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番外編-4- 星の回り/夜想曲

   
         
4)午後一時

          

 あまりにも予想外の事に、目が覚めたというよりはぎょっとして跳ね起きた、午後一時。

「……………………」

「いや、あの、ですから…。もう一時過ぎてますよー?」

 語尾の奇妙に上がったセリフと伴に、瞬きも忘れて呆然としているヒューの顔の前でひらひらと手を振ってみる、アン。

「起きてます? よね」

「………ああ」

 なんとなく不安げに覗き込んで来る水色が不意に微笑んで、ヒューは思わず浮かびそうになった渋い表情を慌てて引っ込めた。

「ダルビンさんにキッチンを借りて、アップルコンポートのパイ包みなんか作ってみてたんですよ、ぼく。そしたら、いつの間にか時間になってて、ダルビンさん、七回もヒューさんの部屋に電信したのに全然応答なくて、しょうがないから直接起こしに来るっていってたんですけど、遅いランチを摂りにジルさんとかがダイニングに来ちゃって」

 だから、ダルビンの代わりに自分が来たのだ、とアンは、素晴らしく雑然としたヒューの部屋をものともせずににこりと微笑んだ。

「それじゃ、遅れないように出かけてくださいね、ヒューさん。せっかく起こしたのに約束の時間に間に合わなかったりしたら、ぼくが申し訳ない気持ちになります」

 ぴ、と顔の前に立てた人差し指を翳したアンが、小首を傾げて難しい顔をする。それは随分子供扱いだな、とヒューは思ったが、七回も電信されたのに気付かなかったという事実が邪魔をして、言い返すには至らなかった。

 わざと作った咎めるような表情で睨んでくる、アン。制服を着ていればまだマシなのだが、私服でいるとどう贔屓目に見ても十六、七歳という少年に生活態度を改められている自分が可笑しくて、ヒューはこれもわざとのように「はいはい」と答え、ベッドから出ようとブランケットを剥ぎ取った。

「ヒューさん、夕食までに帰ってきます?」

 そこで急に何を思ったのか、ベッドの下に置かれていたシャツを拾い上げて無意識にたたみながら、ふとアンが問う。それに首を傾げて見せたヒューに少年は、は! とでも表現したらいかにも適切だろうと思われそうな唐突さで目を見開き、畳み終えた薄墨色のシャツを胸に抱えて、「あのですね!」と慌てて…言った。

 何をそんなに慌てているのか、と微かに眉を動かしたヒューの顔を凝視したまま、アンがあたふたと言い訳する。

「始めて作ったんですけどね、パイとか。あ、アップルコンポートの方はダルビンさんが手伝ってくれて、パイ生地は作り置きで、ぼくはそれをこう合わせて焼いただけなんですけど」

 せっかく畳んだシャツが皺になるほどぎゅっと抱き締めた少年が、なぜなのか、必死になって言い募る様を、ヒューは微かに口元を綻ばせたまま黙って見ていた。

「それがその、結構美味しそうに出来て、ダルビンさんが、残りの材料を使ってたくさん作るから、夕食の後にデザートとして出そうって言うもんで…その…」

 それで? と問いかけたい気持ちとかなり本気で闘いながらヒューは床に両足を下ろし、乱れた銀色の髪をあの、指は細いが華奢な印象など微塵もない大きな手でかき上げた。

 半ば伏せられた睫が、灰色に曇る。光の加減で光沢のない淡い墨色にも、イヤに派手な銀色にも見える長い髪がだらしなく着崩れたプルオーバーの肩を滑り、きらと金属音を漏らした気がした。

「…………………それで…ですね」

 急に勢いを無くしたアンの惚けたような表情を、ゆっくりと持ち上がったサファイヤの瞳が射竦めた。

「電脳班のひめさまにお使いを頼まれた」

 すっかり皺だらけのパンツに両肘を預けていたヒューが、思い出したようにサイドテーブルを見遣って、その、乱雑に色々な物が散らばった上に置かれている一枚の紙片を取り上げて開き、アンの顔の前に翳す。

「姫様方は三時のティーブレイクにここのシュークリームをご所望だそうだ」

 広げられたケーキショップの広告を眺めつつ、はぁ、と生返事する、アン。

「ご褒美を先に押し付けられて、おまけに断わる口実が俺にはない。という訳で俺は今から使いっぱしり」

「……………………」

 はい。と強引に手渡された、というか、シャツを抱える腕の間に突っ込まれた広告と、面倒そうに立ち上がってその辺りに散らかった物を跨ぎ越えクローゼットに向かうヒューの背中を交互に見比べるアンが可笑しかったのか、彼はなんとなく笑いを含んだ声で「それで」と言い足した。

「アップルコンポートのパイが夕食時のデザートなら、午後のお茶にシュークリームはどうだ?」

 振り返ったヒューがなんだか酷く優しげに微笑んでいたのに、「本当はひとりでケーキショップに入りたくないんでしょ、ヒューさん」と、精一杯咎めるように言ってからアンは、ふいっと彼から顔を背けた。

 なぜなのか色の薄い金髪から覗く小さな耳が真っ赤になっていて、説得力無いな、とヒューは少し笑ったけれど。

        

         

