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番外編 引越し日和

   
         
1)午前十時

  

 昨日の晩も随分と遅くまで起きていて、自分を含む周囲が大きく様変わりしようとしているのだと改めて感じたりして、ちょっと、嬉しかったり複雑だったり沈んだり浮上したりして、つまり? なんだか気ばかり忙しなくうとうとと夜を過ぎて朝になり、ベッドの中でまどろんでいたのに、突然、衣装部に呼ばれていたのを思い出し部屋を飛び出した、午前十時。

 今は準備期間としての自由登城だったからその約束も時間厳守という訳ではなかったが、新第七小隊の編成だとか特務室の増員だとかで、確か、お城の衣装部もてんやわんやなはずなのだ、小さな予定のズレが後々重大な問題にもなり兼ねない。

 だから、慌てて城へ向かい、息を弾ませて衣装部に転がり込む。汗だくで、しきりに「遅れてすみません」と謝る彼に椅子と紅茶を笑顔で勧めてくれたのは、衣装部統括でありデザイナーでもある、アイリス・エガールだった。

「こちらこそ、お休みのところわざわざお越し頂いて申し訳ありませんでした、ルー・ダイ魔導師」

 デザイナーという肩書きに似合わぬがっちりした体格のアイリスに言われて、上品な肘掛椅子にちょこんと納まったアン・ルー・ダイが、改めてその「魔導師」という言葉を噛み締める。

 なんとなく歯痒い。まさか本当に、自分がそう呼ばれるとは…。

(夢にも思ってなかった、ってのも…大袈裟じゃないんだよね、ぼくの場合…)

 順番待ちですからごゆっくりどうぞ。とアイリスに告げられたアンが、いつまで経っても愛らしい小作りな顔に笑みを浮べて、ぺこりと頭を下げる。その仕草になのか、なんなのか、アイリスはちょっとだけ目を見張り、すぐに相好を崩して再度会釈すると少年の前から離れた。

 それで、壁際に並んだ椅子と円卓の列に取り残されたアンは、頂いた紅茶を手に室内をつらつらと眺めたりして時間を潰した。ひっきりなし、というほどでもないが比較的頻繁に人が出入りするのか、縫製室に続くドアはいつも開け放たれており、警備軍や近衛兵団、技士の制服などを抱えた職員が足早に行ったり来たりしている。

 試着室らしい斜幕で囲われたブースが五つ、アンの右手、縫製室から見て正面にあり、そこはアイリスの言う通り満員らしく、全てカーテンが引かれていた。

 衣装部と言えば、以前ウォルがミナミに何か作って着せようなどと言っていたのを思い出し、アンは表情を曇らせた。和やかな思い出、ささやかに続くささやかな幸せが取り返しの付かない不幸に転落する前、陛下ではないウォルが楽しそうにしていたのこそ、夢のようだと…憂鬱な気持ちになる。

 でも、と少年は、あの騒動の中で衛視になると決めたアンは、自分の気持ちを奮い立たせるように表情を引き締めた。

 だから衛視になる。だから魔導師になった。それだけが全てではないけれど、自分に出来る事が残されているのなら、微力であっても精一杯やるだけやって、その上で、どういう結果が出ても後悔しないと、あの日、あの場所に居合わせた誰もが決めたのだ。

「キューブ」顕現の後アンは、従兄弟であり魔導師でもあるマイクス・ダイと食事に出かけた。その時、ふたりはまず頭を下げて謝り合い、ダイ系魔導師として伴に協力しようと握手し、笑ってお互いを許した。

 しかし彼らはそれを、それぞれの家族に告げていない。マイクスは是非アンの屋敷に赴いて両親と兄たちにも謝りたいと言ったが、アンの方が、それは必要ないと断った。

 まず、家族には自分が何かを示さなければならないと少年は言った。三流貴族の末っ子魔導師。しかしアンは自らの努力で、「魔導師」、「衛視」という地位に着き、だから、家族にも胸を張って欲しい。

 でも、アンの「地位」の上にただのさばって欲しくないとも思う。

 余計な憂鬱まで思い出して短い溜め息を吐いたアンに、通りすがりの職員が声を掛ける。「お疲れですか?」。慌てて顔を上げ、「いいえ。みなさんお仕事お忙しいのに、お休み中のぼくが疲れてるなんて、そんな訳ないです」。

