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    9.アザーワールド オペレーション    
       
(5)もう、言う事は何もありません。

  

 (5')

         

         

 少ししかない荷物を纏め終えて、階下へ降りる。

 朝というよりも昼といった方がいい時間。休日がいつもそうであるようにミナミもハルヴァイトも食事をしていなかったので、何か作ろうか、とミナミがキッチンに行ってから随分経つが、一向に出てくる気配はない。それで、彼が何をしているのかと訝しんだハルヴァイトがリビングに繋がるカウンターから顔を覗かせた時、なぜかミナミは、シンクの前に立って何か果物を………ふたりで食べるとは思えない勢いで剥いていた。

「何してるんですか?」

「? あぁ…。冷蔵庫見たらさ、桃が悪くなりそうだったから、ケーキにでもしようと思って」

「はぁ…。手伝いましょうか? 何か…」

「アンタに出来る事つったら、少ねぇけどな」

 微かに笑いを含んだ答えに、ハルヴァイトが苦笑いを返す。それで、もっともだ、と同意してしまう辺り、ミナミが居ない時はどうやって暮らしていたのか自分でも不思議だった。

「とりあえず、コーヒー煎れねぇ? 後、手が空いたらパン暖めてくれればいいや」

 判りました。と笑顔で答えたハルヴァイトが、キッチンに入って来る。ミナミでは、背伸びしてなんとか手が届く、という高さの戸棚を気軽に開けてミルやポットを取り出すハルヴァイトをなんとなく見上げ、ミナミはぽつりと呟いた。

「背丈は十センチしか違わねぇのに、なんでアンタはそう楽そうなんだ? 俺はいつも奥まで手が届かねぇんで、大変なのに…」

「背丈は十センチしか違いませんが、ミナミは華奢ですからね、腕の長さも違うでしょう?」

 まぁ、十センチも違えば大違いか、などと思いつつ、ミナミは果物ナイフを置いて腕を伸ばしてみた。

 ハルヴァイトに比べたら、まるで子供か女性のように細い腕。確かに相手は軍人でそれなりに訓練も受けているのだから、監禁されて育ったミナミと骨格からして別の物だと言えなくもないが、さすがにこれは同じ男としてどうか、と思わずミナミは、難しい顔でハルヴァイトの大きな掌を…睨んだ。

「……ヒューがさ」

「?」

 細い指を握ったり開いたりしながら、ミナミがなんとなく言う。

「ああ見えて、結構腕とか太いんだよな。なんか、格闘技の専門家らしいから、当たり前なのかもしんねぇけど。それで、警護班にアウスってのがいんだけど、背丈は俺よか小さいのに手首が倍くらい頑丈そうで、身体の厚さも倍くらいあって、どうやったらそうなんのか聞いたらさ…」

 鉛色の瞳の中で、ミナミが呆れたように笑った。

「次長はそのままでいいです、って言われた」

 それでハルヴァイトも、微かに笑う。

「わたしもそう思いますよ」

 たったそれだけを答えて、ハルヴァイトは背後のテーブルに向き直ってしまった。

 結局、そういうひとだった。最初の頃よりハルヴァイトの口数が減ったのはいつからだったか、ミナミは思い出せない。それほど自然にこの恋人は、肯定か否定かだけを答え、すぐに口を閉ざしてしまうのだ。

 それをどう受け取るかは、自由。

 だからそれをミナミは、ハルヴァイト・ガリューなのだと思う。

 言葉を知らないのではなく、会話の仕方を知らなかったひと。データでしかない「言葉」を…信用出来ていないひと。

 城にいる時分はもっとまともだと思うのだから、これは自宅に戻ってからだけだと言える。という事はつまり、ハルヴァイトは城に居る時内心の「面倒」を黙殺し、当たり前に振る舞って見せているのだろう。

 がりがりと豆を挽く音。それから目を逸らし、結果的にハルヴァイトから視線を外して、ミナミは………………。

           

 何も、感じない。

           

 ミナミがケーキを焼く傍らで簡単な食事を終えたハルヴァイトは、いつものように小難しい本を抱えてリビングのソファに寝転び、時々コーヒーを煎れ直したりしながら午後いっぱいを過ごした。

 手が空いたミナミがリビングに戻ると、本から視線を上げたり上げなかったりのハルヴァイトが何度か部屋から運んで来ていた本がいつの間にか溜まっていて、ミナミはちょっと興味有りそうにそれをひっくり返しては、「ほんとに読めてんの? アンタ」とハルヴァイトをからかいながらそのうちの何冊かを斜めに透かして見たりしたが、結局意味不明の幾何学模様で何かが判る訳も無く、音を消したテレビに見入り、ケーキの具合を見に行ったりして、なんとなくゆったりと時間は過ぎる。

