前で停まったデリラを、白線の中に踏み込んだハルヴァイトが振り返る。

「ミナミさんが、泣きますよ」

 ハルヴァイトはなぜか、デリラの言葉を耳にするなりふっと…笑った。

 空虚な微笑み。ではない。狂った嘲笑。でもない。誰かの笑顔でもなければ、電脳魔導師隊第七小隊小隊長の笑みでもない。

 データでも、ない。

「そうだったら、いいですね」

 言ってハルヴァイトは、軽くひらひらと手を振り立ち入り禁止区内中央に向って歩き出した。

「…でも、まぁ…。失敗するつもりはないんですよね…。「相手」がこうも複雑ならば、わたしは至ってシンプルな「感情」しか持っていないんですし」

            

 ただただ…何もかもが…憎い。

 憎い/憎んでいない

 憎い/憎んでいない

 憎い/憎んでいない

 憎い/憎んでいない

 憎い/憎んでいない

          

 疲れ切って、もう、どうでもいいほどに。

        

「…………とりあえず。…ミナミは最近…やけにかわいいな…」

 なぜだろう。と…極めて緊張感のない事を考えながら、ハルヴァイトは立ち止まった。

 くす。と、知らずに苦笑が漏れる。

「後が怖い。なんて思っている自分も、なかなか…素直じゃないですけど」

 相変わらず頭痛は強烈だったが、気分は急に良くなって来た。ここで今からハルヴァイトが仕掛けようとしている「攻撃」の最重要点は、つまりハルヴァイト・ガリューがハルヴァイト・ガリューを保てるかどうか、なのだ。

 だから、ミナミ。そこに居てくれるだけいい。

 それだけで十分過ぎる、奇跡のような、恋人。

        

「基点零を脳内設定完了。固定式「検索陣」を連結。同時に検索を開始。検索内容に適合する「noise」を感知した場合、発生対象をマーキングし、以後追跡」

       

 システムが「noiseキャンセラ」をキャンセル。

 実際、臨界面にはシャレにならないレベルのノイズが溢れているのだが、その殆どは現実面に届く前に、「システムnoiseキャンセラ」という常駐プログラムによって排除されているのだ。

 ハルヴァイトは、そのプログラムを極短時間停止するよう「システム」に指示。「システム」はそれを…了承した。

「OK。クラッカーというヤツが、自分が「noise」に冒された場合どういう行動を取るのかちょっと興味がなくもないんですが…」

 そんな悠長な事を言っていたら、自分が狂う。とハルヴァイトは、ゆっくり口の端を持ち上げて笑みを作った。

「耐えて…五秒かな?」

 耐えられて、か…。と表皮の真下からふつふつ湧き上がってくる「笑い」をゆっくり受け入れながらハルヴァイトは、倣岸に腕を組み、一度足元に落とした視線を再度正面に向けて、囁きのように、溜め息のように、永遠かもしれない「五秒」に自ら足を踏み入れる。

 瞬間でハルヴァイトの周囲に立ち上がった立体陣が、不安定ながら高速で回転。回転に追いつけない数値がぼろぼろと崩壊して巻き散らかされるのを薄笑いで胡乱に見つめたまま彼は、まるで自壊する数値に憧れるように、ひっそりと、言い放つ。

 永遠ではない、五秒。を、望む。

「エンター」

 刹那、王城エリア一般居住区が黄色い激光に炙られた。

            

            

 ハルヴァイトの周りに立体陣が立ち上がったのを訝しむ暇もなく、天蓋が眩しい光を吐いた。とその時誰もが思った。

 しかしその、目も開けていられないような光はすぐに収まり、実は光源が一般居住区の上空に描き出された巨大な六つの電脳陣だったのだ、と認識するのと同じ速さで、直径十メートル以上あるのではないかと思われそうな陣が、なんの振動音もさせないままに回転し始める。