 とそこでもまた、職員は先のアイリスみたいにちょっと目を見張った。

「…えと、何か?」

「あ、いえね…」

 アンの前で足を停めた職員…針子が、少し困ったように苦笑いする。

「普通、魔導師の方はそんな風に仰ったりしないもので…」

 言われて、思わず唸る、アン。確かに、同じ質問を比較的人当たりのいいドレイクにしてみても、返ってくる答えは「なんでもねぇよ」程度かもしれないなと思う。

 そこで少年は、偉そうにする努力はどうなんだ? と自問した。いかにも魔導師らしく振る舞うのもお勤めかしら、などと余計で無駄な思考を遮ったのは、乱暴に扱われたカーテンの上げる抗議の騒音と、「傑作だ!」というアイリスの興奮した声だった。

「傑作だよ、傑作! 見てくれ、この、絶妙のバランスで切れ込んだスリットと、野暮ったくないラインを! それにこの、微妙なラウンドを入れたサイドベンツ!」

 熱愛真っ最中みたいなアイリスの声に唖然としたアンが、ぽかんと口を開けたまま凝視した先には、見慣れているようで微妙に違う、漆黒の長上着…。

「デザインの変更に伴って従来のものよりも幅を広げたベルト。しかも、ジョイントを左右前面に置く都合上、この幅も緻密に計算し思考錯誤を繰り返しだな!」

「……」

「何気無い左右のスリットにもわたし渾身のデザインが生きているのだ! 見よ! 前後と左右で開始点が違うだろう? これが…」

 などと、着込んでいるモデルの当惑、または冷えた視線などお構いなしで、アイリスは彼を強引に降り返らせ、集まって来た針子たちに何かを熱っぽく語っている。

「素晴らしいよ、素晴らしい! このわたしっ!」

 きっと自分に対してなのだろう、ぱちぱちと忙しく拍手するアイリスの表情をげんなりと見つめ、ついにモデルが口を開いた。

「中身がいいから素晴らしく見えるんじゃないのか?」

「ちょっとそう思いそうになったんですけど、自分で言ったからダメです。イメージダウン」

 興奮気味のアイリスに唖然とする針子たちの向こう側から素っ気無く突っ込まれて、モデルが薄い唇を歪める。

「突っ込んでくれてありがとう、アンくん。ここで放置されたらどうしようかと本気で思ってたところだ」

「…じゃぁ、ぼくが居なかったらどうするつもりだったんですか? ヒューさん」

「君が来てると判ってたから言ったんだがな」

 まだ何か言い足りないアイリスを無視して、モデル、ヒュー・スレイサーは、漆黒の長上着に流れる銀髪を微かに揺らし、小首を傾げた。

       

        

「警護班の制服を新しいデザインに、ですか?」

「ああ」

 だからなんだ、と続かないセリフにも、アンは動じなかった。着丈と袖丈の最終微調整をするからと着せられた仮縫いの制服に袖を通しつつ、正面の鏡に映るヒューの横顔に視線を流す。鏡の中では、退屈そうに腕を組んでいるヒューの後で、アイリスが裾のしつけ糸を解き丈を延ばす作業に没頭していた。

「邪魔じゃないんですか? 裾、そんなに延ばしちゃって」

 ふたりの針子がアンを囲み、忙しく手を動かしているのに目だけを向ける、ヒュー。どちらも「動かないように」と言い渡されているので、顔を動かしたりはしない。

「膝に当たるより脛まで長い方が捌き易い」

 その辺り、組み手ではほとんど使い物にならないアンにはさっぱり訳が判らなかったが、ヒューには何か基準があるらかった。

「こんな塩梅でどうです? スレイサー衛視」

「はい。では着丈を見ますから、背中を向けてください、ルー・ダイ魔導師」

「はーい」

 答えてアンが鏡に背を向けるのと同時に、ヒューがアイリスを手で下がらせる。それから、歩き回る針子たちを見回し、自分の周りにある程度の場所が確保されているのを確かめてから、ゆっくりと垂直に両腕を上げた。

「ああ、確かに前より動き易いか。前の制服はサイドベンツだけだったから、腕を上げると肩が引っ張られる感じがしたからな」

 目を凝らしてみれば、新しい警護班の制服には上腕部にも隠しスリットがあった。だから、頭上に掲げた左腕を肘から折り曲げて頭の後ろに持って来ても、上腕部が引き攣れないらしい。

