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    8.noise    
       
(8)

  

 頭が痛い。

 少年は、唸り声と意味不明の悪態を吐きながら必死になって走っていた。

 追いかけられている。現在進行形で、追いかけられている。それから逃げ切らなければ、自由になれない。だから少年は、必死になって走り、時々足をもつれさせて転びそうになり、そのたびますます必死になって走った。

 逃げなければ、悪意から。悪意ですらないそれから。無言で威圧し監視している、感情のひとかけらもない鉛色の眼から。逃げ出したい。悪意すら向けてくれないそれから。どんなに細い路地に潜り込んでも、どんなに複雑な建物の中に入り込んでも、ただ見つめて来るだけの、鉛色の眼。

 恐い。恐過ぎる。追いかけられるのは恐い。でもそれ以上に、その眼に「見据えられている」事が、恐い。

 少年は走りながら周囲の気配を窺い、自分以外誰もいない事を確かめて、ますます悲鳴を上げ必死になって逃げ続けた。

 その少年は、今日まで…自由が手に入れたいなら黙って言う事をきけ。と言われて狭い部屋に押し込められ、散々訳の判らない訓練(?)をさせられて来た昨日まで、そして、日の出と共に解放されて、頭に回した「枷」がひとりでに外れる日暮れまで、数多の「恐い」という感情に遭遇しながら生きて来た。

 だから。万一しくじって死ぬような事になっても、もう怖がる気力さえ残っていないのだ、と自分に対して思った。

 違った。

 そう判った。

 死にたくない。自由になりたい。恐い。

 少年はついに、頭に回され目までを覆う機械の帯を掻き毟りながら、しゃくりあげて泣き始めた。

 自由になりたい。そのためならなんでも出来た。だから死にたくない。だから逃げ切らなければならない。

恐い/憎い

 鉄格子を嵌められた窓の外からは、子供たちのはしゃぐ声がいつも聞こえた。そこに行きたい。それだけでいい。鉄格子の向こうに平凡な日常があり、少年は、それを・羨み/憎い・蔑み/憎い・自分を・悲観/憎・して、自由を与えてくれるという男の言いなりになって来たのに/憎い。

「……なんだよ、これ。なんなんだよ! これ…。誰なんだ? 誰なんだよ! どうして!」

               

 憎い。

         

 少年が転がるように駆け込んで来たのは、天蓋を支える支柱の回りに出来た広場だった。スタートがどの広場だったのか少年は知らなかったが、少年の記憶にある風景は、見下ろすようなファイラン王城エリアと、豆粒のようなひとたちが集う、この広場しかなかったのだ。

 だから、何本もある支柱のひとつを目指して逃げ回った。少年は匿って貰おうとしたのだ。これで彼の望む「自由」は少し遠ざかったけれど、あの、着いてくる鉛色の眼から逃れるためには、もう一度、…隙間のような小部屋に戻ればいいと思った。

 恐い/憎い

 哀しい/憎い

 恨めしい/憎い

 自由が欲しい/憎い

 生きたい/憎い

 寂しい/憎い

 恐い/憎い

 …………/憎い

 ………/憎い

 ……/憎い

 …/憎い

 /憎い

 憎い

 憎

           

 憎い。憎み切って、全て終わって、どうでもいいほどに、疲れた。生きるのにも、疲れた。ひとの命を食った。それを認識した。何にしがみついて生きているのか判らなくなった。見える世界は全て数値に変換され、言葉も判らなくなった。生きるのも辛くなった。崩壊して異世界に取り込まれ、卑怯にも死んで行く事を望んだ。それに憧れた。疲れていた。何もかも失望するにさえ値しなかった。自分にさえ。憎いと思うのすらも億劫だった。

 あの日、

 あの時、

 太陽に炙られて溶けそうな笑みを目にするまでは。

 儚く消えた微笑みを見るまでは。

 欲しかったのではない。手に入れたかったのでもない。ただその…氷細工のように脆い笑みを、護りたかった。

 それだけでよかった。

 恋をした。

 次は、そのひとを愛し続けようと思った。

 いつか来るお終いまで。

 願わくば、永遠に来ないで欲しいお終いまで。

 生れて始めて、何かを「望んだ」。

 だから……………。

                  