 ミナミは結果的にケーキを二個も焼き、ようやくそれをキッチンの戸棚に収めて片付けを済ませた頃にはすっかり陽も傾いたのに、なぜかリビングは…薄暗いまま。

 見れば、ハルヴァイトはソファで寝ていた。

 低い肘掛けから、持て余した足がはみ出している。読みかけの本を身体の上に乗せそれを片手で押えているのは、きっと、寝るつもりなどこれっぽっちもなかったのに「つい、うたた寝」だからだろうか。

 今日は括っていない鋼色の髪が淡いベージュのソファに流れ、キッチンから射し込む灯かりに、微か、特徴のある銀色の光沢が映える。

 少しの間ミナミは、無言でそのハルヴァイトを見下ろしていた。目を覚ましてしまうだろうか? と思ったのは一瞬だけで、後は、長い睫だとか整った顔だとかに気を取られて、ぼんやりと何も考えず、恋人の寝顔を見つめていただけだったけれど…。

 何も考えず。あまりにもいろんな事を考え過ぎて。何を考えているのか判らないから。何も、考えていない。

         

 夢を見た。多分、二度目の。

 甘い果実の香りが微かに揺らめき、何か…冷たい何かがすうっと頬を滑って、それが何なのか思い出そうとする夢。

 それから、何か…知った何かが唇に触れ、それが何なのか思い出そうとする、夢。

…………夢。

        

 まるでそこだけ時間の流れが違うもののように、ハルヴァイトがゆっくりと瞼を持ち上げた。

「…終わったんですね」

「うん、終わった。今冷ましてるトコだから、アンタの口に入るのはもうちょっと後だけどな」

 ソファに寝転んだまま、ハルヴァイトは佇むミナミに薄い笑みを向ける。

「お疲れ様でした」

「…どうしても留守にする事多いんだから、あんま日持ちしねぇもん置けねぇな、これから」

 無表情に見つめて来るミナミから視線を逸らさずに上半身を起こしたハルヴァイトが、手にしていた本を足下に置く。と、それを目だけで追っていたミナミが微かに口元を歪めて身を屈め、ハルヴァイトの回りにただ置かれている本を重ねてテーブルの上に移動させてから、空いたソファに腰を下ろした。

 肩先が触れそうで触れない、微妙な位置を保ったままで…。

「…………美味しそうな匂いが…」

 ミナミに顔を向けたハルヴァイトが笑いを噛み殺しながら呟くと、ミナミはちょっと不思議そうな顔をして、慌てて腕を上げ顔の前に翳した。

「エッセンスと桃じゃねぇ? これじゃぁ………ハラ減らねぇ訳だな、俺」

 半日以上ケーキに構っていたせいか、ミナミの全身から甘い桃の香りが漂ってくる。なんとなくそれに誘われて恋人の髪に顔を近付けたハルヴァイトが、ふと、間近でダークブルーの瞳を覗き込んだ。

 リビングの灯かりは落ちている。射し込んでいる白い光はキッチンからの物で、それがミナミの蒼い目を透かしていた。

 その、観察者の瞳がハルヴァイトを見つめ返す。

 それでふたりは何も言わず、お互いの体温が感じられそうで感じられないぎりぎりの距離を保ったまま、無関心に流れる時間に取り残されてしまったかのように動きを停めた。

 それでよかった。ハルヴァイトは。

 ミナミは。それに耐えられなかった。

 甘い香り。

 何か言いた気に瞬きしたミナミにそっと朗らかな笑みを見せてから、ハルヴァイトが吐息のように囁く。

「……………キスしていいですか?」

 繰り返される質問。ない時もある。

 どれを問い、どれを問わないのか、その基準はなんなのか、ミナミは…知っている。

「いいよ」

 だから、繰り返す答え。

 こう答えていいのか、ミナミはいつも迷った。

 今日は迷わなかったけれど。

 そのまま瞼を閉じると、刹那の後、唇だけが触れ合う。最初の頃は掠めるように、それから徐々に少しずつ長く。そして今日、こう問い掛けた後ハルヴァイトがミナミから攫って行くのは、スティールだというそのひとが誰よりも鷹揚にミナミを許しているのだと知らせる、触れるだけなのに温度の高い、くちづけ。

 足下に引いた赤いラインを割り込むまでの、柔らかなくちづけ…。

「あのさ…」

 唇が離れて瞼を持ち上げ、ミナミはそっと囁き返した。それに、ハルヴァイトは小首を傾げる仕草だけで先を促がす。

「……………触っていい?」

「どうぞ」

 ほころんだ口元に、罪悪感。

 ミナミは恐る恐る腕を上げ、ハルヴァイトの頬に掌を当てた。

 何も感じない。そうじゃない。恐くない事に怖さを感じる。体温だとか感触だとか、まるで……………あの男……………とは違うのだと思えて、ミナミは安堵し、恐怖に脅える。

 きっと、二度とこんな風に誰かに触れる事は、出来ない。

 してはいけない。

「…キスしていい?」

「どうぞ」

 短過ぎる答えを待って、ミナミはハルヴァイトに…もしかしたら最後の…くちづけを捧げた。

 最後の。

 意味のある。

 くちづけだった。

  

   
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