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番外編-4- 星の回り/夜想曲

   
         
2)午前八時

  

 朝の開門の鐘を聞いてから暫しして、交代時間すれすれに飛び込んで来たクインズ・モルノドールに任務の引継ぎをする、午前八時。

「別に何もなかった」と、面倒臭い四割眠い六割くらいの比率で不機嫌そうに言い放ちつつ、既にデスクに頬杖を突いてうたた寝しそうなヒューの横顔を、クインズよりも後からのうのうと現れた電脳班の砲撃手が笑った。

「官舎辿り付く前に寝ちまいそうだね、班長は」

「とりあえず、今日までそういう醜態を晒した記憶はない。まぁ、今日からがどうかは、判らないがな」

 苦笑混じりに肩を竦めたヒューが、どことなく眠たげな表情でデリラに言い返す。それで、今日はただの留守番でろくな仕事もない、などと言っていた目付きの悪い同僚が、嘘ばっかり言うんだからね、班長は、と呆れたようにまた笑った。

 クインズに今日の予定を確認されて、ヒューはデスクに放り出してあった携帯端末にシフト表を呼び出した。

「………明日のニイチマルマルまで休暇。本日イチサンマルマルから明日イチヨンマルマルまでは、完全休暇だな」

 なんとなく無関心そうに言い放った途端、なぜなのか、特務室内がざわめいた。

「というか、なんなんだ? この反応は」

 シフト表を消して、端末を懐に滑り込ませる。昼間に連続して二日も休暇だなんて何年振りだろう、とここは冗談でなく、でもあまり感慨もなく言い捨てて、ヒューはデスクに両手を置き立ち上がった。

「帰るんですか? 班長」

「帰って寝る。このままじゃ、本当に、官舎に辿り付く前に寝そうだ」

 言って生欠伸を噛み殺し、じゃぁな、と軽く手を挙げ特務室を後にする。

 実のところ、そんなに休暇があっても何か趣味がある訳でもないから、有り難いとは思えなかった。暇だからといって演舞の練習でもしようものなら、他に何かする事はないのかと部下どもに言われるのがオチだろうし。

 放っておけ、俺の事は。と、ちょっと思った。

 朝の引継ぎを終えて忙しく動き回る衛視や見回りの近衛兵が行き交う廊下を、だらだらと歩いて非常階段室へ向かう。だらだらとはいえヒューは普段から姿勢がいいので、少々歩調が緩い程度の差異でしかないが。

 気持ちとしてはかなりだらけていた。だからなのか、足音を忍ばせるでもなく背後に擦り寄りいきなり抱き付いて来た細い腕が胴に回されるまで、彼はその存在に微塵も気付かなかったのだ。

「………………」

「…やだ、班長…。どこか具合でも悪いの?」

「というか、廊下の真ん中でなんて大胆な事をする…。周りの連中が驚いてるだろう」

 ヒューは背中に感じるふくよかな感触に、非常に複雑な苦笑を漏らしつつ、軽く肩越しに背後を振り向いた。

「そういう班長があんまり驚いてくれてないのが、ちょっと不満だわ」

「驚いてるよ。まさか、こんな人目のある城の廊下でナヴィみたいな美人に背中から抱き付かれるとは、夢にも思ってなかった」

 と、思い切りそれっぽく(?)囁き合うヒューとアリスを囲む空気が、瞬間的に凍り付き、または沸点を突破する。実は、特務室ではあまり珍しくもない光景…アリスが誰かに抱き付いているとか、誰かを抱きかかえているとか…なのだが、さすがにこう人通りの多い朝の廊下で見ると異様(…)なのか、慣れているはずの衛視でさえ完全に固まっていた。

「俺の寿命を十年くらい縮めようという計画なら充分成功したから、離れてくれ」

 あくまでも笑顔のアリスにげんなり言いつつ、胴に回された腕を取ってそっと引き剥がす、ヒュー。もしかしたら多少乱暴にしても問題ないのだろうとは思ったが、なんとなく、周囲から注がれる視線がざくざくと頬に突き刺さるのに、さすがの班長も暴挙に出るのは遠慮したらしい。

