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番外編-10- からくりキングと嘘つきピエロ

   
         
(21)

     

剥がれかけた壁のクロス。

不恰好に波打つ絨毯。

傷のついたソファ。

荒れたままの室内。

カメラは真正面にある、寒々しいソファをじっと映している。誰も居ない。音楽はない。

     

     

喧騒と雑踏に晒されているはずの通りと新しくオープンした店内を占める、一時の静寂と緊張。その場に居合わせた人々は固唾を飲み、息を殺し、その、1分30秒間神経を研ぎ澄ます。

自然発生した静寂は、伝播する。

誰もが引き寄せられるようにモニターを見つめる。食い入るように。食い入るように。

そして。

受け取るのは、告白、メッセージ。

まるで。

     

息の根を止める、会心の一撃。

     

     

脚本家クレイ・アルマンドの言いなりになるのは業腹だったが、そこまで自信があるなら受けて立ってやろうじゃないか、と思ってしまったのは、果たして気まぐれだったのか、それとも男の策に嵌ったからなのか。

どちらにしてもベッカーは不承不承を装って「判った」と答え、その答えにドイルはほっと安堵の息を吐いた。猶予は3日。その短い時間で主人の意志を覆そうと考えた執事を止めたのも、やはりクレイだったが。

考える事は停めないけれど、出来ればいつもと同じに、普通に三日間を過ごして欲しいと柔らかな笑みで懇願されて、ドイルは困惑する。

不機嫌さを隠さないベッカーを応接室に残して退室したクレイは、しきりに振り返るドイルに一言だけ告げる。

三日後、五分だけ時間をくれ、と。

その後の三日間は何事もなく過ぎた。普段より少々機嫌の悪い主人と、食事の時以外部屋から出ようとしないムービースターと、全く空気を読まない脚本家と。

そして三日目。

午前、九時半。

クレイ・アルマンドが公開に踏み切る。

「…壱号モール? ご機嫌でショッピングセンターに行くような気分じゃねぇんだけどね、オレは」

朝食の後、相も変わらず暗い表情のセイルが食堂を出て、暫し。それまで無言でコーヒーを楽しんでいたクレイは不意に姿勢を正すと、窓際のソファでだらしなく寛ぐベッカーにこう言って頭を下げたのだ。

繁華街の壱号モールに今日オープンする、「アルファ・ビー」というアパレル店に行ってくれ。と。

「不機嫌だろうが不愉快だろうがなんでもいい、ただ、そこに行ってくれ」

「行ってどうしろって?」

「行くだけでいい。それで、判る」

「何が?」

「行けば判る」

最早押し問答の様相を呈するかと思われた言い合いを簡単に諦めたのは、やはりベッカーだった。

「……くだらない事だったら、速攻屋敷から叩き出すからな」

これを感情剥き出しで言ってくれればB級映画の悪役なのだろうが、相手はベッカーだ。うんざりと溜め息混じりに呟いて、大仰に肩を竦め、いかにも面倒臭そうにソファから立ち上がる。

「もちろん、当然、それは覚悟の上ですよ。もしも「結果」がご不満でしたら、どうぞ殴るなり蹴るなり罵倒するなりして頂いて結構」

平然と、もしかしたらわざとのように不遜な態度で身を起こし、大仰に足を組んだクレイは、穏やかと見せかけてどこか挑戦的な表情でベッカーの渋い顔を見上げた。

「…大事なのは、現在(いま)とこれから。おれたちは否応もなく生きている。生活している。そして、この「球形の世界」に居る以上」

     

一人じゃないけどねぇ、一人っきりでも、あるんじゃないの?