 管理人のエドワースに事情を話して特別官舎通用口から直接通りへ出たヒューとアンは、城の敷地を囲む大路を渡って王城エリアでも一番のショッピングモールに入った。平日の昼間だというのにモールの中は適当に混んでいて、小柄なアンなどちょっと目を離したらすぐに見失ってしまいそうだ。

「えーと? フードマーケットじゃなくてティールームの方なんですね、ここのお店。「ブルーエ・カフェ」…。って事は、カフェスペースもあるけど、テイクアウトも出来るんだ」

 手渡された広告を眺めながらアンが言うと、ヒューが「ふうん」といかにも気の無い返事を返す。これでもしアンがもっと「普通」の人間だったなら、もうちょっと真面目に話を聞けとかなんだとか言い出してもよかったのだろうが、少年はこういう対応を返されるのに慣れていたから、別段ヒューの無関心を言い咎めるような事はしなかった。

 良くも悪くもハルヴァイトの部下、というところか。

 王城エリアの台所とまで言われるこのショッピングモールでは、大抵の食材や総菜、菓子、調理道具まで揃う。官舎に住んでいて自炊していたアンなどは、休日になるとちょこちょこ足を運んでいたりしていたが…。

「相変らず、目的地に辿り付けない場所だな」

 ヒューは過去に数回しか来た事がなかった。

 地上三階建てのマーケット。取りたてて珍しい物がある訳ではないが、一箇所で大抵のものが揃う便利さは否定しない。おまけに、二階から上には衣料品や日用品を扱っていたし、レストランなどもある。

「ヒューさん、もしかして人ごみとか得意じゃないんですか?」

 ようやく広告から顔を上げたアンが、ふと周囲から注がれる視線に気付いて小首を傾げた。なんだか、異様に注目されていた。

「得意じゃない。疲れる」

 溜め息混じりの呟きに、アンは苦笑を漏らした。

 確かに、疲れるだろうなと思う。似たような現象を引き起こすハルヴァイトの場合は、周囲から注がれる視線や探るような気配をシャットアウト…というか、完全に無視か? …するという特技があるからまだマシなのだろうが、そういうものを全て読み取って害があるかないかを無意識に確認してしまうヒューでは、疲れて当然だろう。

 注がれるのは、惚けたような視線とか。ちらちらと盗み見るものから、無遠慮に突き刺さるものまで様々。

 もういい加減アンも慣れたが、とにかく、ヒューと街を歩くと…目だって仕方がない。

 無機質な銀髪に、研いだように端正な顔立ち。それから、印象的というより威圧的と取れる冷えた光を微かに覗かせた、サファイヤ色の双眸。まぁ、片親があのムービースターなのだから、と思ってしまえば納得行くが、そうでなければ、振り返って確かめて羨望の溜め息を一つくらい吐き付けたくなっても、致仕方ないだろう。

 しかも今日のヒューは、このまま本丸に届け物をするという「任務」のせいなのか、いつものように適当な衣装ではなく、黒地に、光沢のある灰色でストライプ状に細かなドットが並んだシャツと、ツヤ消しのレザーパンツを身につけ、ワインレッドのハーフコートを羽織っていた。それで、足元にいつもの踵を潰したワークブーツを引っ掛けようとしていた所を慌てて停めたのはアンで、結果、かなり分厚い底の黒いサイドゴアブーツに落ち着いた時、少年は本気で……引き攣った笑いを浮かべたものだ。

 最悪にガラが悪い。

 そして、最悪に目立つ。

 傍らを歩くアンの妙に可愛らしい色合いだとか姿だとかも込みで、だが。

「ヒューさん、今からでも遅くないですから、路線変更してみたりとか?」

 げんなりと溜め息を吐いたヒューを、くす、といかにも愛らしい笑みで見上げた少年がからかう。

「爽やか系に」

「それで今と同じ状況だったら笑えないし、救えない。恐ろしくて試す気も起こらないよ」

 なんだ、判ってるじゃないですか。と舌を出したアンの頭に軽く肘をぶつけたヒューが、憮然とした顔を少年から背ける。

 その拗ねた(らしい)横顔をくすくすと笑う少年が人ごみに飲まれそうになるとヒューは、視線を当ないままアンの腕を取って軽く引き寄せた。

「迷子になったら迷子センターに即問い合わせるぞ」

「うー。ヒューさんも迷子になったら…」

「大丈夫だ、俺はどこにいても目立つらしいからな」

 うわ、それって言い返せないじゃないですかぁ! と少年がまた声を立てて笑い、ヒューもつられて口の端を歪める。

 平和だなと思った。

 穏やかだなと思った。

「あ、あそこですよ、お店。へぇ、結構賑わってますねぇ。アリスさんがどこからか聞いて来るくらいだから、美味しいんですかね、シュークリーム」

 一瞬拓けた視界の先に見えたオープンカフェの店先に並ぶ人の列と、その向こうに置かれたガラスケース。パウダーシュガーを纏った柔らかな曲線の甘い菓子を指差してヒューを振り仰いだ時、少年は…………。

 なぜなのか、それまであった笑顔の片鱗を綺麗さっぱり消し去り、全ての感情を殺した無表情で正面だけを見つめているヒュー・スレイサーの、冷たい蒼い瞳を、見てしまった。

  

   
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