 着飾って城を闊歩する貴族の姫君たちではなく、アリスは正真証明生きて動いている「ひめ」だった。特務室ではいつの間にか「ひめさま」と呼ばれていたりするし、真っ赤な髪に少々目端の釣り上がった気の強そうな亜麻色の瞳と秀麗な美しさは、まさしく美女と言って良かったし、それでいて気さくで豪気で腕っ節もそこそこなものだから、近衛兵にも評判がいい。

 まぁ、多少恐れられてはいるようだが…。

「下城だからって気が緩み過ぎじゃない? 班長。背後に回ったあたしに気付かないなんて、どうしちゃった訳?」

「注意力散漫というか、集中力ゼロだよ。俺は昨日二時間しか寝てないんだ」

 その、いつものように素っ気無く付け足されたセリフに、アリスが眉を吊り上げる。

「別に忙しい訳でもないし、なんで仮眠取らないの?」

「……………」

 他の連中が寝てたから。と本当の理由を口には出さずに、ヒューは黙って肩を竦めた。

 目を逸らさないのに口を閉ざしたら、死んでもホントの事を言わない。とヒューについて言ったのは、確かミナミだった、とアリスはそこで思い出す。

「ま、いいわ。寝不足で死んだって話、聞いた事ないものね」

「それが原因で階段から転げ落ち、間抜けな最期を遂げた人間がいたかどうかは、誰も判らないだろうがな」

 すぐに返ってきたからかい混じりの答え。

 アリスはヒューを、ハルヴァイトと違った意味で「放っておけない」と思う。

 引き剥がされて廊下に佇むアリスが黙り込んだのに、ヒューはもう一度彼女を振り返った。だからといって別に声をかけるでもなく、ただ黙って亜麻色の瞳を見つめ返してくるサファイヤが酷く雲っているような気がして、赤い髪の美女がまた、微かに眉根を寄せる。

「それで? 俺に何か用事があったんじゃないのか? まさか本当にからかうだけなら、帰るぞ」

 軽くアリスを振り返った状態で非常階段室を示すように首を傾げたヒューの、眠たげな表情。それでアリスは「そうだった」とわざとのように明るい声を出し、長上着のポケットに左手を突っ込みながら右手でヒューの手を握ると、ぐいっとそれを引き寄せた。

「? なんだ?」

 半ば無理矢理開かれた大きな掌に、華奢な手で取り出した何かを載せられて、ヒューが片眉を吊り上げる。

「班長今から休暇でしょ? 忙しい?」

「いや、別に」

 アリスがヒューに手渡したのは、よっつに折り畳まれたメモ用紙と、紙幣が一枚。

「出かけられる時間ある?」

「…………確信的に行かせようとしてるくせに、殊勝なふりをするな。で、ここで何を買って来いって?」

 薄い唇の端を持ち上げてちょっと意地悪そうに訊いたヒューの顔を上目遣いに見上げたアリスが、またも周囲を凍り付かせるように、華やかな笑顔で「班長、愛してるわ」と囁く。

 場所が場所でなく、ふたりの着ているものがまったく同じ漆黒の長上着を深紅で飾った衛視団の制服でなかったら、ゴシップ誌のトップを飾れるような恐ろしい会話だ。

「シュークリーム、三時のティーブレイクに間に合うように届けて」

「………。いいオチだな、安っぽいコメディ映画みたいで、笑えない」

 びし、とアリスの指さした先には、ヒューが顔の前でひらひらと振り回していたあの四つ折りにされていたメモ、ではなく、どこかのケーキショップの広告があった。

「今日の午後はマーリィとルニ様と陛下とお茶を頂く事になってるのよ、あたし」

「…暇なのか? 電脳班は」

「暇貰ったの。というか、あの状態のミナミほったらかして、ハルが仕事する訳ないじゃないの」

 班長が不在なのだから部下が適当に遊んでいるというのは、どうなんだ? とヒューは首を捻った。

 そこで彼は不意に気付く。

 だから、自分にも二日間もの休暇が与えられたのだと。

「…そうか。ミナミは………………」

 ほんの少し壊れ気味だったなと、思い出した。

  

   
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