「わたしの邪魔をするな。例え一瞬前まで憎み切った世界だとしても、そのひとが居るだけで全て許せる。そのひとが穏やかに暮らすためならば、憎んだ事さえ忘れられる。わたしはわたしのためには指一本動かすつもりはないが、そのひとがわたしの側に居てくれるというなら、死なない覚悟も殺す覚悟も出来ているぞ」

「あああああ…、あああああああああああああああああああ!」

 少年は、いきなり脳の中に響き渡った冷たい声に恐怖して、頭の枷をますます掻き毟りながらついにその場に蹲り、喉が張り裂けそうなほど悲鳴を上げた。

 恐い。自由になりたい。楽しく暮らしたい。幸せになりたい。笑って過ごしたい。恐い。恐い。恐い!

=憎い。

 バイザーの中で見開いた少年の目を、間近であの、鉛色の眼が覗き込んだ。

 冷え切った、機械のような、不透明。

「あああああああああああああああああああああああああ」

 広場の片隅に座り込んで天を仰いだ少年が、中空に両腕を突き出す。

「タスケテ」

 かさかさに乾いた唇が押し出すように呟いた刹那、四方の路地から紺色の人影が次々広場に踏み込んでくる。しかし少年はそれに向ける意識なく、ただ天に突き上げた両手で虚空を掴み、がたがた震えながら、「タスケテ」、と呪詛のように繰り返した。

         

         

 連隊の警備兵があらまし広場付近に集結した頃になって、ギイルがカーキ色のマントをはためかせて到着した。

 彼を迎えて道を空けた部下たちが当惑するように大柄な上官を振り返ったのに、ギイル・キースは苦笑いでばかでかい肩を竦める。

「アレだよ。天下のハルヴァイト・ガリューともあろうモンが、あんなガキ相手に何をしでかしてんのか、なんて野暮な事聞くなよ、おまえら。見た目はひょろついた優男なんだけどさーガリューてのは、ああ見えて、手加減も容赦も知らねぇ立派な欠陥人間なのよ、あいつは」

 だから相手が子供だろうがなんだろうが、やる時は徹底的にやってしまう。

「廃人にでもする気かね? まぁ、そうかもな」

 戸惑う部下に蹲る小さな背中を遠巻きに包囲するよう指示し、ギイルは溜め息を吐いた。

「憎む」事で自我を失わず、訓練もなしに顕現してしまったあの「悪魔」を制御していた、少年の頃のハルヴァイト。今でもギイルが思い出すのは、最初に出会った時の暗い、疲れ切った表情の少年と、その少年を抱き締めるように…護るように寄り添ってしゃがみ込んでいた、鋼色の「ディアボロ」。

 その時からハルヴァイトは狂っていたのではないか、とギイルは、今でも思っている。

「んじゃぁ、今のガリューをガリューとしてるのは何なのか、ってのも、無粋な話なのよね」

 ドレイク・ミラキか。唯一の血縁者である兄。その兄に繋がる人たちなのか。ハルヴァイトの「友人」や「部下」となり得た一握りの…。

「判ってますよ、おれはさー。ドレイクでもねぇし、上官でも部下でもねぇ…、ガリューをなんとか「この世」に繋ぎ止めてんのは、結局、ミナミちゃんなんでしょ」

 ギイルが何となく溜め息と呆れた笑いを漏らした刹那、天を仰ぎ何かを掴むように両腕を延ばしていた少年の全身がびくりと痙攣した。

「…………?」

 何か、悲鳴のようなものが聞こえた気がして目を細めたギイルが再度少年を見た、途端、真っ赤な光が少年の真下から爆発的に放出され、周囲を固めていた警備兵や広場に点在するベンチや人工樹木までもが、一瞬で………薙ぎ倒された。

  

   
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