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番外編-10- からくりキングと嘘つきピエロ

   
         
(14)

     

最初から最後まで。最期まで。

全てを見ていたのは。

全てを知っているのは。

表情(かお)のない、真白い、貌。

だけだった。

     

「………」

ベッカーが相当疲れた気分で居間のドアを開けたのは、別に、ここに一人取り残されていた青年…セイルの様子を見ようと思ったからではなかった。むしろ男は、仄暗い室内に据えられたソファの上で膝を抱えた青年を認めるまで、彼の事を忘れていたくらいだ。

しかし、ドアを開け、手元に落としていた視線を上げて淡く白いセイルの肩をソファの背凭れ越しに見つけてしまって、今更引き返す事も出来ずに、微か眉間に皺を浮き上がらせる。その表情は決して不快を表すものではなく、どちらかと言えば、ベッカーにしては珍しく戸惑っているようなものだったが。

ここまで来て再度ドアを閉め立ち去るのは不自然だと思ったのか、ベッカーは一瞬止めた動きをすぐに再開した。壁際に設えられた間接照明が壁に放つ淡い光の楕円に炙られて描かれた、陰影だけの室内。その只中に、寂しげに落ちた白く痩せた背中を見るともなしに見ながら、静かに踏み込む。

途端、ぴりりと緊張した空気に、知らずベッカーは苦笑を漏らした。

青年は男に気付いている。

ご丁寧に自室のリビングを破壊し尽くしてくれたドールのおかげで、ベッカーは今日横になって休むべき寝室にも戻れなかった。こんな夜更けに片付けるのも面倒だし、そもそも、明日特務室から派遣されて来るだろう衛視が現場検証を終えるまでガラスの破片一つたりとも動かすなと言われているのだから、やる気があってもどうにもならないのだが。

だから、まぁしょうがないか一晩くらいどうとでもなるだろう、という気分で居間に来てみれば、なぜか地面にめり込んでしまいそうな程落ち込んだセイルが室内の薄暗さに拍車を掛けている。

そこでさてどうしたものかとも思わないのがベッカーの美徳なのか、それとも無神経さなのか、男は踵を潰して引っかけただけの傷だらけのローファーの靴底を削るような足音を…とはいえ敷き詰められた絨毯のせいで、全く持って迫力の無い音なのだけれど…させながらソファに近付き、ぴくりと肩を揺らしたセイルを一瞥する事もなく、その正面にどさりと腰を下ろした。

そこでようやく、青年の胸に抱えられた仮面(マスケラ)に気付く。

ひび割れて。無機質に。無表情に。哀しみもせず。憐みもせず。空洞の双眸を虚ろに中空に向けた仮面。

白く。

白く。

恨みもせず。

ソファの座面に横向きに膝を抱えて座りその仮面をぎゅっと抱きしめて、まるで仮面と同じように無機質に無表情に俯いているセイルの横顔を見つめているうち、不意に襲って来たむず痒いような笑いに押し負けて、ベッカーはついその薄い唇の端をいびつに引き上げた。無性に可笑しい。別に笑えるポイントなどどこにもないのに、どうしようもなく可笑しい。

というか、おかしいのは自分かと第三者的に冷静な部分が嘆息しながら考えている。今日屋敷で起こった一連の騒動で無茶苦茶やり過ぎた自覚はあるから、原因はきっとそれだ。

ぞわぞわと身体の中(うち)で渦巻く何かを処理しなければ、オーバーヒートでぶっ倒れるか接続不良でぶっ倒れるか、またあの頭蓋骨の割れそうな頭痛でぶっ倒れる。

なんにせよ結果は「ぶっ倒れる」一択かと内心突っ込み、また可笑しくなって、ベッカーは仕方なさげに俯きがりがりと首の後ろを掻いた。

では、倒れる前にベッカーがする事は、ひとつだけだ。

これから始めるのは独白。

質疑応答など必要ないし、ましてや意見など聞く事もしないし、感想もいらない。

それで目の前の青年が何を感じ、どうなって、泣こうが喚こうが失望しようが絶望しようが知った事ではない。

ベッカーはふと笑うのをやめ、ソファの座面から腰を上げて、低いセンターテーブル越しに、セイルの抱えているマスケラに手を伸ばした。

ひょいとそれを掴み上げられて、追い掛けるように青年が顔を上げる。「あ」の形に固定された唇を一瞬だけ見遣り、しかし、ベッカーは指で挟んだマスケラの顎を持つと、胡乱な眼窩と見合うようにそれを顔の高さに掲げた。

