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    9.アザーワールド オペレーション    
       
(4)そんな顔をしないでください。

  

 (4')

         

         

 次の日の朝、本来なら九時前後になされるはずの報告をわざとのように早めたハルヴァイトが、今にも荷電粒子の雨を降らせそうな顔で特務室に現われたのを迎えたのは、見知った顔の若い衛視ひとりだった。

「室長は陛下執務室に行っておられます。班長は緊急命令で自宅待機、次長は…」

 そこで言葉を区切った衛視が、びく、と肩を震わせさり気なく後退さる。

「…私室でお休みになられているのですが、ガリュー小隊長のお時間がよろしければ、そちらで報告を頂きたいと…」

 衛視は。

 警備軍に入り近衛兵に取り立てられて、ようやく一年ほど前に特務室詰めになった彼は、陛下の側に控える栄誉に、例えばこの身を賭しても陛下をお護りすべし、という特務室の信条を貫き通したいと思っていたし、多少の危険も経験して来た。

 のに。

 ドアの前、数メートル離れた場所で倣岸に腕を組み佇んでいるハルヴァイトに一睨みされただけで全身を萎縮させ、背中と脇の下に冷たい汗を掻き、声を震わせて、その……不機嫌極まりない電脳魔導師から目を逸らしてしまったのだ。

「…そうですか、ありがとう」

 ハルヴァイトは素っ気無く答え、勝手に室長室のドアをくぐった。その時、青ざめて俯いた衛視の横顔が視界に入ったが、彼はそれについて何の感想も抱かない。

 いや。衛視のくせに、うちの部下より気が小さい。くらいは思ったのか…。

 そう考えると、第七小隊の部下たちは化け物じみた強心臓ではないだろうか。こんな状態のハルヴァイトにわざと脅えて見せたり(…アン少年は半分以上本気で怖がっているようだが)はするものの、執務室を逃げ出すような真似はしないのだから。

 それについて、一度デリラがこんな事を言っていた。

      

「? 恐くないかって、そりゃ恐いさね。大将は………いや、大将がね、本気で怒ったら城なんて塵も残らねぇでしょうから。

 でもウチの大将は、自分で言うほど狂っちゃいねぇね。それどころか、臨界そのものを「制御」してんじゃねぇかと思う時さえある。それで、なんでオレらが大将と上手くやってるかつうとね、別に無理してんじゃなくて、単純に、「好き」なんだと思うね」

       

 だからなぜ「好き」だと思えるのか、と訊いている、などという愚問を重ねる質問者に、デリラは笑ってこう言い返した。

       

「じゃぁなんであんたらは、大将が好きになれねぇのかね」

       

 結局その質問者は、デリラが言いたかったのは何なのか判らないままに終わる。

 室長室を突っ切って陛下執務室への扉を抜け、薄暗い廊下を少し進んで、そこに二つ並んだドアの前で立ち止まる。ここには、以前何度か…篭城騒ぎを起こしたミナミをなだめ透かしにやって来ていたので、どちらが彼の部屋かはとうに知っていた。

 ノックして、応えを待つ。

「どうぞ」という弱々しい声は、二呼吸程後だった。

「……おはよう、ミナミ………」

「おはよ」

 カーテンを引いたままの室内、そこに置かれた肱掛椅子に座っているミナミはなぜか、制服を着ていなかった。

「昨日特務室に顔出した時大荒れだったって、ヒューから聞いたけど?」

「…どこかの恋人が、わたしの顔など見たくないと言ったらしいので。しかも…具合が悪かったとか?」

「うん、もう、最悪だった。そんで、あんまり酷いんで、陛下付きの医者に症状話したらさ、薬品アレルギーだろうって」

「……………………」

 平然と嘘を言うミナミの顔を、ハルヴァイトがじっと見つめる。

「頭痛薬、ここの常備品のそれに、なんかダメなのが入ってるらしい。そういやぁ似た事前にも一回あったって言ったら、ちゃんと検査してやるから採血しろって言われて逃げて来たけどな」