     

意味の分からない、誰に向けられたのか…それが「自分」に向けられたとは、なぜかベッカーには思えなかった…判らない呟きに一瞬動きを止めた男は、一つ溜め息を吐いてからさっさとクレイの前を通り過ぎた。

それから、暫く。

ぐずぐずと支度するベッカーを手伝い、いつものように丁寧に頭を下げて見送ったドイルが応接室に戻ると、クレイが少し弱ったように微笑みながら執事に手招きする。

「クレイ、君は一体…」

問い詰めたいのか、違うのか、自分でも意味の分からない声を漏らしたドイルを伴って、クレイが向かったのは自身に宛がわれている部屋だった。

「五分だけ、観客でいてくれない? ドイル」

招き入れられたのは、見慣れた部屋。訪れる客人もなく、ただ惰性のように毎日掃除していたそこにはしかし、見慣れないモニターが一台、小振りな応接セットのテーブルに据え付けられている。

テーブルから普段の位置よりも少し離されたソファを勧められ、ドイルは困惑しながらも腰を下ろした。一体脚本家は、何をしようとしているのか。

「先入観はなし。だから、まずはこれを観て」

言いながら部屋のカーテンを閉ざしたクレイは、待機させていた一分半の映像を再生した。

ベッカーの目にするだろうもの。

大勢の王都民が目にするだろうもの。

薄暗い画面。

剥がれかけた壁のクロス。

不恰好に波打つ絨毯。

傷のついたソファ。

荒れたままの室内。

カメラは真正面にある、寒々しいソファをじっと映している。誰も居ない。音楽はない。

     

画面の、向かって右からゆらりと現れる、憂いた表情(かお)の、リリス。 光の加減で濃灰色の光沢を波打たせる暗いボルドー色のコートを手に、裾を引き摺る衣擦れだけを伴ってゆらりと、ふらりと、どこかしらとぼとぼと、複雑過ぎる内情を映す虚ろに滲んだ翠の瞳でどこかを見つめたまま、リリスが…孤独な世界に姿を見せた。

     

クレイは、一分半の間瞬きも忘れてドイルの横顔だけを凝視する。

不安げにモニターを見つめていた執事が浅く呼吸し、息を詰め、瞬きを止めて、食い入るように微か身を乗り出す。か弱い声でリリスが、セイルが何かを呟くと、ドイルはひゅっと息を吸い、呼吸を厭うように唇を固く引き結んだ。膝の上に置いた両手はいつの間にか指の関節が白くなるほど握り締められ、強張った頬と肩が微かに震え、もう一度消え入りそうな声がスピーカーから漏れて、刹那。

ドイル・バスクはまるで息を吹き返したかのように深く胸を上下させ、握り締めていた指を弛緩させて、忙しなく眼球を動かしながらゆっくりとソファに身体を沈めた。

一分半。

たった一人の観客。

モニターの電源を落とし、ゆっくりと、殊更時間を掛けてカーテンを開け放ったクレイは、眩しげに目を細めて仰ぎ見て来たドイルから視線を逸らさずに、この三日間悩みに悩んで考えた一言を、きっぱりと口にする。

「ドイル、おれと結婚してくれ」

唐突に。

ドイルは呆気に取られてクレイを見上げたまま、二度、口を開こうとして失敗した。

その様子を小さく笑った脚本家は、そこでようやくこの十六年間喉の奥に痞え、胸の奥に重く冷たく固まっていた正体不明の焦燥を吐き出して、晴れ晴れとした気持ちで微笑んだ。

「突然過ぎてムードもへったくれもないけど、しょうがないじゃないか、おれはお前が好きなんだから」

大仰に肩を竦めて諦めたような事を言ったクレイに、ドイルは呆れた薄笑みを見せた。

     

     

薄暗い画面。

剥がれかけた壁のクロス。

不恰好に波打つ絨毯。

傷のついたソファ。

荒れたままの室内。

カメラは真正面にある、寒々しいソファをじっと映している。誰も居ない。音楽はない。

     

画面の、向かって右からゆらりと現れる、憂いた表情(かお)の、リリス。

光の加減で濃灰色の光沢を波打たせる暗いボルドー色のコートを手に、裾を引き摺る衣擦れだけを伴ってゆらりと、ふらりと、どこかしらとぼとぼと、虚ろに滲んだ琥珀の瞳でどこかを見つめたまま、リリスが…孤独な世界に姿を見せた。

     

   
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