「過去の思い出なんてのはさぁ、美しくも優しくもないんだよ。どうせこいつはただの無機物の集合で、こいつの中には思い出なんてなくて、有るのは捻子と発条と冷たい金属だけだ。君はこいつをオレの時間だって言うけどもさ、その「時間」は最初から最期まで無駄で無為で、誰かを悲しませたし誰かを失望させたし誰かに誰かを裏切らせたオレが、見たくないものを見ないために目を背け聞きたくないものを聞かないために耳を塞いだ愚かで自分勝手で独りよがりの「時間」であって、だからさぁ、こいつがオレの手で壊されたのを君がどうこう思うなんて、意味はないんだよ」

いつもより少しだけ抑揚の少ない声音で、ベッカーは淡々と続ける。

「オレがこいつを作り始めたのは、この屋敷にオレの婚約者だって少女がやって来た日だった。彼女は応接間で待つオレの所にやって来て」

最早うろ覚えの、彼女の顔。

否。

一生忘れないだろう、あの、輝くような笑顔。

「ドイルの胸に飛び込んで、会いたかった、と、言った」

その一言を耳にして、刹那、セイルは大きく目を見開きベッカーの横顔を見上げた。

「オレは最初から蚊帳の外だった。親同士の決めた婚約だった。だからオレは何も感じなかった。ただ、知り合いだったらしい二人を見ていた。彼女は興奮したように早口で必死にドイルに話し掛け、ドイルは困ったようにオレの顔を見た。彼女がようやくオレに気付いたのは、彼女の付き添いでやって来た父親がドイルとの再会を喜んだ後だ。疎外されたとは思わなかった。やっぱりなと思っただけだった。儀礼的に挨拶を交わしてすぐ、オレはドイルだけを残して部屋を出た」

ベッカーはまるで何かを思い出すかのように薄く目を細めていた。

「その日、オレは初めてこいつの部品が収められていた箱を開けた。彼女はその日から屋敷に住むようになった。オレは登城する以外の時間ただひたすらこいつを組み立て、時々ドイルに諭されてリビングで彼女と会った。彼女はオレの無関心を拗ねるように咎めたが、それはオレにではなくドイルに告げられて、オレはそこに居るだけだった。彼女が名目上オレの妻になった日も、オレはこいつを組み立てていた。彼女は嬉しそうだった。彼女はずっとドイルを見ていた。オレが一般居住区に愛人を作るようになったのは、それからすぐだった。屋敷に居てこいつを組み立てていると、ドイルが来てオレに彼女と話し合えと言う。それが面倒になったから屋敷に戻らなくなった。彼女に必要なのはこの屋敷に居る理由であって、オレじゃない事をオレは知っていた。

子供が欲しいと言われた。

ずっとここに居たいと言われた。

オレにはどうする事も出来なかった。

彼女が愛していたのはドイルで、オレじゃない」

誰かを愛している誰かを愛してやれるほど、オレの心は広くもないし、腐ってもいなかった。

と、ベッカーは淡々と言い。

セイルはついに、悲鳴を上げるように肩を跳ね上げて、両手で口元を覆った。

「それに、無理なんだよね、それはさぁ。

オレは魔導師として、実の所ガリュー並みにイレギュラーな存在らしくてさ、二種類のコアを臨界に持ってて、それを呼び出して操るための信号(サイン)が遺伝子中に組み込まれてる影響で、精素細胞を作る機能が欠如してんだよね。つまり先天性の無精子症ってやつなんだよ」

彼女の望みは、生涯、叶わない。

「オレは彼女に答えなかった。オレは相変わらず一般居住区に入り浸り、屋敷に戻ってもこいつを組み立てるだけで、彼女と顔も会わせなくなった。そのうち、彼女の、妊娠が、判った」

不意に表情を削ぎ落としたベッカーが苦しげに息を詰まらせ、眉間に深い皺を刻む。

「彼女は、オレの部屋に飛び込んで、来て、まるで、父親がオレのような、顔で、赤ちゃんが出来、たと、言った。報せを受けた彼女の父親と母親も、屋敷に、やって来た。オレの両親は、オレの欠陥を知っていて、隠していた、から、何も言わな、かった。ドイルも、何も…言わなかった。