「…崩壊してんじゃねぇか…。つうか、何やってんだよ、あのひとは!」

 最初にそう言ったのはやはりミナミで、彼は上空からまるで雪か何かのようにさらさらと降り注ぐ光の粒子に視線を据えたまま、知らず苛立たしげにそう吐き捨てていた。

『解析陣はダミーだ、アイリー次長。ガリューが今まで六度立ち上げたのは、固定式の「検索陣」…つまり、臨界式レーダーだな』

 デリラの携帯端末からまろび出たグランの呟きに、ミナミが顔を向ける。その間も上空の電脳陣は崩壊と再構築を繰り返しながら回転を続け、分離した粒子が…。

「はぁ。連結してますがね、大隊長。あのカスってのは、実はカスじゃねんですか?」

『滓ではない、コルソン。あれは多分、移動検索信号だ』

「それってーなぁ、つまり…大将………………」

 そこでデリラは、呆れたようにがりがり短い茶色の髪を掻き毟った。

 頭上を舐めて行くのは、光の粒子の一部が整列し、隣接する陣と陣とを結ぶ細やかな糸。それが六つの陣全てを結び、無秩序に置かれたそれらを文様の一部にとり込んだ、巨大な、広大な、盛大な規模の電脳陣が、王城エリア一般居住区上空を埋め尽くそうと派生し続けている。

「でっかい電脳陣を描くために、今まで居住区を歩き回ってた、ってコトになんですかね?」

『…それもある。ただ、申し訳ないが、さすがのわたしもガリューの暴挙には耐えられそうにないので、防電室に避難させて貰う…。詳しい事は、事態が沈静化したら、ゆっくりガリューに聞くといい』

 そう言って、グランは一方的に通信を切断してしまった。

 それで誰もが、上空を仰いで佇んでいるハルヴァイトを、見る。

 見た。

 ニヤニヤ笑いさえなく、本当に疲れたような顔で、ぼんやりと上空を眺めているだけのハルヴァイトを。

 ミナミが、反射的にギイルに視線を投げる。

「……………………………。まぁ、まだマシっぽいよ。まだまだ…なぁ」

 溜め息のようなギイルの囁き。それに被さったのは、上空の陣が同調して回転する「気配」と、奥歯ですり潰したような、遙か遠くから聞こえる唸り声。

 それから。

 その場にいた、上空を埋める電脳陣に晒されている全てのひとは、感じた。

 張り詰めた緊張。神経を逆さまに、紙やすりでぞりぞりと力任せに擦られているような不快。一番嫌いな食べ物をこの先一生食べ続けないと今すぐ死にます。とファイラン一の名医に言い渡されて、必死になってそれを味わいもせず胃に詰め込んでいる感じ? 可聴領域無視のヘヴィメタルを大音響で吐き出しているスピーカー(超大型)の前に宿題を忘れて立たされているような……? …そんな……。

 不安で不快でやかましくて鬱で躁で身動きの取れない……noise。

 反射的に耳を塞ぎ、しかしそれが耳でなく身体の表面で弾けているのだと判った時の、失望。耳でなく感覚に直接流れ込んで来るその「騒音」は、どんなに防ごうとしても、防ぎようがないのだ。

 身体の感覚全部まで麻痺しそうな…騒音。それがなんなのか、と喉を掻き毟りたい衝動と戦いながらミナミは、刺すような痛みを眼の奥で感じながらも、地上に描かれた電脳陣とその中央に佇んでいるはずのハルヴァイトに目を向ける。

 ハルヴァイトは、苦しんでいるように、見えなかった。

 上空も見上げていなかった。

 腕を組んだまま俯いて、背中を丸めて、ミナミのストールを抱き締めて、自分の身体を抱き締めて、声も立てずに、げたげた笑っている。

 ミナミはそれに全身をぎくりと震わせ、デリラを呼んだ。

「…………………………キちゃってますね…、見た感じ…。でも、なんか…」

 呼ばれたデリラがしきりに首を傾げながら小声でミナミに告げた、途端、上空で回転ししていた電脳陣が刹那で飛び散り、今度は、ミナミたちより後方に待機していた警備兵の足元に、なぜか、青緑色の電脳陣が描き出されはじめた。

