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番外編-4- 星の回り/夜想曲

   
         
1)午前四時

     

 腕っ節が強いからといって、それが「強さ」の全てではないんだよ。

         

 子供の頃、道場に通い始めた…というか、それが当然だとずっと思っていて、ついにそういう年齢になり「親」が「師範」になった時、フォンソル・スレイサーは、広い道場の酷く冷たい床に正座させた、「息子」ではなく「弟子」にそう言い聞かせた。

 その時「弟子」、ヒュー・スレイサーは七つになったばかりだった。

 片親出奔(とヒューは教えられていた)のショックも癒えない幼い少年は、その時、実年齢よりずっと大人びた、奇妙に達観したような顔で「はい」と答え、晴れてフォンソル・スレイサーの「全て」を学ぶ許可を与えられる。

 その日から少年の生活全てが「学ぶ」事になり、我侭を言わず、信念を曲げず、少年は師範の言う「強さ」を理解し手に入れようと脇目も振らずに鍛錬し、大人になった。

 気が付けば。

 とんでもなく強く。

 とんでもなく横柄に。

 とんでもなく不器用に。

 なっていたけれど。

      

       

 都市機能さえも寝静まる朝未だき、午前四時。

 警護すべき陛下も穏やかにベッドで夢見ているだろう時間にも王下特務衛視団執務室には火が灯っていて、数名の衛視がのんびりと不眠番に勤しんでいる。とはいえ、さすがにこんな早朝では大した騒ぎが起こる訳もなく、…いや、時たまごたごたがあったりはするのだが…、逆にここ数日は先日まで畳みかけるように続いた「大事件」の反動なのか、比較的退屈な夜が続いていた。

 となると、平穏は当然のように眠気を誘い、在室している衛視たち五名の殆どがソファに寝転がったりデスクに突っ伏したりと、かなり無茶な姿勢で浅い眠りに就いている。ここで誰かが身じろいだり、通信端末が微かな警告音を発しようものならすぐにでも跳ね起きるのだろうが、その時、微かな空気の揺らめきだけを伴ってひとりが動いたのには、誰もひとときの眠りを邪魔されなかった。

 衣擦れさえも厭うような夜気に紛れて特務室を抜け出したひとり、ヒュー・スレイサーは、微かにラウンドした廊下を足音も気配もなく歩き過ぎ、吹き抜けになっている正面エントランスを望む空中回廊(という名前で呼ばれている)に出た。普段はここを通らず非常階段室を使って廊下の途中から出入りしているので、一日のうち殆どを城で生活しているに等しいながら、この吹き抜けをこうやって眺める機会は意外にも少ない。

 品の良い乳白色の手摺に凭れて両肘を預け、非常灯だけが眼下でぽつぽつと瞬いている円形のエントランスを覗き込む。その周囲を螺旋状に回る階段通路は創世神話を語る素晴らしい絵画で飾られており、緩やかな曲線を描く天井には手を取り合った一対の天使と悪魔が、この城の全てを護るように微笑んでいる。

 上空を振り仰ぐ事無く薄暗い眼下をサファイヤ色の双眸で見つめたまま、ヒューはなんとなく疲れた溜め息を吐いた。様々な騒動に一段落付いた、という安堵よりも、どうせまだ何か控えているに違いない、という覚悟みたいなものが先に立ったのに、知らず、薄い唇に苦笑が登る。

 人気のないエントランスを眺めながら、随分昔の事を思い出した。

 単純に強くなりたいと思っていた頃が一番楽しかった。技術を吸収する頃でもあっただろうから、日に日に、目に見えて師範に追い着いているような気がしたものだ。

 ある日急に、それではいけないのだと判るまでは。

「強さ」について考えた。多分、今も考え続けている。答えがあるのかどうかも判らない。しかし、それが判らなければ師範…フォンソルの言う「強さ」は得られない。

 というのは、判った。

「………………二十年学んで、そのうちの十年は悩んで、俺は、たったこれだけか…」

 肘で手摺を押し離し反転して、今度はそれに背中を預けふと天井を見上げる。仄灯りの届かない薄暗がりにボウと浮かんだ白皙は天使。その視線の先には、完全に闇に飲まれた悪魔が居るだろう。

 今の自分が成長していないとは思わない。だから、「弱い」とも思えない。しかし、「強いか」と問われれば、「強くはない」と彼は答えるだろう。

 七つの子供には判らなかった事が、今なら判る。

 リセルが出奔したときの「強さ」だとか。

 それを引き止めなかったフォンソルの「強さ」だとか。

 セイルが家を出ると言った時の「強さ」だとか。

 ミナミという無表情な青年の絶対的な「強さ」だとか。

 ハルヴァイトという悪魔の破滅的な「強さ」だとか…。

 それから。

 ヒューはまたひとつ溜め息を吐いて、仄灯りさえもきらきらと照り返す銀の髪に暗い光を散らせながら、ゆっくりと項垂れた。

            

 あの少年の、強靭さ、とか。

  

   
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