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番外編 引越し日和

   
         
2)午後一時

  

「基本的にですね、相手に、完全に背中を見せる格闘技は多くないんですよ」

 食後のコーヒーを手にしたルードリッヒが、意外にも淡々と告げる、午後一時。

「確か、班長の自宅くらいじゃないですか? そういう流派の格闘技道場って」

「ウチでも、俺と同じ流派でやってるのは師範のフォンソルとすぐ下の弟くらいだ。後は「緩拳(かんけん)」か「速拳(そっけん)」か、「剣舞(けんまい)」とか「演武(えんぶ)」とか、そういう辺り障りのないやつだけだな」

 衣装部から出て、どこかへ行くのも面倒だからと保養施設のカフェで簡単な昼食を摂る事にした、アンとヒューとルードリッヒ。聞けば、わざわざ呼び出されたルードリッヒも、制服の仮縫いに呼ばれていたヒューも、今日は非番だという。

 だから、忙しく出入りする警備兵を横目にゆったりと食事して、そのまま意味もなく話し込んだりしている。

「えと、その四種類とさっきのと、ヒューさんは全部「師範」なんですか?」

 安っぽいレモンソーダを啜っていたアンが水色の目だけをヒューに向けると、こちらは胃の調子が悪いらしく、それでなぜか苦いグレープフルーツジュース(…似合わない)を手にしたヒューが、ちょっと苦笑いする。

「「緩拳」と「速拳」はスピードが違うだけで同じ形だから、どちらも師範。「演舞」も師範だが、「剣舞」は準師範で、さっきの…「一式」はただの黒帯」

「ただのって?」

 きょと、と見つめてくるアンからさりげなく顔を背け、ヒューは短く溜め息を吐いた。

「覚える事はまだ山ほどある。だから、修行中」

 あれで? と言いたい気分でルードリッヒに視線を向けた少年に、青年も複雑そうな表情だけで答える。

「…今より強くなってどうするんですか? ヒューさん。部下の身の安全のために、少し考えた方がいいですよ…、多分」

「俺は強くないよ」

 呟いて、半分以上中身の残ったグラスをテーブルに置き、立ち上がるヒュー。

「さて。いい加減帰って部屋の掃除でもするか」

 椅子の背凭れに預けていたジャケットを取り上げて袖を通そうとするヒューの背中に、ルードリッヒが「班長」と呼びかける。肩越しに軽く振り返って小首を傾げた上官を真剣な面持ちで見つめた青年は、少し迷ってから、その場に立ち上がった。

「評価は」

「訓練中じゃないだろう」

「それは、判っています」

 直立し何かを待っているルードリッヒにサファイヤ色の瞳を向けていたヒューが、ちらりとアンを見遣る。それに当惑してますますきょとんとした少年から青年に視線を戻した「班長」は、ルードリッヒに向き直りもせず言い放った。

「悪い。道場か実戦室は所詮道場か実戦室で、お前以外は「弱い」んじゃなく、お前が「特別」でもなく、俺が「強い」訳でもない」

 その、まるで謎掛けみたいな物言いにアンは首を傾げ、ヒューは口を閉ざして立ち去り、見送るルードリッヒは…。

 どこか笑んだ印象のある柔らかな表情を固くして、ヒューの背中に頭を下げた。

           

              

 悪いというのはそれでもまだ評価して貰える範囲で、警護班の大半は「評価する以前の問題」と言われるんですよ。と、保養施設を出て官舎に戻る道すがら、ルードリッヒはアンに教えた。

 それにしてもあの突き放した物言いはないのでは、とか、ルードリッヒの内情を汲んで、少しは手加減したらいいのに、とか、心にもない慰めみたいなものを口にする事は出来ただろうが、アンはそんな愚行を犯さなかった。

「なんというか、傍から見たら極めちゃってるのに本人が納得してないって上官持つと、苦労しますよね」

 別な方面で、ルードリッヒに共感するところはあるようだが…。

「…それで、アンさんはどちらへ?」

 官舎の入り口を通り越して城の外へ出ようとするアンの背中に、ルードリッヒが不思議そうな顔を向ける。道々、今日中に引っ越しておかなくちゃならないなどと言っていたのに、自室へは戻らないのか? と訊きたいらしい。