 ストレッチというほどでもないのだが、腕を伸ばしたり身体を折り曲げてみたりするヒューの背中を、アンは大きな水色の瞳でじっと見つめていた。長い銀髪がゆっくりと軌跡を描く、広い背中。長身痩躯ではあるもののそれなりに厚みもありバランスのいい全身が、流れるように旋廻する。

 それは、荒さの欠片もない、目を奪われるような綺麗な動きだった。

「ちょっと、このまま実戦室に行っていいか?」

「ダメです。まだ完成品じゃないんですから、うろうろ歩き回られては困ります」

 作り笑顔の申し出をにべもなく半眼で跳ね返されて、ヒューは唸った。今の制服では動きを制限される。その問題を解消するために制服を新しくするというのに…。

「実戦なしじゃどこがどう変わったのか判らないだろう」

「じゃぁ、ここで試してください」

「…は?」

「未完成品を他人に晒すくらいなら、ここで組み手して貰う方がマシです!」

 そこでアンはなんとなく、アイリスの掲げたデザイナーのプライドに対して、やる気なく拍手してみた…。

      

       

「という訳なんだがな、ルード…」

「はぁ…。何が、という訳、なのかが今ひとつ理解出来ません、班長」

 突貫で片付けられた室内中央部分に向かい合って佇むヒューとルードリッヒが、無表情に呟き合う。

「制服の仮縫いだって聞きましたけど」

「だから、仮縫いの真っ最中だ」

 なんとなく見学モードで衣装部に居残ったアンは丁重にもてなされ、アイリスと一緒に円卓に着かせられて、居心地悪く紅茶など頂いていた。帰って引越しの準備をすると言うアンを引き止めたのはなぜか衣装部のお針子たちで、ヒューは失礼にも「帰らないのか?」と少年を追い返そうとしたのだが。

「仮縫いと衣装部で組み手、の関係は?」

「専門家には逆らうな、かな」

 気安い会話の最後を締め括った、ヒューの溜め息。それを合図になのか、ルードリッヒは小さく吹き出しながらも左右に拳を作って攻撃の構えを取り、ヒューはルードリッヒに対しやや体(たい)を左斜めに開いた状態で両腕を垂らした。

「では、お願いします」

 囁くように告げて、瞬間、ルードリッヒの身体が水平に高速で滑る。

 やや重心を低く攻撃の構えを取ったまま、前に出した足裏を滑らせて間合いを詰める。その時殆ど頭部が沈まないのに、ヒューの口元に淡い陰影が浮んだ。

「ああ、そうか。ひとつ言うのを忘れてた、ルード」

 すり足の右が絨毯を噛み、捻りの利いた右の正拳が胴体の真ん中を狙って突き出されたのを軽く後に退いてやり過ごしたヒューが、含み笑いで呟く。

「目的が仮縫いだけに、今日はリーチいっぱいで」

「! 先に言ってくださいよ、班長!」

 ルードリッヒは咄嗟に、更に踏み込みかけた爪先で強引にその場に留まり、身体を垂直に沈ませた。刹那、青年の頭上をヒューの裏拳が薙ぎ払う。その勢いといい高さといい、避けられなければ確実に側頭部を強打され、一瞬で勝敗が決まっていそうな本気の一撃だった。

「………手加減とかないんですか…ヒューさんには」

 沈んだ身体を起こさず床を両手で掴み、折った膝で足首を狙ったリーチの短いローキック。半ば滑り込むような形の足技は、正直、相手がヒューだけに自殺行為かとも思えるが、ギャラリーが多い上に部屋が狭いという悪条件を加味して、ルードリッヒは強引に責める。

 つもりはあるのだが…。

「状況判断もまぁまぁ。ただしお前、俺を舐めてないか?」

 相変わらず腹の立つほど涼しい声で言い放ったヒューは、滑り込んで来るルードリッヒの蹴りを避ける素振りなど見せず、左前方から襲いかかったハイスピードの膝打ちを、軽く持ち上げた左の踵で蹴り返した。