「…それは………………」

「あのさ」

 肱掛椅子に収まって疲れた溜め息を吐いたミナミがハルヴァイトを見上げると、彼は、心配してるのか硬直してるのか判らない顔つきで、「はい」と短く答えた。

「どうしようもなく気持ち悪くて、吐いたらすっきりするって時、アンタならどうする?」

「あまりそういう経験はないので判りません…けど」

「水飲んでジャンプすんだよ。そうするとますます気分が悪くなって、んで、吐いたらなんともなくなる」

 無表情にそう言い放ったミナミの顔を一瞬凝視し、そこでようやく、ハルヴァイトはがっくり肩を落して溜め息を吐いた。

「というか…ミナミ…………」

「何?」

「そういう時はジャンプする前にさっさと家に帰りなさい!」

 ガリュー小隊長、ちょっとキレ気味…。

 鉛色の瞳で睨まれたミナミが、肩を竦める。

「目眩が収まってる今のうちに家帰るよ。休暇も申請して受理されたから、暫くは…………家にいるし」

 そこでハルヴァイトはなぜか、きょとんとミナミの顔を見つめてしまった。

「………家にいる?」

「うん。最近疲れ気味らしくてさ、体調不良が原因で普段なんともねぇ薬品にアタるらしいって医者が言うモンだから、結局、室長に休暇「命令」出された。だから、ここでアンタの報告だけ聞いて、室長に書き置きしたら帰っていい事になってる。…アンタ、今日下城だろ?」

「はい…」

「迎えには来られねぇけど、アンタが帰って来る頃には食事の支度も終わってるだろうから、寄り道しねぇで戻って来るように」

「…………はい」

 それで、…たったそれだけの事なのだけれど、ハルヴァイトはそれまでの不機嫌をさっさと忘れた。

 ミナミが特務室詰めになってからこちら、ハルヴァイトの休暇に関わりなく、彼にもそれなりの仕事があった。クラバインは随分気を遣ってくれているようだが、結局、陛下の予定に合わせて特務室を空にするクラバインの穴を埋めるため、ミナミはハルヴァイトを自宅に残し城に出向く事もあったのだ。

 普段はそれを「それぞれ仕事ですので仕方ありません」などと言ってはいるものの、基本的にミナミを側に置いておきたいだけのハルヴァイトなのだから、その、当たり障り無い意見を述べるのにしても、内心は複雑だったのだが。

 それが、出掛けないという。

 これは久しぶりに、清々しい気持ちではないか?

 黙り込んだハルヴァイトの顔を、ミナミは肱掛椅子に座ったままじっと見上げていた。別に表情が大きく動く訳でもなかったが、鉛色の瞳が微かに微笑んだのにミナミは……。

 ミナミは。

 罪悪感に溜め息さえ出ない。だからミナミはいつもと同じ無表情でハルヴァイトを見つめ、どうすればこの恋人が自分を「嫌い」になってくれるのか考え、そうするしかない」のだと………諦める。

 お終いのラインを自分で引く。

 手にべたついて不快な赤いクレヨンで、足下に線を一本。

 そのこちら側にハルヴァイトを残し、それ以外…ミナミがハルヴァイトの元にやって来てから知り合った人たちを全て残し、ミナミだけがそのラインを割り込む。

 手短に報告を受けて、ミナミは肱掛椅子から立ち上がった。

「室長への届けは自宅からでもいい事になってるから、俺、とりあえず帰る」

「はい。気を付けて」

「………………うん」

 言って、椅子の背に掛けていたハーフコートを羽織るミナミを、ハルヴァイトが待っている。支度を終えて忘れ物がないか一度振り返ったミナミがドアに顔を向け直すと、ノブに手を掛けたままの恋人は少し考えて、それから、ちょっといたずらっぽく笑った。

「キス」

「? …何?」

「してもいいですか?」

 背の高い恋人は囁いてミナミのために身を屈め、ミナミはハルヴァイトの正面にそっと寄り添って、「いいよ」と…短く答えた。

 目を閉じて、唇の触れる感触。くちづけ。

 その素っ気無い刹那に含まれた「意味」にミナミが気付いたのは、いつだったのか。

 唇が離れて、ミナミはすぐに瞼を上げた。

 くちづけ。そのひとの口に上らない幾つもの言葉を纏めたそれを知っていながら、ミナミは拒否する事も出来ず、受け取る機会を放棄し、卑怯にも、また…逃げ出すだけ。

「では、また夕方」

 戸惑うミナミを残し、ハルヴァイトは踵を返して廊下へ出て行ってしまう。やたら心配性だったり過保護だったりするくせに、こういう引き際は腹が立つほどあっさりしている恋人を、ミナミは今日も少し恨んだ。

 恨んだ。

 脅えてもいたけれど。

 もしかしてハルヴァイトが今まで一緒に暮らした数多(あまた)と同じに、「判っている」と言いながらミナミを少しも判ってくれなかったとしたら、衝動的に抱き寄せて恐怖で締め括ってくれるひとであったなら、ミナミはきっと、こうも脅えて暮らす事はなかっただろう。

 自分に。

 見られたくない本質を抱えた、出来合いの自分に。

 慮辱し尽くすのと同じだけ不様な醜態を晒した五十八人と同じ、自分に。

 脅えなくて済んだ。

「……………………。アンタちっとも、優しくねぇよ…」

 ミナミは呟いて、私室を後にした。

  

   
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