「業者さんを頼みに行くんですよ。大した荷物はないんですけど、クロゼットとか、大きなものが二つ三つあって」

 立ち止まったルードリッヒを振り返ったアンが、少し困ったように微笑む。色の薄い金髪に水色の大きな瞳。顎の尖った小作りな顔は、魔導師どころか一般の警備兵にさえ見えない愛らしさで、実はルードリッヒの知る限り、アンの昇格が決まったのを喜んだのは元・第七小隊の面々だけではなかった。

 警備軍ではどうか知らないが、特務室にはアンのファンも多い。

「クロゼットとか?」

「ベッドとか、サイドボードとか」

「一般警備兵用の官舎でしたよね、アンさんのお部屋」

「? そうですけど?」

「荷造りは?」

「終わってます。あとは荷物を運んで…」

「部屋。今度はどこに移るんです?」

 停滞なく繰り出される質問と、どこか笑ったような印象の優しげな表情。何も知らなければ「いい人なのかなー」程度で済んだだろうルードリッヒの人物像がアンの中で極めて不明瞭なのは、彼の片親があのローエンスだと聞いてしまったからだろうか。

「衛視用の特別官舎です。今度は以前よりも不規則勤務甚だしいだろうし、官舎の中でもお城に近いですし、フェロウ室長にも、規則だから移りなさいって言われて」

 なぜかちょっと照れたように笑うアンを見つめ、ルードリッヒも笑みを返した。

 かわいいなぁ。と、思う。なるほどなぁ。とかも思う。

 それから。

(…………………こういうのに弱いのか…)

 ?

「それだったら、業者必要ないですよ、アンさん。この時間なら、暇な連中が官舎の廊下で騒いで寝起きの班長に半殺しにされてるでしょうから、呼んで手伝わせましょう」

 と、笑顔でさらりと言って退けたルードリッヒは、ぽかんとするアンを無視して懐から携帯端末を取り出した。

「あ、ジル? 今、官舎に何人残ってる? え? 動けるのが六人? …班長入れて? 班長別ね…。じゃぁさ」

 その、笑顔ながら有無を言わせぬ強引さというか、もしかしたら他人の話も都合も考慮してくれない遣り方に、アンは納得する。

「…ルードさんて、やっぱりエスト卿なんだ…」

          

           

 アンが管理人室で退出の報告をしている間、ルードリッヒを含む七名がてきぱきと荷物を運び出す。最後に残っていたベッドはどこからか調達して来た大きな布でそのまま包まれ、四人がかりで一階まで下ろされた。

「……それで、なぜ俺まで狩り出されたんだ?」

「……………さー」

 他人に任せて不安なものだけは自分で持ってくださいと言われたアンが抱えているのはそう大きくない箱がひとつだけで、それには、先日授与されたばかりの魔導師の証しと十数枚の臨界式ディスク、それから、何冊かの本しか収められていなかった。

 すっかりがらんどうになった室内を見回して頷き、部屋を出る。普通に生活していた時は何も感じなかったし、正直、この場所にあまりいい思い出もなかったが、いざ出て行こうとすると、何か感慨みたいなものもあった。

 ドアの外に立ち、管理人が鍵を下ろすのを無言で見つめる、アン。そのアンの後ろには、自室に戻って着替え、ベッドに入った途端廊下で部下が野球を開始、五分だけ我慢してから試合を急襲しふたり落として三人目の犠牲者を出そうかとしていた、というヒュー・スレイサーの姿があった。

「アンくんが出てっちゃうなんて、寂しくなるねぇ。たまには、おっちゃんに元気なとこ見せに来てくれよ」

 同じ官舎でありながら、一般の警備兵が使用するものと、貴族用のもの、それに、これからアンの住む特別官舎は、全く別ものと言ってよかった。単純な豪華さだけでも大幅に違うのだが、特別官舎は殆ど本丸の施設と居言ってもいい場所にあり、他の官舎にはないダイニングまで用意されている。