「!!!!! てか、舐めてませんよ! 今のは充分本気です!」

…………。何がどうなっているのだろう、とアンは、蹴り戻された膝を庇って床を転がり、果敢にも跳ね起きたルードリッヒのいかにも痛そうな顔を見ながら思った。片やスピードに乗った膝蹴り、片や軽く踵で後ろに蹴っただけだというのに、なぜ膝へのダメージが大きいのか。

 問題は硬度とベクトル、ちょっとしたコツ。

「派手な大振りするんじゃないんですか、班長」

「ああ、忘れてた」

 抗議の視線を受けてわざと大袈裟に肩を竦める、ヒュー。

「うわー…、ヒューさんてヤな上官だなー」

「でしょう!」

「……君が言うな、君が」

 アンの呟きに苦笑いで突っ込んだヒューの懐に飛び込む、ルードリッヒ。近距離で繰り出された拳が脇腹に襲いかかる。

 左斜め下から胴体を狙った一撃が急浮上するのを気配で感じたヒューは、広げた掌をルードリッヒの腕に沿って前に出し、ガラ空きの内肘に折り曲げた親指の関節を食い込ませて、その腕を捻り上げた。瞬間的に走った痛みで勢いの死んだ腕を引き戻すのと同時に軽く突き飛ばされたルードリッヒがバランスを崩して半歩退いた、瞬間、指先を握り込むように固められた左の拳が、青年の肩口を狙って叩き落される。

 室内に緊張が蔓延する。呼吸も忘れて見入る周囲をよそに、ヒュー・スレイサーは。

 左の叩き下ろしを避けられて、しかし、すぐさま抉るように跳ね上がった右が追撃する。気を抜けば確実に医務室送りという迅速の拳を後に倒れて辛くも避けたルードリッヒが体勢を立て直すより前に、先の攻撃で一歩踏み込んでいた右足を軸にした、斜め下から螺旋を描く後ろ回し蹴りが頭部を襲い、青年はまた横に転がって間合いを抜けようとする。

 その間、アン少年は見ていた。旋廻する銀髪と、長い手足と、それから、まるで生き物のように翻り踊る、漆黒の長上着。

 何かに取り憑かれたような気がした。

 ひとしきりルードリッヒを追い立てて壁まで到達すると、呼吸を整えて肩を竦めたヒューが、拳を下ろし青年に背を向ける。それで組手は終わりだとでも思ったのか、見守る室内に微かな安堵が降りた、瞬間、弾けるように立ち上がったルードリッヒが漆黒の背中に襲いかかる。

 振り返り、繰り出される打撃を掌で受け流す、ヒュー。時間差で襲いかかる二段構えのミドルキックさえも、腕と肘で上手く勢いを殺してしまう。

 下がって、下がって、踝を狙った爪先を避けて一歩大きく踏み込み、結果、位置が変わらない。責められているように見えてもヒューには余裕があり、責めているはずのルードリッヒは自滅寸前だった。

 下から突き上げて来たルードリッヒの拳を横に叩き払ったヒューの左腕が空中で弧を描き、前傾したまま更に踏み込もうとする青年の首筋に、手首による打撃を見舞おうとする。

 それは見切れていたのか、ルードリッヒは咄嗟に身体を左に流して踏み止まったが、リーチを変えた二段目と三段目は、本来ならば、どちらも確実に食らっているタイミングだった。

 空振りの一段目は誘い。短いリーチの高速打撃を避けてバランスを崩したルードリッヒを仕留めたのは、空振りの余韻に見せかけて回転し再度同方向、この場合は青年の右から襲った右の裏拳と、コンマ数秒という時間差で肩口を捉えた右の踵だった。

 がしかし、まさかここで本当に当てる訳にもいかなかったのか、ヒューは最後の最後で手を緩めた。本来なら側頭部を強打するはずの裏拳は床に倒れるルードリッヒの前髪を掠めて引き戻され、霞むように出現した踵は頭上を走り抜け、完全に倒れた青年の頭部を跨いだ向こうに着地した。

「…………」

 しん、と静まり返った室内。

「………肩幅をあと少し出してくれ。それで概ね良好だ」

 ふわり、と翻った裾が落ち着きを取り戻すと、固めていた拳を解いたヒューが言って、うつ伏せに倒れたままのルードリッヒをその場に取り残し、平然と、硬直するアイリスに顔を向けた。

  

   
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