だから、オレが、言った」

ベッカーは顔の高さに掲げていた手をだらりと下げて、一度だけ深呼吸した。

「オレは先天性の無精子症だし、婚約してから今日まで一度も彼女と寝室を共にした事がない。なら、その子供の父親は誰だと訊いた」

零れ落ちるほど見開いた琥珀を、ベッカーがゆっくり見下ろす。

「彼女は、子供の父親はオレだ信じて欲しいとドイルに言った。それだけは認められなかった。ラド家はオレで終わらなければならない。だからオレは彼女の不貞を理由に離縁を申し入れ、彼女を生家に戻した。

その日も、オレは、こいつを組み立てていた。

これが、こいつの「見た」一部始終だよ、ムービースター。これがこいつの生まれた理由と経緯だ。オレが目を逸らして、耳を塞いだ結果がこうだ。誰も幸せにならなかった。だから、オレがこいつを叩き潰しても、君は、何も感じる必要なんてない」

呆然と目を見開き、言葉もなく身動きもしないセイルの見詰める先で、ベッカーの指先から、白い、無表情なマスケラがカツンと音を立てて床に落ちる。

「ま、そういう事だよ」

独白を締め括るように薄く笑って呟き、男は、ゆっくりとドアに顔を向けた。

「―――旦那様」

絞り出すような、苦しげな、今にも呼吸困難で倒れてしまいそうな声にびくりと肩を震わせた青年を無視して、ベッカーは小さく首を横に振った。

「ムービースターを部屋にお連れしろ、ドイル」

言い捨てるでもない何の感情も篭らない最後の一言を漏らした男が、その暗く生気のない玉虫色を閉ざし、もう一度疲れ切ったようにソファに沈み込む。頭痛。内側から脳を破壊するような痛み。その重圧に負けて座面にごとりと横たわった主人に言われるまま、青白い頬を強張らせた執事が、未だ動けないセイルの腕を取り、無理矢理立たせて一礼する。

引き摺られるように部屋から連れ出されたセイルは、重厚な色合いのドアが背後で固く閉ざされる直前まで一言も発しないで何度もベッカーを振り返ったが、結局引き結んだ唇を開く事はなかった。

ただ、足早にそこから離れようとするドイルに腕を引かれて足を縺れさせながら、そう離れていない青年の為に支度された部屋の前まで来る。

まさか放り出された訳ではないが、執事が主人の客に対するものとしてはかなりぞんざいに解放されようとした、直前。

タイミングが良いのか悪いのか、それまでひっそりとしていたクレイの部屋のドアが不意に開かれ。

同時に、セイルはぱっと振り返る勢いで旋回させた手でドイルの胸倉を掴むと、身体全体で伸し掛かるようにして、執事を背中から壁に叩きつけた。

「! セイル!」

「うるさい、黙れ、誰も喋るな」

ドン! と重く籠った音が廊下に響いてすぐに、部屋から飛び出して来たクレイも、胸倉を捩じり上げる青年の腕を反射的に掴んだ執事の呼吸も圧するような、怒気を孕んだ鋭い声。

荒れた廊下の壁に押し付けられたドイルは、睨み上げて来る琥珀色に漲る底冷えのする怒りに、息を詰まらせた。

彼の知る「リリス」は、小柄な青年だ。表情のくるくると変わる、気さくな青年だった。しかし今目の前に居る彼からその様子は微塵も窺えず、叩きつけて来る純然たる怒りに身が竦む。

余計な言葉は一切なかった。

ただ。

「どうして、貴方が、守ってやらなかった!」

吐き捨てるように、喘ぐように、唸るように漏れた一言に、ドイルは息を止めた。

それで気が済んだ訳でもないだろうが、セイルがさっさとドイルから顔を背けて胸倉を突き放し、さっさと、支度された部屋に入って行く。

何がどうしてこうなったのか。さっぱり意味の分からないクレイはしかし、へたりとその場に座り込んでしまった執事の横に膝を置いて彼の肩に手を添えたが、その視線は見えなくなった青年の背中を追い掛けるように、静かに閉じた扉を見ていた。

そう短くもないセイルとの付き合いで、彼が他人に対して理不尽な怒りをここまで明らかにぶつける事はないと知っているクレイは、床に座り込んだまま俯いたドイルの金髪に視線を落とし、ふと息を吐いた。

事情は何も分からない。

だから、誰の味方にも、なれない。

好意と信頼だけで盲目的に誰かの肩を持つには、誰も彼もが、大人になり過ぎたなと、クレイは思った。

     

   
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