 いつ何時陛下からの召集がかかるか判らない衛視は、全面休暇以外、本丸十二時方向に位置する官舎から出る事は殆どない。敷地も他の官舎群とは離れているし、セキュリティも万全で、そこには衛視以外の人間が入る事さえ出来ないのだ。

 管理人には移転の通達が来ていたが、議会の正式発表までアンの行く先は伏せるようにと書き添えてあったから、中年の管理人はそれ以上何も言わず、ただ頷き、元気でな、とアンに声をかけただけだった。

 離れていく管理人の背中に深く頭を下げ、顔を上げて、溜め息をひとつ…。

「………どうかしたのか?」

 その、少し疲れたような、緊張したような横顔に尋ねながら、ヒューはアンの手から箱を奪い取った。

「あ…、…いえ。引越しって、大した事しなくてもなんか疲れるじゃないですか」

 質問したくせにさっさと歩き出してしまったヒューを追いかける、ぱたぱたした足音。さっき衣装部で会った時と変わって今のアンは、薄いグレーのハイネックにスカイブルーの柔らかそうなショートジャケット、踝の見える丈の木綿の幅広パンツ、という、いかにもラフな格好に、底の薄いデッキシューズを引っ掛けていた。

…いかにもラフといえど、傍らを歩く不機嫌そうなヒューに比べれば、まだマシなのだろうが…。

「というかヒューさん、掃除するんじゃなかったんですか?」

「…改めて室内の惨状を確認した途端に、俺のやる気が挫けた。しかも俺は、昨日三時間ちょっとしか寝てない」

「なら最初から寝る気で帰ってください!」

 アンの咎めるような口調にわざと肩を竦めて見せたヒューは、彼らを待つように口を開けているエレベーターを無視して、廊下の突き当たりにある非常階段まで進もうとした。

「エレベータ、来てますけど?」

「君は使わないだろう?」

 立ち止まってがらんどうの昇降機を指差したアンを振り返りもしない、背中。

「でも、ヒューさん、荷物…」

「………君ごと担いで行けと言われたらエレベータでもいいが、この箱ひとつでへばるほど、俺は虚弱じゃないよ」

 というか。

「昨日三時間ちょっとしか寝てなくて午前中に衣装部で組み手までしたんですから、ここは人として少し弱った方がいいと思いますけど?」

 それでもアンは、少年に気を遣ってくれているのかそうでないのか判らなかったが、アンの法則に則って非常階段を使うというヒューを追いかけ、またぱたぱたと走り出した。

        

         

 つづら折りの非常階段。

 三階降りて、あと一階、という位置で不意に、数段先を歩いていたヒューがアンを振り仰いだ。

「先に行ってる」

「?」

 意味が判らなくてきょとんとするアンの眼前で、光沢のある銀髪が翻る。漆黒の長上着という衛視の制服にも映えるその髪はなぜか、真っ白で飾り気のないプルオーバーにもよく映え、つまり、今日幸運にも目にした警護班の新しい制服に見とれてしまったのも、中身がヒューだったからと認めざるを得ない。

 不公平だよ、とアンはちょっと思った。

 首の部分を水平に切りっぱなしただけの、本当に何の飾りも華やかさもない白いプルオーバーに、合わせた黒いパンツの裾は地面に着きそうなほど長く、踵を潰したショートワークブーツが微かに覗いているというたったそれだけなのに、ヒュー・スレイサーはイヤになるほど人目を引いた。普段の衛視服だとか、前に見た燕尾服だとかならばまだ納得も行くが、ここまでどうでもいい部屋着…というか、ルードリッヒを含む部下たちはパジャマだと笑っていたが…で誰より目立っているというのは、どうにも釈然としない。

 妬ましい訳ではない、が、不公平だとは思う。

「………………………」

 思う。

 そう大きくない箱を抱えたまま涼しい顔で階段を下り切ったヒューの向こうに立つ小柄な人影を認めて、アンは、やっぱり不公平だと思った。

 羨ましい訳でも、ない。どんなにがんばっても、アン少年はヒュー・スレイサーにはなれないのだから。

 ただし、こんな時こんな風に緊張して表情を引き攣らせなくてもいい程度の度胸が欲しいなとは、思った。

 本当に、思った。

「アン」

 最後の一段から平面に降りたアンは、非常扉を塞ぐように仁王立ちしたタイス・ダイを見上げて、ゆっくりと瞬きした。

         