「でぇ! 全員陣の中から逃げろっ!」

 慌てたギイルが叫び、情けない悲鳴と共に警備兵たちが蜘蛛の子を散らすよう逃げ惑う。と、まるでそれを待っていたかのようなタイミングで直径一メートル五十センチほどの平面陣が完成して、内部にはデスクと「noise対策本部」に直結している端末が一台残された。

「デリ、端末に地図! 移動する赤いマーカーが「発生源」です!」

 叫ぶような、というよりは、良く通る静かな声でしっかりと言い放ったハルヴァイトに顔を向け直したミナミ。彼に「行っていいっスよ」と短く告げ、デリラが踵を返して無人のデスクに向かうのを背中で感じながら、ミナミはづかづかと白線に入った。

 逸らさないミナミの視界の中でハルヴァイトは、陣の消えた囲いの中央付近に佇み、うな垂れて、汗で額に張りついた前髪を掻き揚げている。

「……………アンタ…」

「……」

 何か言おうとしたミナミに、ハルヴァイトは視線だけを向けた。

            

 世界は数値。何もかも数値。

 誰が泣いても笑っても怒っても後悔しても、ただの数値。

 幸せも不幸せも数値。

 好きも嫌いも数値。

 罵り合う隣人同士も。

 くちづけを交わす恋人同士も。

 愛さえも、数値。

           

 自分さえ。

         

「おい!」

           

 侵されていないのは、綺麗な恋人、だけ。

         

「本当」

         

 だからそれは世界を構築する中心。

 しかしそれは世界を崩壊させる者。

         

「わたしはあなたに、どう思われたいんでしょうね?」

         

 ハルヴァイトは、ぎくりと足を停めたミナミに微笑みかけ、そう、疲れたように呟いた。

「大将! 三号スラムと居住区の間、広場辺りでマーカーが動きを停めました!」

「エリア中の警備兵を至急広場周辺に移動させろ。警備兵に、その辺りでふらついている人間は問答無用で拘束して構わない。ただし、マーキングされている実際の「発生源」を発見した場合は、警告を与えて包囲。わたしが現地に着くまで、逃がさず、必要以上に刺激せず、一定以上の距離を取って監視しておくようにと伝えろ」

 やはり張り上げるでもない静かな声で言い放ってからハルヴァイトは、デリラに向けていた視線をミナミに…戻した。

「アイリー次長」

「……………何か…」

 無表情に睨んで来るミナミ。

「居住区での「魔導機」使用許可を」

「なんで?!」

 もう、やめて欲しい。

 紙のように白ちゃけた顔。顎の先まで伝い落ちる程の汗にまみれ、額や頬や首筋に張りつく髪をかき上げる指先は、小刻みに震えている。

「…なんで…」

 そして、繰り返す浅い息。高熱に浮かされた病人にしか見えないほどふらふらで、でもまだハルヴァイトは何かしようとしているのだ。

「「クラッカー」は放置出来ませんからね」

「…そんな事言ってんじゃねぇよ」

「聴いたでしょう?」

 ハルヴァイトはまるで小さな子供に話し掛けるように優しく、それでいて有無を言わせない口調でミナミに言った。

「感じた…かな。あれが「noise」ですよ。騒音です。苛々する…」

 熱のせいなのか、鉛色の瞳がやけに炯々としていて、ミナミはそれから目が離せなくなった。

「…しかも、売られた喧嘩はきっちり買い、倍返し。というのがわたしの流儀なので」

「? ……売られた喧嘩?」

 それは…いつ? とハルヴァイトに問う視線を注ぐミナミ。

「だから、あなたがそんな顔をしても、残念ですがやめません」

 答えは、ただの薄っぺらな微笑みだった。

  

   
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