          

 誰かが、羨ましいとか妬ましいとか目障りだとかそうじゃないとか…。余程志の高い清冽な聖人君子でもなければ、そういう感情を全く抱かずに生きて行く事は、きっと、出来ない。どこか卑屈である事。自分を憐れむ事。劣勢を振り翳し弱者である自分を誇張して慰められ、だから少しもわたしには責任などないのだと安堵する。

 それが悪いとは、思わない。

 ただ、もし、判っているのなら、抜け出す努力は絶対に無駄ではないから、顔を上げて前を見据え、振り返って、愚かな自分を悲観するのではなく「幼かったのだ」と認めよう。

 と少年は思う。

 ぱたぱたと聞き覚えのある足音が駆け寄って来たのに、ヒューは振り返らなかった。

「はぁ、やっと追いついた」

「早かったな」

「………ええ、まぁ」

 ごく自然に伸ばした指先でヒューの袖、肘の辺りを摘んだアンが、弾んだ息を整えるように数回大きく深呼吸する。それに合わせて立ち止まったヒューは、少年が歩き出すのを待つようにただその場に佇み、それ以上何も訊いてはこなかった。

「「逃げるのか」って訊かれました」

 ふっと短く息を吐き顔を上げたアンが、何か言いたげなサファイアの瞳を見上げて、ちょっと可笑しそうに呟く。しかしヒューはそこでも何も言わず、だから少年は摘んでいた袖からそっと指を引き剥がし、普段よりゆっくりした歩調で歩き出した。

「「進むんだよ」って答えたら、なんでかな、怒ってましたよ、タイス…。どうして兄さんもお前も、そういう訳の判らない答えしかしないのか、ってね。だから、ぼくね、ちょっとだけ判ったんですよ。どうしてタイスがぼくに意地悪ばっかりするのか。判ったから…」

 色の薄い金髪と華奢な背中を見つめ、ヒューも歩き出す。

「ぼくは判ったから、マイクスも判ってくれたから、いつか、タイスも気付いてくれればいいなと思います」

 何が、とさえ問わない、背の高いそのひとは。

「確かにぼくは「魔導師」ですけど、何も…特別じゃないんですよ」

 タイス・ダイという「無能」な青年が「有能」な兄に抱く憧れと、同じく「有能」であったこの小さな従兄弟に抱く嫉妬に、気付いたのか。

「…どうやってそれを理解して貰って、認めて貰えるのかは、まだ判りませんけど…」

 そこだけ自信なさ気に呟いて俯いた少年の晒す、細い首。小さな背中。情けない事を言ったり半べそをかいたりと急がしいながら、普段のアンは、こういう「本当に弱々しい」ところを周囲には見せない。

 だから、最早「青年」と呼んで差し支えないだろうに、いつまで経っても真っ直ぐで曇りない水色の瞳を天蓋越しの蒼穹に向けている「少年」が本当は、見た目の愛らしさや頼りなさを裏切って、強く柔軟なのだとヒューは思う。

 それでも、少しこころが不安定なのだろうか。それとも、タイスに…何か…責められて、落ち込んでいるのだろうか…。弱音というほどでもないが、そういう沈んだ声をヒューが耳にしたのは、多分、初めてのはずだ。

「本当に、判らない事だらけです」

 前方に見え始めた特別官舎を眺めるアンが、確かめるように小さく呟く。微かな不安と緊張と。一歩進み、そのたび足跡のように取り残される気配の残滓に触れて、ヒューはアンに気付かれないように、少しだけ、口元を綻ばせた。

 光栄だと思った。何か、一生口外したくない秘密を抱えた気分。

「君は、そのままでいいよ」

 頭上からふわりと降った短いセリフに、アン少年が顔を上げる。水色の大きな瞳から目いっぱい問うような視線を投げかけられたが、ヒューはそれを薄笑みと素知らぬふりでやり過ごした。

 本当は。

 両手が塞がっていてよかった。と、内心苦笑いが漏れた…。

  

   
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